資治通鑑後唐紀一 莊宗 同光 元年 923年

春二月:後唐政権の人事と呉越の動き

  • 晋王李存勗は即位を前に、四鎮の判官の中から百官を置こうとし、旧唐の名門出身者を宰相に登用しようとした。河東節度判官の盧質を第一候補としたが、盧質は固辞し、代わりに豆盧革・盧程を推薦した。そこで李存勗は二人を召して行台左右丞相に任じ、盧質は礼部尚書とした。
  • 梁は兵部侍郎崔協らを遣わして銭鏐を冊封し、呉越王ではなく「呉越国王」とした。銭鏐はここで独自の国家儀礼を整え、宮殿・朝廷・制勅など、天子に近い称号を用いたが、改元までは行わなかった。配下の官制も整備し、丞相以下の百官を置いた。

三月:李継韜の離反と沢州の抵抗

  • 安義留後の李継韜は、名目上は晋王に従っていたが、不安を抱いていた。幕僚の魏琢や申蒙らは、晋の先行きは危うく、いずれ梁に呑まれると説き、李継韜の弟の李継遠もまた梁への帰順を勧めた。
  • そこで李継韜は李継遠を大梁へ送り、沢・潞を挙げて梁臣となることを願い出た。梁はこれを喜び、安義軍を匡義軍と改称して李継韜を節度使・同平章事に任じ、その子らを人質に取った。
  • しかし旧将の裴約はこれに従わず、沢州で兵に向かって、先主李嗣昭の志に背いて仇敵に降ることはできないと涙ながらに説き、州を拠って抗戦した。梁は董璋を沢州刺史として派遣し、攻撃に当たらせた。
  • このころ堯山の郭威が李継韜の募兵に応じた。郭威は血気盛んで殺人の罪により獄に繋がれていたが、李継韜はその才勇を惜しみ、逃がして用いた。

春:契丹の侵攻と軍の異動

  • 契丹が幽州へ侵攻すると、李存勗は誰を主将にすべきか郭崇韜に問うた。郭崇韜は李存審を推挙し、病身の李存審は輿に乗って赴任した。代わって李嗣源が横海節度使となった。
  • 契丹の度重なる侵入で、幽州では輸送路が脅かされ、食糧事情は深刻であった。潞州も内応者を抱え、人心は不安定で、梁を容易に攻められない空気が広がっていた。

夏四月:李存勗の即位

  • 四月己巳、李存勗は魏州牙城の南に壇を築いて天を祭り、そのまま皇帝に即位した。国号は唐とし、大赦を行い、年号を同光と改めた。
  • 生母の曹氏を皇太后、嫡母の劉氏を皇太妃とした。豆盧革を門下侍郎、盧程を中書侍郎とし、ともに同平章事とした。郭崇韜・張居翰を枢密使に任じ、盧質・馮道を翰林学士、張憲を租庸使、李徳休を御史中丞とした。
  • 太妃劉氏はもともと子がなく、曹氏に嫉妬せず、かつて武皇李克用に対しても曹氏を厚遇するよう勧めた人物であった。冊命の日、劉氏は心から曹氏を祝ったが、曹氏はかえって恐縮した。劉氏は、我が子が長く天下を保ち、自分たちの陵墓もきちんと守られるならそれでよいと語り、二人は涙した。
  • ただし、宰相となった豆盧革・盧程はいずれも軽薄で、力量に乏しいと見られていた。李存勗が彼らを起用したのは、名門出身であり、また覇府以来の旧臣だったためである。

即位後の体制整備

  • もと中門使だった李紹宏が幽州から呼び戻されたが、郭崇韜は彼が自分より上位に来るのを嫌い、張居翰を枢密使に推し、李紹宏は宣徽使に回された。このため李紹宏は郭崇韜を恨んだ。
  • 張居翰は慎み深く、軍国の機密は実際には郭崇韜が握った。支度務使の孔謙は自ら租庸使になるつもりだったが、出自が低いとして重任を避けられ、張憲が上に立ち、孔謙はその副とされたため不満を抱いた。
  • 魏州を興唐府として東京とし、太原府を西京、鎮州を真定府として北都とした。王正言を興唐尹、孟知祥を太原尹、任圜を真定尹とし、皇子李継岌を北都留守・興聖宮使に任じた。
  • 当時の後唐の版図は十三節度・五十州に及んだが、実際には昭義の沢・潞が梁に付いていたため、実効支配はそれより少なかった。

