資治通鑑後梁紀二 太祖神武元聖孝皇帝 開平 三年 909年
正月 洛陽遷都
- 春正月己巳、後梁帝は太廟の神主を洛陽へ移した。
- 甲戌、大梁を出発し、壬申に博王朱友文を東都留守として残した。己卯、帝は洛陽に到着した。
- 庚寅、太廟に宴し、辛巳には圓丘を祀って大赦を行った。
- 丙申、財政がやや整ったため、唐末以来欠配が続いていた百官の俸給をようやく満額支給した。
二月 延州の変乱と高万興兄弟の帰順
- 丁酉朔、日食があった。
- 保塞節度使の劉萬子は暴虐で人望を失い、後梁にも背こうとしていた。李繼徽は延州の牙将・李延實に命じてこれを討たせ、延實は胡敬璋の葬儀の機会に劉萬子を殺して延州を掌握した。
- 馬軍都指揮使の高萬興・弟の高萬金は変を聞き、数千を率いて劉知俊に降った。
- 岐王は鄜城に翟州を置いたが、その守将もまた後梁に降った。
三月 後梁の西進
- 甲戌、後梁帝は洛陽を発し、山南東道節度使の楊師厚を潞州四面行營招討使に兼任させた。
- 庚辰、帝は河中に着き、高萬興の兵と合流して丹州・延州攻略を進めた。
- 丙戌、朔方節度使兼中書令の韓遜を潁川王に封じた。韓遜はもと靈州の牙校からその地に拠った人物である。
- 辛卯、丹州刺史の崔公實が降伏した。
淮南の昇州経営
- 徐温は金陵が地の利に優れ、水軍拠点として重要と見て、自ら淮南行軍副使として昇州刺史を兼ねた。
- そのうえで広陵に残り、養子の徐知誥を昇州防遏兼樓船副使として派遣し、現地の経営を任せた。
四月 蘇州包囲戦の決着
- 四月丙申朔、劉知俊は延州を攻め、李延實は籠城した。劉知俊はさらに白水鎮使の劉儒に坊州を包囲させた。
- 庚子、後梁は王審知を閩王、劉隱を南平王に封じた。
- 劉知俊は延州を陥し、李延實を降した。
- 淮南軍は蘇州をなお包囲し、大型の攻城具を用いて攻めたが、吳越側は孫琰が仕掛けを工夫してこれを防いだ。
- 錢鏐は錢鏢・杜建徽らを救援に送り、さらに司馬福が水路から潜入して城内と連絡を取り、城中の号令と援軍が呼応した。
- また、錢鏐が日ごろ才能を見込んでいた園丁出身の陸仁章にも連絡任務を命じ、これも成功した。陸仁章はのちに軍糧監使まで昇進する。
- 辛亥、吳越軍は城内外から挟撃して淮南軍を大破し、将の何朗ら三十余人を捕らえ、戦艦二百艘を奪った。周本は夜に逃げ、皇天蕩でさらに敗れた。鍾泰章が二百の精兵で殿軍を務め、旗を湿地に多く立てて追撃を食い止めた。
鄜坊丹延の平定
- 岐王が任じた保大節度使の李彥博、坊州刺史の李彥昱はいずれも城を捨てて鳳翔へ逃げた。
- 鄜州都将の嚴弘倚が城を挙げて降った。
- 己未、高萬興を保塞節度使、絳州刺史の牛存節を保大節度使に任じ、後梁は鄜・坊・丹・延の地域を押さえた。
淮南の選挙制度復活
- 淮南ではこのころ、長く途絶えていた官人登用の制度を再び設け、駱知祥にこれを管掌させた。乱世の中で制度を立て直したことが注目される。
五月 劉知俊への不信と王重師の誅殺
- 丁卯、後梁帝は劉知俊に邠州攻略を命じたが、知俊は兵糧不足を理由に難色を示し、帝は彼を呼び戻した。
- 長安を守っていた佑國節度使の王重師は、帝が河中にいる間に貢納が遅れたことで不興を買っていた。己巳、帝は王重師を入朝させ、劉捍を佑國留後に任じた。
- 癸酉、帝は河中を発し、洛陽へ帰った。
