資治通鑑後梁紀 均王 貞明 四年 918年
春正月 蜀の改号と晋軍の掠地
- 蜀は大赦を行い、国号を再び蜀とした。
- 梁帝が大梁へ戻ると、晋兵は鄆州・濮州方面まで侵攻し、掠奪してから引き返した。
正月 敬翔の上疏
- 敬翔は上疏し、近年の敗戦で国土は縮み、人心は不安に陥っているのに、帝は深宮にいて近習ばかりと議しており、敵国との優劣を正しく見ていないと批判した。
- 彼は、李存勗が自ら矢石を冒して戦うのに対し、梁帝は文雅に安居し、賀瓌らに任せて敵を追い払えると思うのは甘いと述べ、広く策を求めるべきだと諫めた。
- しかし趙巖・張漢傑らは敬翔を怨望とみなし、帝はその意見を用いなかった。
正月 呉の虔州攻撃
- 呉は王祺を虔州行営都指揮使として、洪州・撫州・袁州・吉州の兵を率いさせ、譚全播の守る虔州を攻めた。
- 厳可求は贑石の難所を熟知する水夫を厚賞で募っていたため、呉軍は水路から突然虔州城下へ現れ、城中は初めてそこで事態を知った。
正月 蜀太子への不安
- 蜀太子宗衍は酒色と遊戯を好み、太子宮で諸王と闘鶏・毬戯に興じていた。蜀主はその騒ぎを聞いて、自ら苦労して築いた基業をこの者たちに守れるのかと嘆いた。
- 信王王宗傑は才略があり、たびたび時政を論じたので、蜀主は太子を廃して宗傑を立てたい気持ちを抱いた。
二月 王宗傑急死
- 王宗傑が急死すると、蜀主は強く不審を抱いた。
二月 梁の楊劉城奪回戦
- 河陽節度使の謝彦章は数万を率いて楊劉城を攻めた。
- 晋王も軽騎で河上へ赴いたが、謝彦章は水を決壊させて広く浸水させ、晋兵の前進を阻んだ。
- その一方で、安彦之の散兵は兖・鄆の山谷に群盗化していたが、晋王が招くと多くが晋へ降った。
二月 蜀の岐討ち再編
- 蜀では王宗侃が東西両路諸軍都統となった。これは東路が宝鶏方面、西路が秦隴方面へ出る遠征軍の統括である。
三月 呉越の元帥府
- 呉越王銭鏐は、先に梁から加えられた元帥号に基づいて、元帥府を正式に置き、属官を備えた。
夏四月 蜀・梁・岐・保大の動き
- 蜀では宗平を忠王、宗特を資王に封じた。
- 岐王は再び蜀に和睦を求める使者を送った。
- 梁では蕭頃が宰相となった。
- 保大節度使高万金が死ぬと、兄の高万興が忠義・保大を兼ね、鄜延をあわせて治めることになった。
- 趙光逢は老齢を理由に致仕した。
四月から五月 蜀主危篤、唐文扆失脚
- 蜀主の病は以前から重く、このころますます悪化した。そこで王宗弼が呼び戻され、馬歩都指揮使とされた。
- 蜀主は寝殿に大臣を呼び、太子宗衍は仁弱だが諸公の請いで立てた、もし大業に堪えないなら別宮に移してよく、殺してはならないと遺言した。また王氏一族の中から補佐する者を選び、徐妃の兄弟には兵権と政権を与えるなと命じた。
- ところが唐文扆は禁兵を握り、大臣たちを排除して蜀主の死後に事を起こそうとした。だが内皇城使の潘在迎がその謀りごとを王宗弼らに密告した。
- 王宗弼らは宮門を押し開いて入り、唐文扆の罪を訴えた。太子も召し入れられ、唐文扆は眉州刺史へ貶された。王保晦も連座して流された。
- 続いて蜀主は財賦・人事・刑獄を庾凝績に、都城と行営の軍事を宋光嗣に委ねた。宋光嗣は内枢密使となり、王宗弼らとともに遺詔補政の一人となった。
- もともと蜀の枢密使は唐にならって士人を用いていたが、唐文扆失脚後、蜀主は幼主を諸将が制御しえないことを恐れ、宦官の宋光嗣に軍機を握らせた。以後、宦官の政治介入が始まった。
