資治通鑑後梁紀二 太祖神武元聖孝皇帝 開平 二年 908年

八月 吳越の対淮南策と蘇州方面の戦い

  • 八月、吳越王の錢鏐は、寧國節度使の王景仁を大梁へ遣わし、淮南を攻略する方策を上表した。王景仁はもとは王茂章といい、後梁の避諱のため改名していた。
  • これに対し淮南は、步軍都指揮使の周本・南面統軍使の吕師造を出して吳越を攻めさせた。
  • 九月、淮南軍は蘇州を包囲した。一方、吳越の将の張仁保は常州の東洲を攻め落とした。
  • しかし淮南は池州團練使の陳璋を水陸行營都招討使とし、柴再用ら諸将を率いて東洲救援に向かわせ、魚蕩で張仁保を大破し、東洲も奪い返した。
  • この戦いで柴再用は船が壊れたが、長い矛にすがって辛うじて渡り切った。家人が功徳のため僧千人に食事を施そうとすると、柴再用はその食をすべて兵に与え、「自分を救ったのは兵であって僧ではない」と言った。

蜀・晋・岐の動き

  • 丙子、蜀では周氏が皇后に立てられた。許州の人で、蜀主王建の糟糠の妻とみられる。
  • 晋の周德威・李嗣昭は三万の兵を率いて隂地關を出て晉州を攻めた。刺史の徐懐玉は籠城して防いだため、後梁帝は自ら救援に向かい、大梁を発して陜州に至った。
  • 戊子、岐王李茂貞が任じた延州節度使の胡敬璋が上平關に侵入したが、劉知俊がこれを撃破した。周德威らは皇帝来援の報を聞いて隰州へ退いた。

楚・荆南・嶺南の攻防

  • 荆南節度使の高季昌は兵を漢口に置き、楚の朝貢路を断った。楚王馬殷は許德勲に水軍を率いさせて沙頭まで進ませたため、高季昌は恐れて和睦を求めた。
  • 馬殷はさらに步軍都指揮使の吕師周を嶺南方面に送り、清海節度使の劉隱と十数度戦って、昭・賀・梧・䝉・龔・富の六州を奪った。
  • 馬殷は領土が広がると、兵備を整えつつ民力の休養に努め、湖南は安定へ向かった。

蜀宮廷・温韜の陵墓盗掘

  • 冬十月、蜀主は後宮の張氏を貴妃、徐氏を賢妃、その妹を德妃とした。張氏は郪の人で王宗懿の母、徐氏姉妹は徐耕の娘である。
  • 華原の賊帥・温韜は嵯峨山に拠って雍州諸県を荒らし、唐の諸帝陵をほとんど掘り返して財宝を奪った。昭陵では墓内の壮麗な構造や古い図書・書跡まで持ち去ったが、乾陵だけは風雨のため掘れなかったという。
  • 庚戌、蜀主は星宿山で大規模な閲兵を行った。

劉隱・梁震・南方政局

  • 丁巳、後梁帝は大梁に帰還した。
  • 辛酉、劉隱は清海・靜海の両節度使に任じられたが、交州方面を完全には掌握できなかった。後梁が派遣した趙光裔・李殷衡は、劉隱に留め置かれて仕えることになった。
  • 前進士の梁震は蜀へ向かう途中で江陵を通り、高季昌に才能を見込まれて幕僚に招かれたが、季昌の出自を恥じて官職就任を辞退し、白衣の客分としてのみ留まった。季昌はこれを重んじ、謀主として遇した。

十一月 後梁の対淮南遠征の失敗

  • 後梁帝は錢鏐の請いに応え、亳州團練使の寇彥卿を東南面行營都指揮使として淮南討伐に向かわせた。
  • 十一月、寇彥卿は二千を率いて霍丘を奇襲したが、土地の豪族・朱景に敗れた。さらに廬州・壽州を攻めても落とせず、淮南の滁州刺史・史儼が迎撃に来ると退却した。

北方諸勢力の変動

  • 定難節度使の李思諫が死去し、その子の李彞昌が自ら留後を称した。
  • 劉守文は滄州・德州の兵を率いて弟の劉守光が拠る幽州を攻め、守光は晋に救援を求めた。晋王は五千を送った。
  • 丁亥、守文軍は盧臺軍で敗れ、さらに玉田でも敗れて撤退した。

宰相交代と延州情勢

  • 癸巳、中書侍郎同平章事の張策は刑部尚書として致仕し、左僕射の楊涉が同平章事となった。
  • 保塞節度使の胡敬璋が死ぬと、靜難節度使の李繼徽は部将の劉萬子を延州鎮守に当てた。

年末 淮南の対外連携と後梁の遷都計画

  • この年、弘農王楊渥は軍将の萬全感に書を持たせ、間道から晋と岐へ赴かせて、自らの即位を告げた。
  • 後梁帝は都を洛陽へ移す計画を進めた。