春正月 蜀の南郊
正月 晋の河防強化と幽州人事
- 李存審は徳勝の南北に城を築いて守りを固めた。ここは後に澶州治所が移るほどの河津の要地である。
- 晋王は李存審を周徳威の後任として蕃漢馬歩総管に任じ、自らは魏州へ帰った。
- 幽州軍府事は李嗣昭が仮に管掌した。
春 南漢の皇后
- 漢主劉巖は、楚王殷の娘である越国夫人馬氏を皇后に立てた。
三月 蜀の対岐作戦と無為
- 蜀の王宗播らは散関から出て渭水を渡り、岐将孟鉄山を破ったが、大雨にあって退却した。興元・鳳州・威武城に分兵して守らせた。
- 王宗昱は隴州を攻めたが、これも落とせなかった。
三月 蜀の奢侈と売官
- 蜀主は奢侈放縦で、日々、太后・太妃とともに貴臣の家や近郊の名山へ遊び、飲酒や詩作に莫大な費用を費やした。
- 宮中の教坊使厳旭は民間の娘を強引に後宮へ取り立て、賄賂を贈れば免れるというありさまで、蓬州刺史にまで昇った。
- 太后・太妃はそれぞれ教令を出して、刺史や令録などの官職を売り、一つの官に複数人が競って賂を納め、最も多く積んだ者が官を得た。
春 晋の中門使人事
- 晋王は盧龍節度使を自ら兼ねた。北辺の大鎮であり、周徳威亡き後の統御を重視したためである。
- 中門使の李紹宏に幽州軍府を提挙させ、李嗣昭に代えた。李紹宏は宦官で、もとは馬姓であった。
- 孟知祥も中門使であったが、郭崇韜を推薦した。郭崇韜は才略に富み、事に当たって決断力があり、晋王の信任を日増しに受けた。やがて機密は郭崇韜が専らにするようになった。
呉越・呉戦争の再燃準備
- 梁は呉越王銭鏐に淮南討伐の大挙を命じた。
- 銭鏐は銭伝瓘を諸軍都指揮使とし、戦艦五百艘をもって東洲から呉を攻めさせた。
- 呉は舒州刺史彭彦章と陳汾にこれを防がせた。
夏四月 呉が国王に即位
- 徐温は群臣・藩鎮を率いて呉王に帝号を勧めたが、王はこれを辞し、国王位にとどまった。
- そこで呉王は四月朔日、呉国王位に即き、大赦し、武義と改元した。宗廟社稷を建て、百官を置き、宮殿・文物は天子の礼を用いた。徳は唐の土徳を継ぐ金徳とされた。
- 楊行密には孝武王の諡と太祖の廟号を、楊渥には景王の諡を贈った。
- 母を太妃とし、徐温を大丞相・都督中外諸軍事・諸道都統・東海郡王とし、徐知誥を左僕射・参政事兼知内外諸軍事とした。
- 王令謀・厳可求・駱知祥・盧擇・殷文圭・游恭・楊迢らもそれぞれ要職に就いた。
四月 狼山江の海戦
- 銭伝瓘は各船に灰・豆・沙を積ませ、狼山江で呉軍と戦った。
- 呉船が風を受けて進んでくると、銭伝瓘は一度避けて後ろにつき、逆に風上を得た。船同士が接近すると、呉船へ灰を浴びせて視界を奪い、自船には沙を撒いて滑りを防ぎ、呉船には豆を撒いて血で滑りやすくした。
- そのうえで火を放って呉船を焼き、呉軍を大破した。彭彦章は奮戦したが援軍なく、創を負って自殺した。陳汾は救援せず、その責任を問われて誅され、家産も没収されたが、その半分は彭彦章の家へ与えられた。遺族には終身の扶持が支給された。
四月から五月 徳勝南城の攻防
- 賀瓌は徳勝南城を攻めるにあたり、竹索で連結した大型艦十数隻を河上に横たえ、牛革で覆い、睥睨や戦棚を設けて城のようにし、晋の救援を断とうとした。
- 晋王は北岸から援けようとしたが進めず、泳ぎの得意な馬破龍を南城へ潜入させて守将氏延賞の状況を聞かせたところ、矢石は尽きかけていた。
- 晋王が破艦策を募っても衆は思いつかなかったが、李建及が決死隊三百人を率い、斧で艦を結ぶ竹索を断ち切らせ、さらに油をかけた薪を積んだ木甕を上流から流して火をつけ、大船の甲士をもって攻めた。
- 浮艦は切り離されて流され、梁兵は焼死・溺死が相次いだ。晋兵はようやく渡河して賀瓌を破り、濮州まで追ってから引き返した。賀瓌は行台村に退いた。
五月 蜀で命令不行
- 蜀主が諸将に対し、天策府の将は勝手に屯戍を離れてはならないと命じたが、王承愕・王承勲・王承会らがこれに違反しても赦してしまった。
- 以後、禁令は行われなくなった。
五月 呉の荊南救援
- 楚が荊南を攻め、高季昌が呉に救援を求めた。
- 呉は劉信らに洪・吉・撫・信の歩兵を率いさせ、瀏陽から潭州へ迫らせ、李簡らの水軍には復州を攻めさせた。
- 楚兵は荊南包囲を解いて帰り、李簡らは復州へ入り、その刺史鮑唐を捕えた。
六月 沙山で呉が呉越を破る
秋七月 無錫の戦い
- 銭鏐は銭伝瓘に三万を授けて常州を攻めさせ、徐温は諸将を率いて迎え撃った。陳璋は水軍を率いて海門から背後へ回った。
