春正月 王処直の死
- 正月、王都は幽閉していた父の王処直を西第に見舞った。
- 王処直は王都の胸を殴って「逆賊、私はお前に何の負いがあったのか」と罵り、刃物があれば刺し違えんばかりにその鼻へ食らいつこうとした。王都は袖を引いて逃れた。
- まもなく王処直は憂憤のうちに死んだ。
正月 晋王、契丹を破る
- 晋王が新城南に至ると、斥候は契丹前鋒が新楽に宿し、沙河を渡って南下したと報告した。将士は皆色を失い、逃亡する者まで出た。
- 諸将は、寡兵では敵わず魏州へ退くか、鎮州囲みを解いて井陘へ避けるべきだと進言した。
- 郭崇韜は、契丹は王郁に誘われて財貨目当てに来たのであって、本気で鎮州を救う気ではなく、前鋒さえ挫けば退くと述べた。
- 李嗣昭も、いま強敵を前にしては進むのみで退けないと主張した。
- 晋王は、帝王の興起には天命があり、この程度の敵に退いては天下に面目が立たぬとして、自ら鉄騎五千を率いて進んだ。
- 新城北の桑林から姿を現すと、契丹騎兵一万余は不意を突かれて驚走した。晋軍は二手に分かれて数十里追撃し、契丹主の子を捕え、沙河の狭い橋と薄氷で多数を溺死させた。
- 晋王はその夜を新楽に宿り、契丹主は定州城下で敗残兵を収容すると望都へ退いた。
正月 望都の決戦と契丹撤退
- 晋王が定州に至ると、王都は馬前で迎え、愛娘を晋王子李継岌に嫁がせたいと申し出た。
- 晋王は望都へ進み、契丹軍と戦った。親軍千騎で先行したところ、奚の酋長托諾の五千騎に包囲され、自ら数度出入りして午後から夕刻まで苦戦した。
- 李嗣昭がこれを聞いて三百騎で横撃し、晋王は危地を脱した。そこから反撃に転じ、契丹は大敗した。
- 晋軍は易州まで追撃した。折からの大雪が十日も続き、平地に数尺積もったため、契丹軍は人馬の食を失って死者が道に相次いだ。
- 契丹主は「天がまだ我にここを与えていない」と言って北帰した。晋王は幽州まで追った。
- 晋王は、契丹軍が野宿した跡に敷草が整然と四角く並び、去った後も乱れがないのを見て、その軍紀の厳しさに感心した。
- ただし追尾していた晋の二百騎は深入りして逆に全滅し、わずか二人だけが別道から逃れて帰った。
- 契丹主は王郁を責めて縛って連れ帰り、以後はその計略を用いなくなった。
- 代州刺史李嗣肱は媯・儒・武州などを平定し、山北都団練使に任じられた。
梁の魏州襲撃失敗
- 晋王が北上して鎮州を攻めた際、李存審は梁が徳勝を攻めずに魏州を襲うと予測し、李嗣源と軍を分けて澶州にも備えた。
- 果たして戴思遠は楊村の全軍で魏州へ向かったが、李嗣源が先回りして狄公祠の下に布陣し、魏州にも警戒を伝えた。
- 戴思遠は魏店まで来たが、防備ありと知って西へ洹水を渡り、成安を攻めて大掠奪して引き揚げた。
- さらに五万で徳勝北城を攻め、幾重もの塹壕と砦で出入りを断ち、昼夜猛攻した。李存審は力戦して守った。
- 二月、晋王が幽州から五日で魏州に戻ると、戴思遠はそれを聞いて営を焼き、楊村へ逃げ帰った。
蜀主の微行
- 蜀主はしばしば身分を隠して出歩き、酒肆や遊女の家にまで出入りした。
- 人々が見分けて騒ぐのを嫌い、士民に大きな帽子を着用させた。
二月―四月 鎮州攻囲の動揺
- 閻宝は堤防を築いて鎮州を囲み、呼沱水を引き入れて城を囲ませた。内外の交通は断たれ、城中の食も尽きた。
- 二月丙午、城から五百余人が食糧を求めて出た。閻宝はこれを軽視して伏兵を備えなかったため、続いて数千人が出撃して長囲を破り、営に火を放った。
- 閻宝は防ぎきれず趙州へ退き、鎮州側は晋軍の営や糧草を取り戻した。晋王はこれを聞き、李嗣昭を北面招討使として閻宝に代えた。
四月 蜀主の暴政と李嗣昭の戦死
- 蜀では軍使王承綱の娘が婚礼を控えていたが、蜀主はこれも奪って入宮させた。王承綱が娘を返すよう求めると、蜀主は怒って彼を茂州へ流した。娘は父が罪を得たことを知って自殺した。
- 四月甲戌、張処瑾は九門へ糧を迎えに千人を出したが、李嗣昭が故営に伏兵を置いてこれをほぼ全滅させた。
- 生き残り五人が壁の残骸の間に潜み、李嗣昭が馬で囲んで射ようとしたところ、矢を放ってその頭部に命中させた。
