春正月 蜀・呉の事件
- 蜀の桑弘志は金州を攻め落とし、全師朗を捕えて成都へ送った。蜀主はこれを赦した。
- 呉の張崇は安州を攻めたが、攻略できずに引き返した。
- 張崇は廬州で貪暴であったため、徐知誥は侍御史知雑事の楊廷式を派遣して取り調べさせた。楊廷式は、県令だけを責めても意味はなく、背後で利益を吸い上げる張崇と、さらにその上の都統まで問題にすべきだと主張したため、徐知誥はその見識を重んじた。
三月 晋の将帥更迭
- 晋王は魏州を得て以来、李建及に魏博の精兵を率いさせていた。李建及は賞を兵卒と分かち合い、よく戦ったが、同僚の嫉妬を受けた。
- 宦官の韋令図が、李建及は私財で兵を懐柔しており野心があると讒言したため、晋王は疑いを抱いた。
- 三月、晋王は李建及の軍職を解き、代州刺史に転じた。
漢の制度整備
- 漢では楊洞潜が学校の設立、科挙の実施、官吏登用制度の整備を求め、漢主劉巌はこれに従った。
四月 梁の宰相更迭と朱友謙の離反
- 四月、梁では李琪が宰相となったが、性格は疎放で、趙巌・張漢傑の勢いを頼みに賄賂にも通じていた。
- 同じ宰相の蕭頃は李琪の失点をうかがっており、李琪が仮官を正式任官のように改めて便宜を図った件を奏上したため、梁帝は激怒した。趙巌・張漢傑の取りなしで流罪は免れたが、李琪は罷免された。
- 河中節度使の朱友謙は兵を出して同州を奪い、程全暉を逐ったうえで、子の朱令徳を忠武留後とし、節鉞を求めた。
- 梁帝はいったん怒って拒んだが、朱友謙の怨みを恐れて兼忠武節度使とした。しかしこの頃には朱友謙はすでに晋王に節鉞を求めており、晋王も墨書の制で朱令徳を忠武節度使に任じた。
五月 呉の宣王の病と薨去
- 呉の宣王楊隆演は、徐温父子が専政しても不満を顔に出さず、徐温もそのため安心していた。
- だが建国・称制ののちはいっそう心にかなわず、酒に沈み食も進まなくなって病を得た。
- 五月、徐温が金陵から入朝し、後継を議した。周囲には徐温自身が位を取るべきだと迎合する者もあったが、徐温はこれを厳しく退け、楊氏に男子がいなければ女子を立ててもよいほどで、自分が奪う意図はないと述べた。
- そこで王命によって丹楊公楊溥を迎えて監国とし、楊隆演の兄の楊濛は舒州団練使に移された。
- まもなく宣王楊隆演が二十四歳で没した。六月、楊溥が呉王として即位し、母の王氏を太妃とした。
六月 梁の同州攻め
- 蜀では周庠が同平章事のまま永平節度使となった。
- 梁帝は劉鄩を河東道招討使とし、尹皓・温昭図・段凝らに同州攻撃を命じた。
閏六月 蜀主の原廟建立
- 蜀主は万里橋に高祖王建の原廟を造営し、自ら后妃百官を率いて、日常の嗜好品まで供えて鼓吹を用いる祭礼を行った。
- 華陽尉の張士喬はこれを礼に背くと諫めたが、蜀主は怒って死罪にしようとした。太后の取りなしで黎州へ流されたものの、張士喬は憤って水に身を投げた。
秋七月 晋の同州救援
- 劉鄩らに包囲された朱友謙は晋に救援を求めた。
- 晋王は李存審・李嗣昭・李建及・李存質を派遣して救援させた。
- 蜀では北巡の詔が下され、韓昭が文思殿大学士に抜擢された。韓昭は学識によるのでなく、媚びへつらいで寵を得ており、州刺史の官を売って私邸造営の資金にすることまで許されていたため、識者は蜀の滅亡の兆しと見た。
八月―九月 蜀主の北巡
- 八月、蜀主は黄金の甲冑に珠飾りの冠で出発し、軍列は百余里に及んだ。
- 雒県令の段融は、都を遠く離れるべきではなく、大臣に征討を委ねるべきだと諫めたが、聞き入れられなかった。
- 九月、蜀主は安遠城に進んだ。
秋九月 同州方面で晋軍勝利
- 李存審らは河中に着くと即日黄河を渡って同州へ向かった。
- 梁軍は河中兵を軽く見て毎回深追いしていたため、李存審は精鋭二百を河中兵に紛れ込ませて劉鄩の陣へ寄せ、追ってきた梁軍に晋軍到着を悟らせた。梁軍は大いに驚き、以後は軽々しく出撃しなくなった。