- 劉捍が長安に着くと、王重師は礼を尽くさなかった。劉捍はこれを利用して、王重師が邠・岐と通じていると讒言し、甲申、王重師は溪州刺史に左遷されたのち自害を命じられ、一族も誅された。
劉守文の敗北と滄州包囲
- 劉守文は長年にわたって弟の劉守光を攻め続けたが勝てず、ついに契丹・吐谷渾の兵まで買収して薊州に四万を集めた。
- 守光は雞蘇で迎え撃って敗れたが、守文が陣前で「弟を殺すな」と涙ながらに兵へ呼びかけたため、守光の将・元行欽がその隙に守文を生け捕った。
- 滄・德の兵は潰走し、守光は守文を別室に幽閉したうえで、その勢いのまま滄州を攻めた。
- 滄州では節度判官の吕兖・孫鶴が守文の子の劉延祚を擁立して籠城した。
劉知俊、後梁に叛く
- 忠武節度使兼侍中の劉知俊は、功名が高まるほどに、猜疑深く残忍さを増す皇帝を恐れるようになった。王重師の誅殺によってその不安は決定的になった。
- 帝は河東討伐のため知俊を召して西面行營都統にしようとし、厚賞も加えたが、弟の劉知浣が密かに「入朝すれば必ず殺される」と告げた。
- 知浣はさらに弟や甥を率いて出迎えたいと願い、帝もこれを許した。
- 六月乙未、劉知俊は軍民に引き留められたと称して入朝を拒み、同州を挙げて岐に帰属した。帝に従わぬ監軍や将佐は拘束して岐へ送った。
- また華州を襲って刺史の蔡敬思を追い払い、潼關を守らせた。さらに長安の諸将を買収して劉捍を捕らえ、岐へ送って殺した。
- 劉知俊は岐へ救兵を求めるとともに、晋王にも使者を送り、晋・絳を攻めるよう促して「十日もあれば両京を取って唐の社稷を復せる」と書き送った。
朔方・潼關・長安の攻防
- 丁未、朔方節度使の韓遜は塩州を奪い、岐王配下の刺史・李繼直を斬った。
- 後梁帝は近臣に命じて劉知俊を諭させたが、知俊は王重師の二の舞を恐れると答えるばかりで、赦しの言葉にも応じなかった。
- 庚戌、帝は知俊の官爵を剥奪し、楊師厚・劉鄩らに討伐を命じた。辛亥、帝も洛陽を発した。
- 劉鄩は潼關東で劉知俊の伏兵を捕らえ、逆に道案内に使った。関吏は、いったん捕えられた兵だと知らず入れてしまい、その隙に後梁軍が突入して潼關を奪った。劉知浣も捕らえられた。
- 癸丑、帝は陜州に着いた。この頃、丹州でも反乱が起こり、刺史宋知誨は逃げ帰った。
- 劉知俊は一時、軽騎で行在所に赴いて謝罪しようと考えたが、弟の知偃に止められた。
- 楊師厚らが華州に至ると、知俊の将・聶賞が城門を開いて降伏した。潼關陥落を知った知俊は狼狽し、乙卯、一族を挙げて岐へ奔った。
- 楊師厚は奇兵を率いて南山沿いに急進し、西門から長安へ突入してこれを奪回した。
- 庚申、劉鄩を権佑國留後とした。岐王は劉知俊を厚遇して中書令としたが、与えるべき藩鎮がなく、俸禄だけを厚くした。
江南・江西の戦局
- 劉守光は後梁に戦果を報じ、滄・德平定後は河東をも掃討すると上表した。一方で晋王には「ともに偽梁を破ろう」と書き送り、両大国の間で立ち回った。
- 撫州刺史の危全諷は鎮南節度使を自称し、撫・信・袁・吉の兵十万を率いて洪州を攻めた。
- 淮南側の守兵はわずか千人ほどで、節度使の劉威は密かに広陵へ急報を送る一方、平然と酒宴を続け、危全諷は象牙潭で足を止めた。
- 危全諷は楚にも援軍を求め、楚王馬殷は苑玫を送り、袁州刺史の彭彥章とともに高安を包囲させた。