- 李嗣昭は矢を頭から抜いて逆に射返し、一人を射殺したが、創傷は止まらず、その夜に死んだ。晋王は数日間、酒肉を断ってその死を悼んだ。
- 李嗣昭は遺命で沢潞兵を判官の任圜に委ね、鎮州攻略の号令を一元化させた。城中はまだ李嗣昭の死を知らなかった。
- 晋王は李存進を北面招討使とし、李嗣昭の子らに棺を護送させて晋陽へ葬らせようとした。
- しかし子の李継能は命に従わず、父の牙兵数千を率いて棺を擁し、独自に潞州へ帰った。晋王が弟の李存渥を派遣してなだめたが、兄弟は怒って危うくこれを殺しかけた。
- 李嗣昭の長子李継儔は本来継承者だったが弱く、弟の李継韜が彼を幽閉し、兵に擁立された形を装って留後となった。晋王は戦時中でもあり、昭義軍を安義軍と改称した上で李継韜を追認した。
- 閻宝は鎮州敗戦の恥と憤りから背に癰を発し、やがて死んだ。
漢主の危機
- 漢主劉巌は術士の言に従い、災いを避けるため梅口鎮へ遊んだ。
- そこは閩との西境に近く、閩将王延美が急襲したため、劉巌は辛うじて逃げ延びた。
五月―八月 衛州失陥
- 五月、李存進は鎮州東垣渡に営し、呼沱水を挟んで砦を築いた。
- 一方、晋の衛州刺史李存儒は、もと楊婆児という俳優上がりで、晋王の寵で刺史になっていたが、ひたすら収奪に励み、守備兵からも月ごとに課金して帰宅を許すような統治をしていた。
- 八月、梁の段凝・張朗は夜のうちに黄河を渡って衛州を襲い、翌朝には城上に登って李存儒を捕え、そのまま衛州を陥落させた。
- 戴思遠も加わって淇門・共城・新郷を攻略し、澶州の西・相州の南一帯は梁の支配に入った。晋は軍糧の三分の一を失い、梁軍は再び勢いを得た。
- 梁帝は張朗を衛州刺史に任じた。
九月 鎮州陥落
- 九月朔、張処瑾は弟の張処球に七千を与え、李存進の不意を突かせた。
- このとき晋の騎兵も鎮州へ向かっており、両軍はすれ違ったが、鎮兵は存進の営門まで迫った。李存進は十余人で橋上に踏みとどまって戦い、鎮兵を退けたところへ、別働の晋騎兵が後方を断って挟撃した。
- 鎮兵はほぼ全滅したが、李存進も戦死した。
- 晋王は李存審を北面招討使とした。
- 鎮州は食糧も兵力も尽き、張処瑾は行台に降伏を申し入れたが返答がないうち、李存審の軍が城下へ迫った。
- 丙午の夜、城中の将李再豊が内応し、縄を垂らして晋兵を引き入れた。夜明けまでに晋軍は全軍が入城し、張処瑾兄弟・家族・高濛・李翥・斉倹らを捕えた。
- 趙の人々は彼らの肉を食いたいとまで願い、張文礼の死体は市で磔にされた。
- 趙王王鎔の遺骸も灰燼の中から見つかり、晋王は祭って葬らせた。
- その後、符習を成徳節度使、烏震を趙州刺史、趙仁貞を深州刺史、李再豊を冀州刺史とした。
- 符習は、旧主に喪を尽くすまでは節度使を受けられないと辞退した。葬儀を終えると行台へ赴いた。
- 趙の人々は晋王自身が成徳節度使を兼ねるよう願い、晋王はこれに従った。
- さらに相・衛二州を分けて義寧軍を置き、符習を節度使にしようとしたが、符習は魏博の覇府を分割すべきではなく、自分は黄河以南の一鎮を自力で取りたいと願った。
- 結局、符習は天平節度使・東南面招討使となり、李存審には兼侍中が加えられた。
十一月―十二月 張承業の死と晋王の施政
- 十一月、晋の河東監軍張承業が死んだ。曹太夫人はその邸に赴き、子や甥に対するような喪礼を行った。
- 晋王はその訃報を聞いて数日食を断ち、何瓚に河東軍府を預けた。
- 十二月、晋王は張憲を鎮冀観察判官として鎮州の軍府を管掌させた。
- 魏州では租税の滞納が多く、晋王が司録の趙季良を叱ると、趙季良は、河南攻略を図るなら民を愛さねばならず、民心を失えば河北すら保持できないと諫めた。
- 晋王はこれを喜んで謝し、以後は趙季良を重用して軍議にも参与させた。
契丹・高麗
- この年、契丹は天賛と改元した。
- 高麗では王躬乂が残忍であったため、海軍統帥の王建がこれを殺して自立し、ふたたび高麗王を称した。開州を東京、平壌を西京とし、倹約で寛厚な政治を行ったため、国人は安んじた。