- 晋軍は朝邑に布陣した。河中は長く梁に属していたので将士に二心があり、物価も高騰したが、朱友謙はかつて晋王が自分を救ってくれた恩と、今回も兵糧を分けて救援してくれたことを理由に、梁へ寝返るべきだという子らの勧めを退けた。
- 晋軍は華州を攻めて外城を壊し、その後じわじわと劉鄩の営に迫った。梁軍は総力で戦って敗れ、羅文寨へ退いた。
- 李存審は、追い詰めすぎると敵は必死になるとして退路を開け、沙苑に牧馬するように見せた。すると劉鄩らは夜逃げしたので、渭水まで追撃して大破した。
- 晋軍は関中諸地に檄を飛ばして帰附を促し、下邽まで進出したうえで、唐帝の陵に参拝して哭し、引き揚げた。
梁の静勝軍処理
- 河中兵が崇州へ進むと、静勝節度使温昭図は大いに恐れた。
- 梁帝は竇維を遣わして説得させた。竇維は、温昭図の領地は実質的に二県にすぎず、名ばかりの節度使であると諭し、より良い地位を望むなら図ってやると言った。
- その結果、温昭図は移鎮を願い出て、梁帝は華温琪を静勝留後とした。
冬十月―十一月 蜀の岐遠征
- 十月、蜀主は武定軍へ赴いたが、数日で安遠へ戻った。
- 十一月、王宗儔を山南節度使・西北面都招討行営安撫使とし、王宗昱・王宗晏・王宗信を副将として岐を討たせた。
- 蜀軍は故関から咸宜へ壁を築き、良原へ進んだ。王宗儔は隴州を攻め、岐王李茂貞は自ら一万五千で汧陽に屯した。
- 別働隊の陳彦威は散関から出て箭筈嶺で岐兵を破ったが、蜀軍は兵糧が尽きて撤退した。王宗昱は泰州、王宗儔は上邽、王宗晏・王宗信は威武城に駐屯した。
十二月 蜀主の江上遊幸
- 蜀主は安遠を発して利州に至り、さらに閬州団練使林思諤の招請を受けて閬州へ向かった。
- 江を下る龍舟や彩船は華美を極めたが、沿道の州県は供給に苦しみ、民は怨み始めた。
- 閬州では何康の娘が美貌ゆえに、婚礼直前に蜀主に召し取られた。夫の家には絹百匹が与えられたが、婿は悲しみのあまり死んだ。
- その後、蜀主は梓州に至った。
趙王鎔の暗殺前夜
- 趙王王鎔は累代にわたり成徳を治め、趙人の支持を受けていたが、富貴の中で育ち、政務を自ら執らず、僚佐に依存するようになっていた。
- 行軍司馬李藹、宦官李弘規、特に石希蒙らが内外で権勢を振るった。
- 張文礼はもと劉仁恭配下で、滄州の乱後に鎮州へ逃れて王鎔の養子となり、王徳明と改名して軍事を委ねられていた。
- 晩年の王鎔は仏事・仙術に耽り、西山に壮麗な館宇を築き、しばしば長期の遊楽に出て、将士・民衆に重い負担をかけた。
- この月、西山から帰って鶻営荘に泊まった際、石希蒙はさらに他所へ移るよう勧めたが、李弘規は、晋王が命を賭して梁と戦っているのに、王鎔が遊興にふけって府第を空けるのは危険だと諫めた。
- 王鎔はいったん帰ろうとしたが、石希蒙は李弘規が威を示そうとしているだけだと密かに言い、王鎔はその場に留まった。
- 李弘規は内牙都将蘇漢衡に命じて親軍を武装させ、帰府を強く求めさせたうえで、石希蒙こそ叛逆の疑いがあるとして誅殺を求めた。
- 王鎔が同意しないうちに牙兵は騒ぎ立て、石希蒙を斬って王鎔の前に首を投げ出した。王鎔は怒りかつ恐れて帰府した。
- その夜、王鎔は長子王昭祚と王徳明に命じて李弘規・李藹の邸を包囲し、一族と関係者数千家を誅した。蘇漢衡も殺され、親軍は大いに不安を抱くことになった。
呉・閩・漢・呉越
- 呉では金陵城が完成し、陳彦謙が経費帳簿を徐温に提出したが、徐温は全幅の信任を示して、内容を確認もせず焼き捨てた。
- 閩では王審知の従子・泉州刺史王延彬が、白鹿や紫芝の出現を帝王の兆しとする僧の言を信じて驕り、密かに海路で朝貢し、泉州節度使を求めた。発覚すると王審知は僧浩源らを誅し、王延彬を失脚させた。
- 漢主劉巌は蜀へ使者を送り、友好を通じた。
- 呉越王銭鏐は、子の銭伝琇の婚姻を楚に求め、楚王馬殷はこれを許した。