閏月:祖先の追尊と宗廟

  • 閏月、李存勗は曾祖の執宜を懿祖昭烈皇帝、祖の国昌を献祖文皇帝、父の晋王李克用を太祖武皇帝と追尊した。
  • 晋陽に宗廟を立て、高祖・太宗・懿宗・昭宗と、懿祖以下の祖先を合わせて七室とした。

閏月以後:鄆州奇襲の計画

  • 契丹は再び幽州へ侵入し、易・定まで進んで引き返した。後唐の北辺は不安定で、衛州は梁に奪われ、潞州も危うく、梁討伐の見通しはなお立ちにくかった。
  • そんな中、鄆州の将盧順密が後唐へ逃れてきた。彼は、鄆州の守備兵は千人にも満たず、劉遂厳・燕顒は人望を失っているので急襲できると進言した。
  • 郭崇韜らは危険すぎると反対したが、李存勗はひそかに李嗣源を呼んで相談した。李嗣源は、長年の戦争で民力は疲弊しており、奇策で大勝しなければ局面は変わらないとして、自ら出撃を願い出た。李存勗はこれを喜んだ。

三月末から四月:李嗣源の鄆州奪取

  • 壬寅、李嗣源は精兵五千を率いて徳勝から鄆州へ向かった。楊劉に着いたのは夕暮れで、雨も降っていたため将兵は進軍を嫌がったが、高行周は、かえって敵に備えがない好機だと励ました。
  • 一行は夜のうちに河を渡って鄆州城下に迫り、城内に察知されないまま接近した。李従珂が先登して門を開き、外兵を導き入れて牙城を攻めた。
  • 癸卯の朝には城内は大混乱となり、李嗣源は牙城を陥落させた。劉遂厳・燕顒は大梁へ逃げた。李嗣源は略奪と放火を禁じ、官吏と住民を安堵し、知州事の崔簹や判官趙鳳を興唐へ送った。
  • 李存勗は大いに喜び、李嗣源を天平節度使に任じた。梁主は鄆州喪失に震え、劉遂厳・燕顒を市で斬り、戴思遠を罷免して王彦章を北面招討使に起用した。

五月:王彦章の反撃と徳勝の危機

  • 李存勗は澶州に親征し、朱守殷に徳勝守備を命じて、王彦章の猛攻に備えるよう厳命した。朱守殷は李存勗の幼少時代からの近臣であった。
  • 一方、王彦章はわずか数日で滑州に達し、酒宴の最中を偽装してひそかに舟を準備し、夜のうちに巨斧を持たせた兵六百を流れに乗せた。さらに自らも精兵数千を率いて南岸から徳勝へ急行した。
  • 朱守殷が油断していたため、梁軍は鎖を焼き切って浮橋を断ち、南城を急襲して破った。王彦章は続いて潘張・麻家口・景店などの寨も次々に抜き、声勢を大いに振るった。
  • 李存勗は急使を楊劉へ送り、李周に固守を命じた。また徳勝北城を捨てて兵器・兵員を筏で河東へ流し、楊劉の防備へ回させたが、その過程で大きな損耗が出た。
  • 王彦章もまた河沿いに進み、双方の部隊は湾曲部ごとに激しく衝突した。舟は覆り、矢が飛び交い、互いに大損害を出した。
  • 己巳、王彦章と段凝は十万の兵で楊劉を昼夜攻め立て、巨艦を河津に並べて援軍を遮断した。城は数度危うくなったが、李周が士卒と苦楽を共にして守り抜いた。

