冬十月 晋・梁の徳勝争奪戦
- 晋王は魏州に赴き、数万人を動員して徳勝北城を拡張した。梁軍とは日々激しく衝突し、大小百余戦に及んだ。
- 左射軍使の石敬瑭が黄河沿いで梁軍と戦った際、馬の甲冑を断たれて危地に陥ったが、横衝兵馬使の劉知遠が自分の馬を譲り、劉知遠自身は傷んだ馬に乗って殿を務めたため、梁軍は伏兵を疑って深入りせず、二人とも助かった。これ以来、石敬瑭は劉知遠を親しく遇した。
兗州の陥落
- 劉鄩は長く兗州で張万進を包囲し、城内は窮乏していた。張万進は配下の劉処譲を晋に派遣して救援を求めた。
- 晋王は当初これを許さなかったが、劉処譲が軍門で自ら耳を切って決意を示したため、義に感じて出兵しようとした。
- しかしその時にはすでに劉鄩が兗州を攻略し、張万進一族を誅殺していたため、出兵は中止された。晋王は劉処譲に官を授けた。
十一月 梁・呉の動き
- 呉の武寧節度使張崇が安州を攻めた。
- 梁では劉鄩が張万進平定の功により、再び泰寧節度使・同平章事に任じられた。
梁軍の敗北と濮陽攻略
- 王瓚が戚城まで進んで李嗣源と戦ったが不利であった。梁軍は潘張に砦を築き、糧秣を貯えた。
- 十二月、晋王は自ら騎兵を率い、黄河南岸を西進して梁軍の補給を遮断し、戦果を挙げて帰ったが、帰路で伏兵に遭って大敗した。晋王自身も数百騎の包囲を受けたが、李紹栄が旗印を見分けて単騎で突入し、辛うじて救出した。
- その後、晋王は再び王瓚と河南で戦い、最初は梁軍が優勢で石君立らを捕えたものの、結局は梁軍が大敗し、王瓚は小舟で黄河を渡って北城へ逃れた。戦死・行方不明は一万人余りに達した。
- 梁帝は捕虜の中で石君立の勇を惜しみ、厚遇して帰順を勧めたが、石君立は主君を裏切らぬと拒絶したため、他の晋将は皆殺しにされた一方で、彼だけは生かされた。
- 晋王は勢いに乗じて濮陽を奪取した。
蜀・呉の処置
- 蜀では雄武節度使兼中書令の王宗朗が罪を得て官爵を奪われ、本名の全師朗に戻され、桑弘志が討伐に向かった。
- 呉では民間の武器私蔵を禁じたが、かえって盗賊が増えた。
- 御史台主簿の盧樞は、善民だけが法を恐れて不利になり、悪人がかえって得をするので、郷里防衛のため民兵を組織して訓練させるべきだと上言し、採用された。