六月 蜀主崩御と後継
- 蜀主が崩じ、太子宗衍が即位した。徐賢妃は皇太后、徐淑妃は太妃となった。
- 唐文扆と王保晦は殺され、秦州の唐文裔も誅された。唐道崇は官を免ぜられた。
六月 呉で徐知訓が驕横を極める
- 呉の徐知訓は驕慢で淫暴であった。撫州を治める李徳誠に対し、その家妓を求め、断られると一家ごと奪うと脅した。
- また呉王を公然と侮り、芝居で王に卑しい役を演じさせたり、舟遊びで王を弾き、寺での酒宴でも無礼を働いて王を泣かせた。王の近臣を鉄檛で殺しても、将佐たちは何も言えず、父徐温すら事情を知らなかった。
- 徐知訓と弟の徐知詢は徐知誥にも無礼だったが、末弟の徐知諫だけは兄の礼で接した。
- 徐知訓はたびたび徐知誥を殺そうとしたが、徐知諫や刁彦能の機転で、徐知誥は難を逃れていた。
六月 朱瑾、徐知訓を殺す
- 平盧節度使朱瑾は、徐知訓が自分の家妓に手を出そうとし、さらに自分を泗州へ転出させたことを深く恨んでいた。
- 朱瑾は酒宴に徐知訓を招き、自ら杯を捧げ、愛妾に歌わせ、愛馬を寿礼に出して歓心を買ったうえで、中堂に招き入れた。
- 妻の陶氏に拝礼させて徐知訓が答礼した隙に、朱瑾は笏で背後から打ち倒し、伏せていた壮士に斬らせた。馬を暴れさせて外に音が漏れないようにもしていた。
- 朱瑾は首を持って呉王の前に出て、「大王のために害を除いた」と言ったが、王は恐れて顔を覆い、「自分は何も知らない」と逃げ込んだ。
- 朱瑾は呉王の不甲斐なさに絶望し、抜剣して出ようとしたところ、子城使の翟虔らが門を閉ざして討った。朱瑾は城を越えた際に足を折り、追手に向かって「万人のために害を除き、自分一身が患いを引き受ける」と言って自刎した。
六月 徐知誥が揚州で政権掌握
- 徐知誥は潤州で変を聞くと、ただちに兵を率いて長江を渡り、揚州に入って軍府を鎮撫した。これはあらかじめ宋斉丘が勧めていた布石でもあった。
- 徐温の諸子はまだ若く、そこで徐温は徐知誥に徐知訓の地位を代行させ、呉政を執らせた。
- 朱瑾の屍は雷塘に沈められ、一族も滅ぼされた。米志誠や李儼も朱瑾と通じた疑いで誅された。厳可求は米志誠を欺いて門内で捕え斬った。
六月 楊劉の戦いで晋が勝利
- 晋王は楊劉で河水を測り、梁軍に戦意はなく、ただ水勢を頼んで晋軍を疲れさせようとしているだけだと見た。そして自ら親軍を率いて渡河した。
- 謝彦章は岸辺でこれを拒んだが、晋軍は一度退くふりをしてから中流で反転し、梁軍を誘い出して破った。河水が赤く染まるほどの敗北で、謝彦章は辛うじて身を免れた。
- この日、晋軍は河辺の四寨を攻略した。
六月 蜀で張格・楊玢ら失脚
- 唐文扆が死ぬと、これに結んでいた張格は内心穏やかでなくなった。楊玢は張格に「太子擁立の大功があるのだから心配ない」と言ったが、情勢は逆だった。
- 張格は茂州刺史、さらに維州司戸へ落とされ、楊玢も栄経尉へ左遷された。許寂・潘嶠らも張格党として貶められた。
- 庾凝績は張格をさらに合水鎮へ移そうとし、茂州刺史顧承郾に密かに罪を作らせようとしたが、王宗侃の妻が同姓ゆえに顧家へ「人の復讐の道具になるな」と忠告したため、顧承郾は従わなかった。庾凝績は怒って別件で顧承郾を罰した。
七月 蜀の王族封建と蜀政の腐敗
- 蜀主は王宗弼ら一族を相次いで郡王に封じ、庾伝素を宰相に復帰させた。