六月:博州東岸の築城と戦線の安定

  • 李存勗は楊劉の救援に向かったが、日行百里を急ぐよう求める声に対し、李周が内で持ちこたえている以上、そこまで急ぐ必要はないとして六十里程度の進軍にとどめ、狩猟もやめなかった。
  • 六月乙亥、楊劉に到着したが、梁軍の塹壕と陣地は重なっていて容易に入れなかった。郭崇韜は、博州東岸に新たな城を築いて河津を押さえれば、鄆州との連絡を保てるうえ、王彦章の兵を分散させられると献策した。
  • ちょうど梁の康延孝が李嗣源に内応し、范延光が蝋書を携えて帝のもとに来た。さらに范延光は馬家口に城を築いて鄆州への道を通じさせるべきだと述べ、帝はこれに従った。
  • 郭崇韜は夜のうちに一万人を率いて馬家口に渡河し、昼夜兼行で築城した。六日後、王彦章が数万で急襲したが、城はまだ低く脆く、防備も整っていなかった。それでも郭崇韜は自ら前線に立って兵を励まし、帝も大軍を率いて西岸に現れたため、梁軍は包囲を解いて鄒家口へ退いた。
  • これにより鄆州との連絡が回復した。李嗣源は、徳勝で敗れた朱守殷の罪を問うよう密奏したが、帝は処罰しなかった。

七月:王彦章の失脚

  • 七月、帝は河に沿って南下し、梁軍は鄒家口を捨てて再び楊劉に向かったが、唐の遊兵に敗れて動揺した。段凝はこれを見て、唐軍が上流から渡河したのではないかと驚き、王彦章の深入りを責めた。
  • 帝はさらに斥候を捕え、火筏で梁の連艦を焼いた。王彦章らは帝の接近を知ると楊劉の囲みを解いて楊村へ退き、唐軍は追撃した。
  • この一連の戦いで梁軍は矢石・溺死・暑熱などにより一万人近くを失い、資糧・甲仗・幕舎も大量に捨てた。楊劉は包囲解除の時点で三日も食糧が尽きていた。
  • 王彦章はもともと趙巌・張漢傑らの専横を憎み、成功ののちには彼らを誅するつもりだと漏らしていたため、趙・張は段凝と結んで王彦章を妨害した。戦功も段凝のものとして奏上され、王彦章はついに失脚し、大梁へ呼び戻された。代わって段凝が北面招討使となった。
  • 同じころ、盧程は私事で興唐府の吏を鞭打ちした上、任団に対して暴言を吐いた。帝は激怒し、自害を命じようとしたが、盧質が強く救ったため、盧程は右庶子へ左遷されるにとどまった。

八月:沢州陥落と段凝の前進

  • 裴約は使者を送って救援を求めた。帝は、李嗣昭の子にして逆心を起こした李継韜とは違い、裴約だけは忠義を知る人物だとして惜しみ、李紹斌に命じて救援させた。
  • しかし八月壬申に李紹斌が五千で向かった時にはすでに城は落ち、裴約は戦死していた。帝はこれを深く惜しんだ。
  • 帝は楊劉から興唐へ戻った。梁主は滑州で黄河を東へ決壊させ、曹・濮・鄆の方面へ流して唐軍の進出を妨げようとした。
  • 段凝は趙巌・張漢傑に賄賂を贈って北面招討使となり、敬翔・李振らの反対も退けられた。宿将も兵もこれに不服で、張宗奭や敬翔は国運を危ぶんで諫めたが、梁主は聞き入れなかった。
  • 戊子、段凝は五万を率いて高陵津から渡河し、王村に営して澶州の諸県を掠めた。王彦章には別に兖・鄆方面一万人が与えられ、鄆州奪回を図らせ、張漢傑がその軍を監した。

八月末:康延孝の亡命と梁の弱体化の情報

  • 戊戌、康延孝が百余騎を率いて後唐へ投降した。帝は自分の錦袍と玉帯を与え、南面招討都指揮使・博州刺史に任じた。
  • 帝が人払いして梁の事情を問うと、康延孝は、梁は領土も兵力も少なくないが、主君が暗愚で、趙巌・張氏兄弟が内外で権力と賄賂をほしいままにし、官位は賄賂の多少で決まり、段凝のような無才者が名将王彦章・霍彦威の上に立っているため、必ず敗亡すると述べた。
  • また梁は多方面から同時に攻める計画だが、兵は集まれば多くても分かれれば脆いので、敵が兵を分散させたところを狙い、鄆州から精騎五千でまっすぐ大梁を衝けば一月以内に天下は定まると進言した。帝は大いに喜んだ。

