資治通鑑後梁紀二 太祖神武元聖孝皇帝 乾化 元年 910年
正月 滄州陥落と劉守光父子
- 正月乙未、滄州で劉延祚は力尽きて降伏した。劉守光の子・劉繼威はまだ幼かったため、守光は張萬進・周知裕を補佐役として滄州に送り込んだ。
- 劉延祚とその将佐は幽州へ送られ、吕兖は一族ごと殺されたが、孫鶴は助命された。
- 吕兖の子・吕琦は十五歳で、趙玉という門客が監刑者を欺いて連れ出し、背負って逃げ延びた。のちに学問で身を立て、晋王に代州判官へ取り立てられた。
正月 江西・幽州の動き
- 辛丑、盧光稠は鎮南留後に任じられた。鎮南軍の本拠洪州はすでに淮南の手にあったため、名と実は一致していなかった。
- 劉守光は父の劉仁恭のために致仕を願い出て、丙午、仁恭は太師致仕となった。だが守光は間もなく密かに人を使って兄の守文を殺し、それを実行者の罪に見せかけてその者も誅した。
二月 弘農王の称号加進・高灃の没落
- 萬全感が岐から広陵へ帰り、岐王の承制により弘農王が中書令・嗣吳王に加えられたことが伝えられた。これを受けて吳王は領内に赦令を出した。
- 高灃は淮南に救援を求め、李蕳らが兵を率いて応じたが、湖州の将・盛師友、沈行思は城門を閉ざして高灃を入れなかった。高灃は五千を率いて淮南へ逃れた。
三月 湖州・蜀宮中・夏州の変
- 癸巳、錢鏐は湖州を巡り、錢鏢を刺史に任じた。
- 蜀の太子王宗懿は驕慢で旧臣を侮り、内樞密使の唐道襲とも確執が深まった。蜀主は両者の対立を恐れて道襲を山南西道節度使に出した。
- 道襲は鄭頊を内樞密使に推薦したが、鄭頊は就任直後に道襲の兄弟の不正を摘発しようとしたため、道襲が反撃して「偏狭で任に堪えない」と訴え、丙午、果州刺史へ左遷された。代わって潘炕が内樞密使となった。
- 夏州では都指揮使の高宗益が乱を起こして節度使李彞昌を殺したが、将吏は宗益を誅し、彞昌の族父にあたる蕃漢都指揮使・李仁福を推して帥とした。
四月 李仁福の承認・宋州の瑞麦
- 癸丑、李仁福は夏州の情勢を後梁に報告し、甲子、正式に定難節度使に任じられた。
- 丁卯、宋州節度使の衡王朱友諒が一茎三穂の瑞麦を献じたが、帝は「豊年こそ上瑞であり、宋州は大水なのに何の意味がある」と怒り、その麦が生えた県の令を罷免し、友諒も詰責した。宋州留後には惠王朱友能を代わりに置いた。
四月 定昌軍創設と冦彥卿事件
- 晋州刺史の華温琪は河東兵を防いだ功で評価されていた。護國節度使の朱友謙が晋・絳方面に新たな節鎮設置を進言したため、壬申、晋・絳・沁三州をもって定昌軍を置き、温琪を節度使とした。
- 左金吾大将軍の寇彥卿は入朝時、天津橋で道を避けない民を欄外へ投げ落として死なせた。帝は功臣であることから私財で遺族に弁償させて済ませようとした。
- しかし御史司憲の崔沂は「宮城門前での殺人は法により裁くべき」と厳しく弾劾し、従者にやらせたという寇彥卿の弁解も退けた。最終的に彥卿は遊擊將軍・左衛中郎將に降格された。
- その後、寇彥卿は崔沂の首に賞金を懸けると公言したが、帝は「崔沂に少しでも傷があれば一族を滅ぼす」と警告した。これにより功臣たちの驕横はいくぶん抑えられた。
五月 徐温の母喪・岐蜀関係
- 徐温の母・周氏が死ぬと、将吏は高さ数尺の人形に絹を着せて焼こうとした。徐温は「民力から出たものを焼くべきではない」と言って服を脱がせ、貧民に与えさせた。
- ほどなく徐温は起復され、内外馬步軍都軍使・潤州觀察使を兼ねた。注では、三年喪を妨げて起復させる制度への批判が詳しく述べられる。
- 岐王はたびたび蜀に財貨を求め、蜀主は応じていたが、さらに巴州・劒州までも要求した。蜀主は「土地を渡すのは民を捨てることだ」と拒み、代わりに大量の絹・茶・布帛を贈った。
六月 羅紹威・馮行襲の死
- 己亥、劉繼威は義昌節度使に昇格した。
- 癸丑、天雄節度使兼中書令の羅紹威が死去し、子の羅周翰が留後となった。
- 匡國節度使の馮行襲が重病となると、許州には秦宗權の残党出身の兵が多かったため、帝は事後の混乱を深く憂えた。
- 庚戌、崇政院直學士の李珽を急派し、「朕の意をよく伝え、近鎮を乱させるな」と命じた。李珽は将吏を説得して朝廷への疑心を解き、行襲の病床で正式に詔を伝え、印を受け取って軍府を掌握した。