- しかし蜀主は政務を親らず、内外の人事は王宗弼の一存に近く、彼は賄賂を受けて私情で裁いたため、上下の怨みを買った。
- 宋光嗣は聡敏で迎合に長け、蜀主の寵信を得た。こうして蜀は次第に衰えへ向かった。
七月 徐温、揚州で朱瑾事件を処理
- 徐温は広陵に入朝し、諸将が朱瑾に与したのではないかと疑って大粛清を考えた。
- だが徐知誥と厳可求が、徐知訓の過悪こそが惨事を招いた原因だと詳しく説いたため、徐温の怒りはやや解けた。
- 徐温は朱瑾の骨を雷塘から拾って改葬させた一方、徐知訓の将佐で諫めなかった者たちを罪に処し、たびたび諫書を出していた刁彦能だけは賞した。
- 徐知誥は淮南節度行軍副使・内外馬歩都軍副使・通判府事となり、徐知諫は潤州を預かった。徐温は金陵へ戻って大綱だけを握り、日常政務は徐知誥に委ねた。
七月 徐知誥の善政
- 徐知誥は徐知訓のやり方を全面的に改め、呉王に対しては礼を尽くし、士大夫を尊び、民衆には寛をもって臨み、自身は質素を守った。
- 呉王の命として、天祐十三年以前の滞納租税を免除し、それ以後の未納も豊年を待って納めさせた。
- また、賢才を求め、諫言を受け、奸猾を退け、請託を絶ったため、士民は一斉に帰服し、古参の武将や荒々しい兵まで従った。
七月 宋斉丘の税制改革案
- 呉では丁口銭と、田地の面積に応じた銭納税が重く、民を苦しめていた。
- 宋斉丘は、銭は耕桑からは生まれないのに銭納を強いるのは本業を捨てて末業へ走らせることだとして、丁口銭を免除し、そのほかの租税も穀物・帛・紬・絹などで納めさせるよう主張した。
- 異論として歳入激減が懸念されたが、宋斉丘は「民が富んで国家だけ貧しいということはない」と論じ、徐知誥はこれを採用した。その結果、江淮では荒地が開かれ、桑柘が野を覆い、国力は充実した。
- ただし徐温は宋斉丘を好まず、低い官にとどめた。徐知誥は夜ごと水亭や高堂で人払いをして密談し、灰に字を書いては消して、誰にも企図を悟らせなかった。
虔州攻防と周辺諸国
- 虔州は険固で、呉軍は長く攻めても落とせず、軍中には疫病が広がり、王祺も病に倒れた。
- 呉は劉信を新たな招討使とし、まもなく王祺は死去した。
- 譚全播は呉越・閩・楚に救援を求めた。呉越王銭鏐は銭伝球に二万を授けて信州を攻め、楚将張可求は古亭に、閩兵は鄠都に屯して救援した。
- 信州では周本が城門を開き、あえて幕を張って城楼で宴楽し、飛矢が降っても動じなかったため、呉越軍は伏兵を疑って夜のうちに退いた。
- 呉は陳璋に蘇州・湖州方面を攻めさせて呉越兵を牽制した。
- 晋王が呉に共同出兵を呼びかけたが、呉は虔州攻囲の最中であることを理由に断った。
八月 晋の大動員
- 晋王は梁への大挙侵攻を企て、周徳威・李存審・李嗣源らに加え、王処直の兵、麟・勝・雲・蔚・新・武などの諸州兵、さらに奚・契丹・室韋・吐谷渾まで集め、魏州で大閲兵を行った。
八月 蜀の彭王宗鼎の自制
- 蜀の諸王は皆軍使を兼ねていたが、彭王宗鼎は、親王が兵を握るのは乱のもとだとして、主君は若く、臣下は強く、讒言も起こりやすい現状で、自分たちが甲冑を整え兵を訓練するのはふさわしくないと述べ、軍使を固辞した。
- 以後は書斎を営み、松竹を植えて自ら楽しんだ。身を守る知恵ではあったが、宗室として国を支える力にはならなかったと評される。
八月 張万進が晋に内応