蜀の政治の乱れ

  • 蜀では王衍が韓昭・潘在迎・顧在珣らを近習として寵愛し、遊宴では宮女と雑坐し、艶歌や冗談に耽った。宋光嗣ら枢密使は国政を専断し、王鍇・庾伝素ら宰相は保身に走って諫めなかった。
  • 潘在迎は諫言する者を誅すべきだと王衍を煽り、嘉州司馬劉贊は陳後主の三閣図を献じて諷諫し、蒲禹卿もきわめて直截な策を上げたが、王衍は用いなかった。
  • 九月庚戌、重陽の宴で嘉王王宗寿が社稷の危機を泣いて諫めたが、韓昭・潘在迎は酒の上の戯れとして笑いに紛らわせた。

九月:後唐内部の悲観論と郭崇韜の主戦論

  • 帝が朝城に進んだころ、段凝も臨河南へ進出し、澶州西・相州南で掠奪が続いた。徳勝敗北以来、莫大な糧秣を失い、孔謙は苛斂を強めたため、民は流亡し、国庫は半年も持たぬ状態となった。
  • さらに契丹や梁の多方面侵攻の噂も重なり、帝は不安を深めて諸将を集めて会議した。李紹宏らは、孤立した鄆州を捨てて衛州・黎陽との交換、さらには梁との講和を提案した。
  • 帝は怒って、そんなことをすれば自分に葬られる地もなくなると言い、郭崇韜だけを呼んで意見を求めた。郭崇韜は、十数年の戦いは家国の仇を雪ぐためであり、ここで鄆州のわずかな土地さえ守れず捨てれば中原など得られない、兵も瓦解すると論じた。
  • さらに、梁は精兵を段凝に集中させ、自ら決河して安心しきっているので、大軍の一部を魏に残して楊劉を守らせ、自ら精兵を率いて鄆州と合流し、そのまま大梁へ突入すれば城内は空虚で崩れるはずだと説いた。帝はこれに同意し、勝てば王、敗れれば賊だとして決断した。
  • 司天監は今年は深入りに不利だと奏したが、帝は従わなかった。

秋:鄆州方面の勝利

  • 王彦章は汶水を越えて鄆州を攻めようとしたが、李嗣源は李従珂に騎兵を率いさせて迎撃させ、遞坊鎮でその前鋒を破り、多数の将士を捕虜とした。王彦章は中都に退いた。
  • 戊辰、その捷報が朝城に届くと、帝は大いに喜び、鄆州の勝利で士気が大いに振るったと言った。
  • 翌己巳、帝は将士に対し、家族をすべて興唐へ帰すよう命じ、自らは決戦に向かう覚悟を固めた。

冬十月:大梁攻略の開始

  • 辛未朔に日食があった。帝は魏国夫人劉氏と皇子李継岌を興唐へ帰し、もし敗れるなら魏宮に一家を集めて焼くよう言い残した。豆盧革・李紹宏・張憲・王正言には東京守備を命じた。
  • 壬申、帝は大軍を率いて楊劉から渡河し、癸酉に鄆州へ至った。夜中に進軍して汶水を越え、李嗣源を前鋒とした。
  • 甲戌の朝、梁兵と遭遇してこれを破り、中都まで追撃した。城には守備の備えが乏しく、まもなく梁軍は潰走した。王彦章は数十騎で逃れたが、李紹奇が追って重傷を負わせ、ついに捕らえた。張漢傑・李知節・趙廷隠・劉嗣彬らも捕らえられた。
  • 帝は王彦章に、お前は自分を「闘鶏小児」と侮ったが今はどうかと問い、またなぜ兗州を守らず中都にいたのかと責めた。王彦章は、天命が去った以上、言うことはないと答えた。
  • 帝はその才能を惜しんで治療を施し、幾度も降伏を勧めたが、王彦章は、梁の恩で上将となった以上、朝に梁将で暮れに唐臣となることはできないと拒絶した。李嗣源が自ら説得しても翻意しなかった。