- 帝はその報を聞き、李珽の手腕を賞した。庚辰に馮行襲が死ぬと、甲申、李珽が権知匡國留後となり、馮氏の養子らは本姓へ戻された。
六月 楚の天策府
- 楚王馬殷は「天策上将」を求め、後梁はこれを認めた。馬殷はこれを機に天策府を開き、弟の馬賨を左相、馬存を右相とした。
- 馬殷は荆南へ侵攻したが、油口で高季昌に敗れ、白田まで追撃されて退いた。
七月 吉州戦・韋莊の死・夏州包囲
- 吳の水軍指揮使・敖駢は吉州刺史・彭玕の弟の彭瑊を赤石に包囲したが、楚兵が救援して敖駢を捕虜とした。
- 七月、蜀の宰相・韋莊が死去した。
- 錢鏐は、唐末の宦官争乱を避けて呉越に来ていた周延誥ら二十五人の宦官について、その多くは劉季述・韓全誨の党ではないので赦してほしいと上表した。帝は無罪であることは理解しつつも、宮中に戻すのは改革にそぐわないとして、そのまま呉越に留め置くよう答えた。
- 岐王と邠・涇の節度使はそれぞれ晋へ使者を送り、定難節度使李仁福を攻めるため連合を求めた。晋王は周德威に五万を率いさせ、夏州を包囲させた。李仁福は籠城して守った。
八月 趙・定への疑念と後梁の対応
- 八月、劉守光は義昌節度使も兼ねた。先に劉繼威が義昌節度使になっていたが、幼少のため父が兼領した形である。
- 鎮州・定州は後梁に常税こそ納めていなかったが、朝貢は熱心だった。ところが趙王王鎔の母・何氏が死ぬと、帝は弔使を送り、起復の官を授けた。
- 使者は館にいた晋の使者を見て帰り、王鎔が密かに晋と通じていると報告した。帝は鎮・定の勢力が強大で、いずれ抑え難いと考えるようになった。
- 壬戌、李仁福から急報が届き、甲子、張全義を西京留守とした。帝は晋軍が西京を襲うことを恐れ、李思安を河陽に屯させて洛陽の北面を固めた。
- 丙寅、帝は洛陽を発し、陜州に着いた。辛未、楊師厚を西路行營招討使として康懷貞と三原で合流させた。
- しかし晋軍は綏州・銀州方面の磧中にいると判明し、帝は大きな脅威ではないと判断した。甲申、李遇・劉綰を鄜延から銀州・夏州へ向かわせ、晋軍の帰路を遮ろうとした。
吳越の土木事業
- 錢鏐は海を防ぐ石塘を築き、杭州城を拡張し、楼台館舎を大いに修築した。これにより錢塘は東南随一の富庶の地となった。
九月 晋軍撤退と後梁帝の病再発
- 己丑、帝は陜州を発って甲午に洛陽へ戻ったが、病が再び悪化した。
- 李遇らが夏州に至るころには、岐・晋の連合軍はすでに包囲を解いて去っていた。
十月 上党方面と湖州の内紛
- 後梁は楊師厚・李思安に命じて沢州に屯させ、上党攻略を図らせた。
- 一方、錢鏐の湖州巡幸の際に巡検使として残された沈行思は、盛師友が刺史に取り立てられることを恐れた。陳瓌は密命を受けていたため、行思を「自ら王のもとで訴えよ」と誘い出した。
- 行思が府へ着いて数日後、家族まで送られてくると、自分が売られたと恨んだ。
- 錢鏐が衣錦軍から戻ると、行思は迎えの場で鍛冶槌を振るって陳瓌を殺し、さらに盛師友との功論争の場で左右の槊を奪って刺そうとした。そこで捕えられて斬られ、盛師友が婺州刺史に転じた。
十一月 王景仁の北面出征と蜀の諸王封建
- 己丑、王景仁を北面行營都指揮招討使、韓勍を副使とし、李思安を先鋒として上党へ向かわせたが、まもなく軍は魏州へ回され、実際には鎮・定を図る構えとなった。
- 楊師厚は陜州へ戻った。
- 蜀では太子王宗懿の名を元坦と改め、さらに多くの養子・実子を王に封じた。蜀主は養子が非常に多く、唐末の宦官や諸将が養子によって勢力を固めた風潮を強く受けていた。
十一月 趙鎮への圧迫と晋の出兵決定
- 帝の病は少しよくなり、辛亥、伊水・洛水の間で狩りを行った。
- 帝は趙王王鎔が晋に二心あると疑い、また羅紹威の死に乗じて鎮州・定州を移易したいと考えた。
- ちょうど燕王劉守光が淶水に兵を出して定州へ圧力をかけていたため、帝は杜廷隱・丁廷徽に魏博兵三千を率いさせて深州・冀州へ分屯させ、「燕軍への備え」「就食のため」と称した。
- 深州守将の石公立は趙王に防備を勧めたが、王鎔は城門を開いて梁兵を入れ、公立を城外へ移した。公立は「これは盗を招き入れるに等しい」と嘆いた。