- 無錫で戦いとなると、徐温は熱病で軍を直接指揮しにくかった。呉越軍は中軍を猛攻し、矢が雨のように降った。
- 鎮海節度判官陳彦謙は、温に似た者へ甲冑を着せて旗鼓を移し、軍令を出させて時間を稼いだ。徐温は少し休んでから病勢が和らぎ、自ら出て戦った。
- 折からの旱魃で草が枯れており、呉軍が風に乗じて放火すると、呉越軍は大乱となって大敗した。将何逢は戦死し、首級は万を数えた。銭伝瓘は敗走し、山南で再び敗れた。陳璋も香湾で呉越軍を破った。
- 徐温は、以前叛いたが勇略に富む陳紹を生け捕りにした者に大賞を約したが、陳紹が捕えられると、かえってその才を惜しんで再び兵を任せた。
秋 徐温の将帥統御
- かつて曹筠が呉越へ奔ったとき、徐温はその妻子を赦して厚遇し、密使を送って、自分の過ちで彼を去らせたのであり、家族を憂える必要はないと伝えていた。
- このたび曹筠がまた戻ると、徐温は過去に自分が彼の進言を用いなかったことを三つ数え上げたうえ、亡命の罪は問わず、田宅を返し、軍職も復した。曹筠は内心恥じて死んだ。
秋 徐知誥の蘇州急襲案と徐温の抑制
- 徐知誥は、歩兵二千に呉越の旗や甲冑を持たせ、敗残兵に紛れて東進し、蘇州を奇襲して奪う策を申し出た。
- 徐温は策そのものはよいとしたが、今は停戦を求める時であり、民をこれ以上苦しめたくないとして採らなかった。
- 諸将は、呉越は船を頼みにしているが大旱で水路が涸れている今こそ滅ぼす機会だと主張した。しかし徐温は、戦勝で相手を懼れさせたうえで兵を収め、両地の民を安んじる方がよいと述べて退いた。
秋 銭鏐の統率と勤勉
- 銭鏐は将何逢の馬を見ると悲しみに堪えず、将士はそれゆえ心服した。
- 寵姫鄭氏の父が法に触れて死罪に当たった際、左右が助命を請うても、女一人のために法を乱してはならぬとして、その女を帰して父を斬った。
- 銭鏐は若いころから軍中でよく眠らず、円木や大鈴を枕にして、傾いて目が覚めるようにした。これは自らを戒めるための「警枕」である。
- 寝所には粉盤を置き、思いついたことを書きつけ、老いても倦まなかった。外に用件があれば紙を鳴らして起こさせ、また楼上から銅丸を投げて夜警を励ました。
- ある夜、微行して北城門を叩いたとき、門吏は王が来ても開けぬと拒んだ。銭鏐は別門から入り、翌日その門吏を厚く賞した。
七月 呉王一族の封爵
- 呉王は弟の楊濛・楊溥・楊潯・楊澈や、子の楊継明にそれぞれ公爵を授けた。
秋 晋陽での郭崇韜・馮道
- 晋王が晋陽へ帰ると、巡官馮道を掌書記に任じた。
- 郭崇韜は、諸将の陪食者が多すぎるので減らすよう求めた。晋王は一度激怒して軍中に布告文を作らせようとしたが、馮道は、天下を平定しようとする時にこの程度の進言で遠近を驚かせるのは威望を損なうと諫めた。
- ちょうど郭崇韜が謝罪に来たので、晋王も怒りを収めた。
秋 高麗系勢力の呉入貢
- 唐滅亡後、高麗の石窟寺の隻眼の僧・躬乂が衆を集めて開州に拠り、王を称して大封国を立てていた。
- この年、その国の佐良尉金立奇が呉へ入貢した。
八月 賀瓌死去と梁の河上築橋
- 賀瓌が死に、王瓚が北面行営招討使となった。
- 王瓚は五万を率いて黎陽から渡河し、澶州・魏州を急襲しようとしたが、頓丘で晋兵に遭って退いた。
- 王瓚は軍律厳正で、徳勝の上流十八里の楊村に河を挟んで砦を築き、洛陽から竹木を運んで浮橋を造り、滑州からの補給を継続した。
- 晋の李存進も徳勝で浮橋を作ったが、竹索・鉄牛・石囷がないと諸人が無理だと言うのを退け、葦索・巨艦・土山・巨木を用いて一月余で完成させ、人々を感服させた。
秋 呉と呉越の講和
- 徐温は、無錫で捕えた呉越の捕虜を呉王書簡とともに返した。
- 呉越王銭鏐も使者を送って和を求め、以後、呉と呉越は戦を休め、数十州の民は二十余年にわたって安業できた。
- 呉王と徐温はたびたび銭鏐に、自国で王を称するよう勧めたが、銭鏐は従わなかった。
九月 梁、劉巖討伐を命じる
- 梁は劉巖の官爵を削り、呉越王銭鏐に討伐を命じた。
- しかし銭鏐は命令自体は受けても実行せず、自国の力を消耗してまで隣国を攻めようとはしなかった。
九月 呉の廬江公楊濛
- 呉の廬江公楊濛は才気があり、「我が国家を他人に握られたままでよいものか」と嘆いた。
- 徐温はこれを聞いて、楊濛を憎むようになった。これはのちの惨禍の伏線となる。