十月:大梁急襲の決定

  • 諸将は、先に東方諸鎮を平定してから大梁を図るべきだと慎重論を唱えたが、康延孝は即時大梁を取るべきだと主張した。
  • 李嗣源も、兵は神速を尊ぶとして賛成した。段凝はまだ王彦章が敗れたことを知らず、知ったとしても決河のためすぐには救援できない。ここから大梁までは近く、昼夜兼行すればすぐに到着でき、段凝が動けぬうちに朱友貞を捕えられると説いた。
  • 帝はこれを採用し、その夜のうちに李嗣源が前軍を率いて大梁へ倍道進軍した。翌日、帝も中都を発し、王彦章を輿に載せて従えた。
  • 中使が、今回の進軍は成功するかと王彦章に問うと、段凝に六万の精兵がいる以上、たとえ主将が不才でもそう簡単には崩れまいと答えた。帝は、ついに王彦章を用い得ないと知って斬った。

十月末:梁の滅亡

  • 丁丑、唐軍は曹州に至り、守将は降伏した。王彦章敗走の兵は先に大梁へ着き、梁主に唐軍の急迫を告げた。梁主は一族とともに泣き、群臣に策を求めたが答えられる者はいなかった。
  • 敬翔は、自分は朱氏の老僕にすぎず、これまで忠言を尽くしたが、段凝起用の不可を説いても用いられなかったと泣いて訴えた。今となっては出避も奇策も陛下には実行できまい、良平が再び現れてもどうにもならぬとして、自分を先に死なせてほしいと願った。
  • 城中にはなお控鶴軍数千があったが、朱珪の出撃案も採られなかった。梁主は兄弟たちが変を起こすことを恐れ、友誨・友諒・友能・友雍・友徽ら宗室を殺した。
  • 梁主は建国楼に登って親信を選び、蠟詔を持たせて段凝に急報しようとしたが、使者は逃げ散った。洛陽への逃避、大軍への合流、宝を抱いて偽降する策なども出たが、いずれも定まらなかった。
  • 趙巌は許州へ逃亡した。梁主は皇甫麟に自分の首を取るよう命じ、皇甫麟がためらうと、売るつもりかと責めた。ついに皇甫麟は梁主を弑し、自らも自殺した。梁主朱友貞は、性格は温和で倹約家だったが、趙巌・張漢傑らを寵して敬翔・李振ら旧臣を疎んじ、その諫言を用いなかったため滅亡に至った。

十一月:後唐の大梁入城

  • 己卯の朝、李嗣源軍が大梁の封丘門を攻めると、王瓚が門を開いて降伏した。李嗣源は入城して軍民を安堵した。その日のうちに帝も梁門から入城し、百官は馬前で罪を請うたが、帝は慰労して各々元の職に戻した。
  • 李嗣源が賀を述べると、帝は大いに喜び、彼の衣を引き寄せて頭をぶつけながら、天下はお前父子の功で得たもので、共に分かち合うべきだと言った。
  • 梁主の首はやがて献上された。敬翔は、新君にどう顔向けできようかと言って縊死し、李振もまた梁滅亡後に入朝することを恥じるべきだと非難された。
  • 庚辰、梁の百官は朝堂で再び罪を請い、赦された。許州へ逃げた趙巌は、温韜に迎えられたが、その後首を斬られて献上された。
  • 辛巳、朱友貞の屍は仏寺に殯し、その首は漆で固めて函に納め、太社に蔵された。

十一月:段凝の降伏と梁旧臣の処置

  • 段凝は滑州から渡河して救援に向かったが、封丘で杜晏球が先に降り、壬午には段凝も五万を率いて鎧を解き、降伏した。帝は将兵を慰撫し、それぞれの部署へ戻らせた。
  • 段凝は公卿の間を得意げに出入りしたが、梁の旧臣たちは皆、その顔を食い破り心を抉りたいほど憎んだ。
  • 丙戌、鄭珏・蕭頃・劉岳・任贊・姚顗・封翹・李懌・竇夢徴・劉光素・陸崇・王権ら梁の高官が左遷された。唐の恩を受けた家柄でありながら梁で顕達したことが理由であった。
  • また段凝・杜晏球の上言により、趙巌・趙鵠・張希逸・張漢倫・張漢傑・張漢融・朱珪らは、威福をほしいままにし民を害したとして誅された。敬翔・李振は朱温を助けて唐を倒した首悪として、一族とともに処刑された。さらに朱温と朱友貞は庶人に落とされ、宗廟も破却された。