- 泰寧節度使張万進は軽薄で乱を好み、朝廷の嬖倖からたびたび賂を求められていた。
- 晋の大軍出動を聞くと、晋に内応して援軍を求めたため、梁は劉鄩を兖州安撫制置使として討伐に向かわせた。
八月 蜀の周皇后崩御と近習の横暴
- 蜀の順徳皇后が崩じた。
- 蜀主は王廷紹・欧陽晃・李周輅・朱光葆・宋承蘊・田魯儔ら近臣を将軍・軍使に取り立て、政務に関与させたが、彼らは驕縦・貪暴で大きな害をなした。
- 周庠が痛切に諫めても聞き入れられず、欧陽晃は住居が狭いと見て夜に隣の軍営へ放火し、翌朝には自邸を拡張したが、蜀主は咎めなかった。
晩夏から秋 濮州方面の膠着と晋王の軽挙
- 晋王は楊劉から鄆・濮を掠めたのち、河に沿って麻家渡へ進み、賀瓌・謝彦章率いる梁軍と濮州北の行台村で対峙した。
- 晋王はしばしば少数騎で敵営に迫って挑戦し、危険な目に遭うことが何度もあった。王鎔や王処直は、自重しないのは天下のためにも唐の再興のためにもよくないと書簡で諫めた。
- 李存審も泣いて諫めたが、晋王はしばしば聞き入れなかった。
- あるとき晋王が数百騎で梁営へ迫ると、謝彦章は堤下に精兵五千を伏せて包囲した。晋王は辛うじて脱し、李存審の救援で危機を免れた。ようやく晋王も彼の忠告の重みを認めた。
秋 楚・閩・呉越の虔州救援失敗
- 劉信は張宣らに夜襲を命じ、古亭の楚兵を破った。さらに梁詮らが呉越・閩の兵も撃ったので、両国は楚兵敗走を聞いて撤退した。
- そのころ梅山蛮が邵州を寇し、楚将樊須がこれを撃退した。
九月 劉信の撤兵と徐温の叱責
- 劉信は昼夜兼行で虔州を攻め、首級を多く挙げたが落とせず、譚全播に説いて人質と賂を取って撤退した。
- 徐温は大いに怒り、使者を鞭打ったうえ、劉信の子の劉英彦に三千兵を与え、「おまえの父は大軍を率いて一城も落とせぬ。これは反意に等しい。行って共に反け」とまで言った。
- さらに朱景瑜を同行させ、虔兵は農民であり、包囲が解けて安心して散っているから、再度の大軍なら必ず城は落ちると見通しを示した。
十一月 蜀高祖の葬礼
- 蜀では神武聖文孝徳明恵皇帝を永陵に葬り、廟号を高祖とした。
十一月 大越が国号を漢へ変更
- 劉巖は南郊を祀り、大赦を行い、国号を漢と改めた。
十一月 虔州陥落
- 劉信は徐温の言葉を聞いて恐れ、軍を返して虔州を攻めた。
- 先鋒が至ると虔州兵はたちまち潰走し、譚全播は雩都へ逃げたが捕えられた。呉は彼に右威衛将軍・百勝節度使を授けた。
呉越の入貢路変更
- それまで呉越王銭鏐は虔州道を通って梁へ入貢していたが、虔州が呉に入ったことでこの路は断たれ、以後は海路で登州・莱州を経て大梁へ向かった。
呉建国論
- 徐温は、呉王と諸将が皆節度使で、都統号だけでは統制力が弱いとして、呉王に国を建てて帝を称するよう勧めたが、呉王は許さなかった。
- 厳可求も当初は徐知詢を徐知誥に代えて用いるよう勧めたが、やがて「唐を奉ずる名目も、朱梁と李晋の争いが決着すれば立たなくなる。先に呉国を建てて民望を繋ぐべきだ」と説いて徐温を悦ばせ、建国の礼制を整えた。
- 徐知誥は厳可求を遠ざけられないとみて、自分の娘をその子に嫁がせ、提携を固めた。
十二月 梁軍の内紛と謝彦章誅殺
- 晋王は大梁へ迫ろうとしたが、梁軍は前面で堅壁を築いて応じず、両軍は百余日対峙した。