- その後、梁側から逃れてきた者が、これは鎮州奪取の策だと王鎔に告げた。王鎔は恐れたが、先に後梁と絶つこともできず、洛陽へ使者を送って弁明した。
- 深州・冀州の民衆は魏博兵の入城に恐怖して撤兵を求めたが、ほどなく杜廷隱らは城門を閉ざして趙の守兵を皆殺しにし、城上に立てこもった。
- 王鎔はようやく石公立に攻めさせたが落とせず、燕と晋へ援軍を求めた。
- 晋陽に使者が届くと、王處直からの使者も来ており、両者は晋王を盟主に推して梁を討とうと望んだ。
- 晋の将佐の多くは「王鎔は長年朱温に臣従し婚姻も結んでいる、これは偽りではないか」と疑った。だが晋王は「利害を見て動くのは当然であり、いま救わなければ朱温の策にはまる」と判断し、周德威を井陘から趙州へ進めた。
劉守光の不出兵と鎮定の唐年号復活
- 趙からの使者が幽州に至ると、孫鶴は守光に「今こそ功業を立てる好機」と説き、梁を破れば鎮・定も燕に服するだろうと勧めた。
- しかし守光は、王鎔は以前から約に背きがちであり、趙と梁を争わせて利益を横取りする方が得策だと考え、ついに兵を出さなかった。
- これ以後、鎮州・定州は再び唐の天祐年号を称し、梁の避諱で変えていた武順軍の名も成德軍へ戻した。
十二月 柏郷への進軍
- 司天監は来月に月食があり、外征に不利だと告げたため、帝は王景仁らの召還も考えた。
- だが己未、趙と晋の連携、晋軍の趙州進出を聞き、王景仁らに攻撃を命じた。
- 庚申、王景仁らは河陽から北上して河を渡り、羅周翰の兵と合わせて四万となり、邢州・洺州の間に進軍した。
江西・虔州の継承
- 虔州刺史の盧光稠は病重く、譚全播に地位を譲ろうとしたが、全播は辞退した。光稠が死ぬと、韶州刺史の子・盧延昌が帰って喪に服し、譚全播はこれを立てて事えた。
- 吳は延昌を虔州刺史に任じ、延昌もこれを受けたが、密かに楚王馬殷を通じて後梁へも通表し、「淮南の官を受けたのは時間稼ぎであり、朝廷のため江西を経略したい」と述べた。
- 丙寅、後梁は盧延昌を鎮南留後に任じた。延昌は部将の廖爽を韶州刺史に推した。
- 淮南の厳可求は新淦県に制置使を置くことを求め、兵を駐屯させた。交代のたびごとに密かに兵を増やし、虔州併呑の準備を進めた。
十二月 法制整備と柏郷前夜
- 庚午、蜀では周庠・庾傳素が宰相となった。
- 太常卿の李燕らは後梁の律・令・格・式を改訂し、癸酉に施行した。
- 丁丑、王景仁らは柏郷に進軍した。
- 辛巳、蜀は大赦し、翌年の元号を永平と改めた。
- 趙王王鎔は再び晋へ急報を送り、晋王は李存審に晋陽を守らせ、自ら賛皇から東へ進み、王處直の兵も従えた。
- 辛巳、晋王は趙州に至って周德威と合流した。梁軍の刈り草兵二百を捕えて訊ねると、「梁帝は鎮州が子孫の患いになると言い、精兵をことごとく授けて必ず奪えと命じた」と答えた。晋王はこれを趙側へ送って聞かせ、趙の決意を固めさせた。
- 壬午、晋王は柏郷の三十里まで進み、周德威らの胡騎に梁営を挑発させた。梁軍は出てこなかった。
- 癸未、さらに五里まで進んで野河の北に営し、再度騎兵で挑発させた。梁将の韓勍らは三万を三道に分けて追撃し、その軍装は金銀で飾られ、見る者を圧した。
- 周德威は「見せかけの威勢にすぎぬ」と兵を励まし、自ら千余騎で両翼を衝き、百余人を捕えて退いた。
- その後、徳威は晋王に「敵勢は盛んであり、急戦は避けて高邑へ退き、補給線を断って久戦に持ち込むべきだ」と進言した。張承業もこれを支持し、梁の投降兵から「景仁は浮橋を多く造っている」と聞いた晋王は、ついに徳威の策を入れて高邑へ退いた。
- このころ、辰州の宋鄴、溆州の潘金盛らの蛮酋は深山に拠ってたびたび楚の辺境を乱しており、宋鄴は湘郷を、潘金盛は武岡を侵したため、馬殷は吕師周に五千を率いさせて討伐に向かわせた。
- また嶺南では、容州の龐巨昭と高州の劉昌魯が、劉隱に抗しきれぬとみて楚へ帰属を願い出た。馬殷は姚彥章を送り、巨昭は部下の奇策を退けて容州を挙げて降り、高州でも昌魯の一族と兵士千余が長沙へ移された。彥章は容州を預かり、昌魯は永順節度副使となった。