十一月:諸藩の帰順と郭崇韜の台頭

  • かつて梁軍の陸思鐸が戦場で帝の馬鞍を射抜いたことがあった。帝はその矢を保管しており、陸思鐸が降伏するとそれを示したが、罪を許して龍武右廂都指揮使に任じた。
  • 豆盧革がまだ魏にいたため、帝は郭崇韜に中書事を仮行させた。梁の諸藩鎮は次々に入朝・上表し、帝はおおむね慰撫した。
  • 宋州節度使袁象先は真っ先に入朝し、大量の珍貨を劉夫人や権貴・伶官・宦官に配って一躍評判を得た。続いて陜州留後霍彦威も来朝した。
  • 己丑、梁時代の節度使・観察使・防禦使・刺史や諸将校の大半は更迭せず、そのまま任用された。
  • 庚寅、豆盧革が魏から到着し、甲午には郭崇韜が侍中・成徳節度使を加えられた。郭崇韜は内外の政務に深く関わって忠実に働き、人材登用も行ったが、豆盧革はこれを追認するだけであった。
  • 丙申、段凝には李紹欽、杜晏球には李紹虔の姓名が与えられた。のちに二人とも本姓へ復した。

十一月:張全義・高季興・諸国の対応

  • 乙酉、梁の西都留守張宗奭が来朝し、本名の張全義に戻された。帝は皇子李継岌や弟の李存紀に張全義を兄として遇させた。
  • 帝は梁太祖朱温の墓を暴いて棺を壊し遺体を焼こうとしたが、張全義が、死者への刑は不要で一族の滅亡で十分だと諫めたため、墳墓の建物や封土を削るだけにとどめた。
  • 李嗣源には中書令が加えられ、李継岌は東京留守・同平章事となった。
  • 諸道の梁任命節度使ら五十余人は皆、上表して貢を献じた。楚王馬殷は子の馬希範を入朝させ、洪鄂行営都統印と部内将吏籍を差し出した。荊南の高季昌は、唐の廟諱を避けて高季興と改名した。
  • 高季興はみずから入朝しようとしたが、梁震は、唐には天下を併呑する志があり、しかも高季興は旧梁の将である以上、危険だと止めた。それでも高季興は従わず、入朝した。
  • 唐は滅梁を呉・蜀にも告げ、両国は恐れた。徐温がどうすべきかを厳可求に問うと、厳可求は、唐主はいずれ驕って内乱を招くから、今はへりくだって礼を尽くし、国境を守って待つべきだと答えた。

呉との外交と鍾泰章事件

  • 唐の使者は詔書の形式で呉に書を送ったが、呉は受け取らず、帝は敵国に対する形式に改めて「大唐皇帝より呉国主へ」とした。呉も「大呉国主より大唐皇帝へ」と答えたが、文体はなお臣下の上表に近かった。
  • 寿州団練使鍾泰章が官馬を不正に買ったとの訴えが出ると、徐知誥は王稔を霍丘巡察の名目で派遣し、その場で鍾泰章に代えて寿州団練使とした。
  • 徐温は鍾泰章を金陵に呼んで取り調べさせたが、鍾泰章は弁明しなかった。自分に不忠の心があるなら、寿州で数千の兵を握っていたのだからいくらでも動けた、今さら朝廷の失策を言い立てるのは義に反すると考えたからである。
  • 徐知誥は法で処すべきだと求めたが、徐温は、張顥の変のとき鍾泰章がいなければ自分は死んでいたとして恩を忘れず、自分の子にその娘を娶らせて和解した。