- 徐温は厳可求の推薦で周本を西南面行營招討應援使に任じ、七千で高安救援に向かわせた。周本は蘇州での失敗を理由に病と称していたが、厳可求が床の中から強引に起こした。
- 周本は「まず危全諷を破れば楚兵は退く」と見切り、洪州での犒賞にも立ち止まらず、急行して象牙潭に向かった。兵が寡勢であることを逆に利用し、敵が半ば渡河したところを撃つ策を取った。
七月 丹州平定・襄州の反乱
- 甲子、後梁は劉守光を燕王に封じた。
- 梁軍は丹州を奪回して王行思を捕らえた。商州刺史の李稠は住民を引き連れて西へ逃れようとしたが、州の将吏に追われて殺された。都押牙の李玫が州政を代行した。
- 庚午、佑國軍を永平軍と改称した。
- 河東軍は晋州を侵し、堯祠にまで迫ってから退いた。
- 癸酉、帝は陜州を発し、乙亥に洛陽へ着いたが病に伏した。
- もと襄州にいた楊師厚は、留後の王班に対して牙兵王求らを警戒するようたびたび忠告していたが、王班は侮って備えなかった。戊寅、王求を西境へ左遷しようとしたその夜、王求らが反乱を起こして王班を殺した。
- 乱兵は都指揮使の劉玘を留後に推したが、劉玘は偽って従い、翌日王延順とともに帝のもとへ逃げた。乱兵は李洪を留後に奉じ、蜀に帰属した。
- ほどなく房州刺史の楊虔も蜀に叛いた。
周本、危全諷を破る
- 庚辰、周本は溪を隔てて布陣し、まず弱兵で敵を誘った。危全諷軍が渡河して追うと、周本はその半分が渡ったところで総攻撃した。
- 危全諷軍は大崩れとなって自ら踏み合い、溺死者が続出した。周本は別働隊で退路も断ち、危全諷と将士五千を捕らえた。
- その勢いで袁州を奪い、刺史の彭彥章を捕らえ、さらに吉州へ進軍した。
- 歙州刺史の陶雅は子の陶敬昭・徐章らに兵を率いさせ、饒州・信州を襲撃した。信州刺史の危仔倡は降伏を請い、饒州刺史の唐寶は城を捨てて逃げた。
- 行營都指揮使の米志誠、都尉の吕師造らは上高で苑玫を破った。
- 吉州刺史の彭玕は数千を率いて楚へ逃れ、楚王馬殷は彼を郴州刺史にし、子の希範にその娘を娶らせた。
- 淮南は張景思に信州を治めさせ、骨言に五千を率いさせてこれを護送した。危仔倡は兵が来ると吳越へ逃げ、錢鏐はこれを受け入れて姓を元氏に改めた。
- 危全諷は広陵へ送られたが、弘農王はかつて楊行密に恩義があったことから、これを釈放し厚く遇した。
八月 江西平定と後梁帝の病
- 八月、虔州刺史の盧光稠が州を挙げて淮南に帰属した。これによって江西の地はほぼ楊氏の勢力圏に入った。ただし盧光稠自身は後梁にも使者を送って帰順の姿勢を示した。
- 甲寅、皇帝の病はやや軽くなり、久しぶりに朝政を見た。
- 鎮國節度使の康懷貞を西路行營副招討使に任じた。
- 蜀では太子王宗懿に六軍を統べさせ、永和府を開き、朝士を選んで属官にした。
- 辛酉、均州刺史の張敬方が房州を奪回した。
晋・岐の連携と晋州救援
- 岐王は劉知俊に靈州攻略を命じ、同時に晋王へ晋州・絳州を攻めるよう約した。
- 晋王は南下し、周德威らを先発させて隂地關から晋州を攻めさせた。刺史の邊繼威は必死に守り、晋軍は地道で城壁を崩したが、城内の血戦で防がれ、一夜で修復された。
- 後梁は楊師厚を救援に派遣した。周德威は䝉阬の険路を押さえたが、楊師厚に破られ、梁軍が晋州に達すると晋軍は包囲を解いて退いた。
襄州平定・政局