- 梁軍では賀瓌が歩兵の将として、謝彦章が騎兵の将として名を並べていたが、賀瓌はこれを憎んだ。以前、二人が野外で兵を調練した際、賀瓌が柵に適した地と見た場所に、のち晋軍がちょうど柵を立てたことから、賀瓌は謝彦章が晋と通じたのではないかと疑いを深めた。
- 謝彦章は堅塁で持久すべきだと主張したが、賀瓌は密かに帝へ讒言し、朱珪と結んで宴席で謝彦章・孟審澄・侯温裕を誅し、謀叛の罪を着せた。
- 朱珪はその功で匡国留後、さらに盧節度使兼行営馬歩副指揮使となった。
十二月 胡柳陂の激戦
- 晋王は梁軍の将帥同士が食い合っていると聞いて喜び、自ら万騎で大梁へ直進したいと考えたが、周徳威は軽進を戒めた。
- それでも晋王は老弱兵を魏州へ帰し、本軍を率いて西へ進んだ。賀瓌も営を捨ててこれを追った。晋軍は魏博の白丁三万を営柵役として従えたため、進軍先ごとに迅速に陣地を築けた。
- 胡柳陂に至ると、周徳威は、梁兵は倍道で疲れているから夕刻まで待ち、営が整わず食事もできないところを叩くべきだと進言した。だが晋王は待てず、先に出撃した。
- 梁軍は数十里にわたる横陣を敷いた。晋王は銀槍都を率いて突撃し、梁の王彦章の騎兵を敗走させたが、晋の輜重隊が梁旗を見て潰走し、その混乱が幽州兵にも及んだ。周徳威は制御できず、父子ともに戦死した。王緘も死に、晋軍は統制を失った。
- しかし晋王は高丘に散兵を集めて立て直し、さらに土山を争うことを将士に命じ、自ら先登した。李従珂・王建及らが歩騎を率いて続き、梁軍を山から追い落として地利を奪った。
- 諸将の中には、この日は兵が揃わないからいったん退いて翌朝再戦すべきだという声もあったが、閻宝は、王彦章の騎兵はすでに敗れており、いま山下にいるのは疲れた歩兵だけだとして、ここで勝たなければ河朔を失うと強く主張した。
- 李嗣昭は敵を夕方まで疲れさせてから追撃すべきだと説き、王建及は、敵の大将はすでに去り、この疲弊兵を打つのは朽木を折るようなものだと言って進み出た。晋王は自ら誤るところだったと悟った。
- 李嗣昭・王建及らが騎兵で大呼して突撃すると、諸軍も続き、梁軍は大敗した。元城令呉瓊と貴郷令胡装は白丁各一万人を率いて柴を曳き塵をあげて声援し、晋軍の勢いを増した。梁兵は互いに踏みつけあって逃げ、死者は三万近くに及んだ。
- ただし両軍とも損害は甚大で、双方とも当面は再起しにくいほどだった。
- 晋王は営に戻って周徳威父子の死を痛哭し、自分の罪だと悔いた。周徳威の子には嵐州刺史を授けた。
- 李嗣源は混乱の中で晋王を見失い、王はすでに黄河を北へ渡ったと聞いて相州へ向かおうとしたが、翌日、晋軍勝利を知って濮陽で晋王に再会した。晋王は怒って咎め、李従珂には大鐘酒を与えて罰した。以後、李嗣源への待遇はやや薄くなった。
契丹の北大王が晋へ亡命
- 契丹主の弟・北大王博囉鄂博が国内で反乱を企てて発覚した。契丹主は兄弟の情によりすぐには殺さず、一年ほど幽閉してから放った。
- 博囉鄂博はそのまま部衆を率いて晋へ奔り、晋王は厚遇して仮子とし、刺史に任じた。胡柳陂の戦いでは、その妻子も晋軍へ逃れてきた。
胡柳陂戦後 梁都の恐慌
- 王彦章の敗残兵の一部が大梁へ着き、「晋軍は勝ってまもなく来る」と告げると、都城は大恐慌に陥った。
- 梁帝は市民まで駆り出して城を守らせ、洛陽へ逃げようともしたが、夜になって思いとどまった。実際には大梁へ辿りついた梁の敗卒は千人にも満たず、多くは傷つき、逃げ散って郷里に帰り、軍を立て直すのに一か月以上を要した。