彗星と蜀の諫死

  • 彗星が輿鬼に現れ、一丈余に及んだ。蜀の司天監は大災の前触れとしたので、蜀主は玉局化で道場を設けた。
  • これに対し右補闕張雲は、これは民の怨みが天に達したためで、亡国の徴であり、祈禳では防げないと上疏した。蜀主は怒って張雲を黎州に流し、その地で死なせた。

十一月:伶人・宦官の専横

  • 郭崇韜は、河南の節度使・刺史らが上表しても新官をまだ授けられていないため、不安を抱かせると進言し、十一月になって正式の制書が下された。
  • 滑州留後の李紹欽は伶人景進を通じて宮中へ賄賂を贈り、泰寧節度使に昇進した。
  • 帝は若いころから音律を好み、伶人を寵愛した。自ら顔に粉墨して芸人と戯れ、劉夫人を喜ばせることもあった。敬新磨という優人は、帝が芝居で「李天下」と自称した際、平手打ちして「天下を治める李は一人だけだ」とたしなめたが、帝はかえって喜んで褒美を与えた。
  • また中牟で狩りをした際、県令が民の作物を踏み荒らすなと諫めて怒りを買ったが、敬新磨がわざと県令を叱る形で帝を笑わせ、処刑を免れさせた。
  • しかし伶人たちは宮中に自由に出入りし、士大夫を侮辱した。群臣は憤っても声を上げられず、逆に彼らに取り入って恩を求める者まで現れた。諸藩鎮も競って賄賂を贈った。
  • とりわけ景進は、民間の些細な噂話まで集めて帝に伝え、帝も外の情勢を知りたいとしてこれを委ねたため、景進は讒言をほしいままにした。宰相や大臣さえ彼を恐れ、孔謙は兄のように仕えた。

十一月下旬:朱友謙の入朝、遷都決定、温韜の赦免

  • 壬寅、岐王李茂貞は、梁滅亡を賀する書を送り、自分を帝の季父として位置づけ、かなり尊大な文面を用いた。
  • 癸卯、河中節度使朱友謙が入朝し、帝は宴席でも寵遇でも格別の厚遇を示した。張全義は洛陽への遷都を勧め、帝はこれを容れた。
  • 乙巳、朱友謙には李継麟の姓名が与えられ、李継岌に兄として遇させた。康延孝には李紹琛、袁象先には李紹安、温韜には李紹冲の姓名が与えられた。
  • 温韜もまた大量の金帛を劉夫人・権貴・伶官・宦官へ配り、すぐに再び鎮へ帰された。郭崇韜は、温韜は唐の山陵をほとんど暴いた大罪人で、朱温に等しい罪だと強く非難したが、帝は、入汴当初にすでに赦してしまったとしてそのままにした。

十一月末:官制整理と宰相人事

  • 中書省は、国用不足のため、三省・寺監の官は必要最小限だけ残し、その他は現任者が二十五月満期を迎えるごとに順次交代させるよう上奏し、武官についても同様とした。人々はこれに不満を持った。
  • 梁の均王が南郊祭祀を行うため洛陽に準備していた儀物が揃っていたので、張全義は帝に、早く洛陽へ行って宗廟を拝し、そののち郊祀を行うべきだと勧め、帝も従った。
  • 文武百官には先に洛陽へ赴くよう命じられた。議者は、郭崇韜は功臣ではあっても朝廷典故に疎いので、旧唐以来の名家を宰相として補うべきだと考えた。
  • 豆盧革は韋説を推し、郭崇韜は薛廷珪・李琪を退けて趙光胤を推した。丁巳、趙光胤を中書侍郎、韋説を同平章事とした。趙光胤は軽率で自負が強く、韋説は慎重だが守旧的だった。
  • 趙光逢は梁朝で相位を退いてから門を閉ざしていたが、弟の趙光胤が政事を語ると、後日「中書事を語るべからず」と門に書き付けた。
  • 孔謙は張憲の公正を恐れ、租庸使の職権を独占したかったので、東京の重地には張憲が必要だと郭崇韜に進言し、張憲は東京副留守・知留守事として魏州へ出された。
  • 戊午、豆盧革が租庸使と諸道塩鉄転運使を兼ね、孔謙はますます失望した。
  • 己未、張全義に尚書令、高季興に中書令が加えられた。帝が呉と蜀のどちらを先に攻めるべきか高季興に問うと、高季興は、呉は土地が痩せ民も貧しく取っても益がない、蜀は富饒で主君も荒れており民も怨んでいるので先に蜀を取るべきだと答え、帝は同意した。