- 李洪は荆南に侵入したが、高季昌の将・倪可福に敗れた。
- 後梁は陳暉に荆南軍と協同して襄州討伐を命じ、蜀では王鍇が宰相となった。
- 陳暉が襄州に至ると李洪は迎え撃って大敗し、王求も戦死した。九月丁酉、襄州城は落ち、李洪・楊虔らは洛陽に送られて斬られた。
九月 宰相更迭・閩と淮南の断交
- 丁未、保義節度使の王檀が潞州東面行營招討使に任じられた。
- 劉守光は子の劉繼威を滄州安撫に送ったため、戊申、後梁はこれを義昌留後とした。
- 辛亥、韓建は太保に退き、楊涉も罷められ、趙光逢・杜曉が宰相となった。
- 淮南は張知遠を福建へ送り修好を求めたが、張知遠が傲慢であったため、閩王王審知はこれを斬り、その書を後梁に送った。これ以後、閩と淮南は断交した。
- 王審知は質素倹約で、粗末な履物を履き、役所も飾り立てず、刑罰を寛めて税を軽くしたため、公私ともに富み、境内は安定した。後梁への朝貢は、淮南を避けて危険な海路を用いたため、難破で失われる者が多かった。
十月 蜀の新暦と湖州の高灃
- 十月甲子、蜀の司天監・胡秀林が永昌暦を献じ、これが施行された。
- 湖州刺史の高灃は残虐で、住民を兵に編入して不満を口にした者を開元寺に集め、「犒賞」と偽って大量に殺した。外の者が気づいて反乱を起こすと、さらに大索して三千人を殺した。
- 錢鏐は高灃を討とうとし、戊辰、高灃は湖州をもって淮南に降り、義和・臨平の鎮を焼いて抗した。錢鏐は錢鏢に討伐を命じた。
十一月 羅紹威の病と邠寧方面の戦い
- 甲午、後梁帝は圓丘に告謝した。これは即位後、天に天下取得を報告する儀礼であった。
- 戊戌、大赦。
- 魏博を支える鄴王羅紹威は風痺を患い、「魏は大鎮で外兵も多いので、重臣を置いてほしい。自分は隠退したい」と上表した。帝はこれを聞いて大いに喜び、子の羅周翰を天雄節度副使・知府事とした。
- 岐王は劉知俊を置く場所として靈州を奪い、また牧馬地にしようとして、知俊に靈州を攻めさせた。
- 朔方の韓遜が救援を求めたため、康懷貞・寇彥卿が邠寧へ進軍し、寧・衍二州を破り、慶州南城を抜き、刺史李彥廣を降伏させた。
- 遊軍は涇州近くまで侵入し、劉知俊はこれを聞いて十二月己丑に靈州包囲を解いて引き返した。
十二月 康懷貞の敗北・王彥章
- 後梁帝は康懷貞らを急いで呼び戻し、三原・青谷方面へ救援を出した。
- 康懷貞らが三水まで戻ると、劉知俊軍が険所を塞いで待ち伏せした。左龍驤軍使の王彥章が力戦して道を開き、懷貞らはなんとか通過した。
- しかし懷貞は李德遇・許從實・王審權と分進したため援兵と連携できず、昇平付近で再び劉知俊の伏兵に遭って大敗し、本人のみ辛うじて逃れた。李德遇らの軍は全滅した。
- 岐王は戦功により劉知俊を彰義節度使として涇州に置いた。
- 王彥章は二本の大鉄槍を使うことで知られ、一本は鞍に、一本は手に持ち、無敵の勇将として「王鉄槍」と称された。
年末 蜀・燕・滄州の惨状
- 蜀の蜀州刺史・王宗弁は病と称して成都に戻り、門を閉ざして外に出なかった。蜀主は功を誇って不満を抱いていると疑ったが、王宗弁は「今の地位で足りる」と固辞し、蜀主もその志を嘉してこれを許した。
- 劉守光は長く滄州を攻め続け、城中では食糧が尽きて民は野草や泥を食べ、軍士は人や驢馬まで食った。吕兖は男女のうち弱い者を肥らせて煮て兵糧にあて、「宰殺務」と呼んだ。