十二月:洛陽遷都と諸制度の復旧

  • 辛酉、永平軍大安府を改めて西京京兆府とした。甲子、帝は大梁を発して洛陽へ向かい、庚午に到着した。
  • 呉越王銭鏐は杜建徽を左丞相に任じた。
  • 壬申、汴州の宮苑を行宮とし、耀州を順義軍、延州を彰武軍、鄧州を威勝軍、晋州を建雄軍、安州を安遠軍とした。その他の藩鎮もおおむね唐旧名に復した。
  • 庚辰、御史台は朱温が律令格式を改変したことを問題とし、梁の法令を廃して旧唐の法令を復すべきだと奏した。定州の敕庫にだけ旧本が揃っているとされ、その送付が命じられた。

年末:李継韜一族の末路

  • 梁が滅ぶと、李継韜は恐れおののき、北へ契丹へ逃げようかとも考えた。だが朝廷から召命が下ると、弟の李継遠は、反逆者の名を負った以上どこへ行っても同じであり、むしろ城を固めて粟を蓄え延命すべきだと主張した。
  • 一方で、李継韜の父李嗣昭は国家の大功臣で、帝にとっても叔父のような立場だから、入朝しても害はないと説く者もいた。母の楊氏は財をよく蓄え、一家は莫大な銀と財貨を携えて上京し、伶人や宦官に賄賂をばらまいた。
  • 人々は、李継韜はもともと邪心があったのではなく姦人に惑わされただけで、李嗣昭のような親賢の家を絶やしてはならぬと口を添えた。楊氏も宮中で泣いて命乞いし、劉夫人も取りなしたため、帝は李継韜を赦して一か月余り寵遇した。
  • しかし李存渥はこれを強く非難し、李継韜も不安にかられて帰鎮を願った。帝は許さなかったが、李継韜はひそかに李継遠へ書を送り、軍中に放火して騒ぎを起こし、その鎮圧のため自分を派遣させようと企てた。
  • 事が発覚すると、辛巳に李継韜は登州長史に貶されたのち、まもなく天津橋南で斬られ、二子も殺された。使者が派遣され、李継遠も上党で斬られた。
  • 李継達が軍城巡検に任じられ、李継儔が召還されることになったが、李継儔は李継韜の後宮や財貨の整理にふけって出発を遅らせたため、李継達は同族四人が誅されているのに骨肉の情もなく貪る姿を恥じ、兵を率いて反乱を起こし李継儔を斬った。だが市民兵に攻められて失敗し、妻子を殺して自殺した。

年末:呉使の観察、高季興の帰国、荊南の備え

  • 呉王は再び盧蘋を使者として送り、厳可求は帝が何を問うかを先回りして教えた。盧蘋が帰ると、唐主は遊猟にふけり、財を惜しんで諫言を退け、内外に怨まれていると報告した。
  • 高季興は洛陽で伶官らに財貨を求められて憤っていた。帝は彼を引き留めようとしたが、郭崇韜は、新たに天下を得たばかりの時に、自ら来朝した諸侯を拘束しては信義を失い、人心を損なうと諫め、帝はこれを許した。
  • 高季興は急いで帰国し、途中の許州で、この入朝には来たことと帰したことの二つの失敗があったと語った。襄州では孔勍の留宴中に中夜のうちに関を破って去り、江陵へ帰ると、梁震の手を握って、その進言に従わなかったため危うく虎口を免れぬところだったと言った。
  • さらに高季興は将佐に対し、唐の新君は十数年の戦争でようやく河南を得たのに、功臣たちの前で十本の指を広げ、天下はこの指の上で取ったなどと誇っており、他人を無功としてしまう。しかも色と猟に耽っていては長く続かないと評した。
  • そこで江陵の城を修築し、穀物を蓄え、梁の旧兵を招き入れて、戦守の備えを固めた。