資治通鑑後梁紀 太祖神武元聖孝皇帝下 乾化 一年 911年
三月 嶺南・蜀・関中の動き
- 乙酉朔、後梁は天雄留後の羅周翰を正式に節度使へ任じた。
- 清海・静海節度使で中書令を兼ねていた南平襄王劉隱は病が重くなり、弟の劉巖に留後の職務代行を願い出たのち死去した。劉巖がその地位を継いだ。
- 岐王李茂貞が兵を集めて蜀の東境をうかがうと、蜀主王建は、かつて自分が李茂貞を助けたのに恩を仇で返したと怒り、討伐を決断した。
- 王宗侃が出征を請い、蜀主はこれを北路行営都統に任じた。趙温珪は、敵がまだ侵入していないのに諸将が功を求めて深入りすれば補給路が遠くなり不利だと諫めたが、聞き入れられなかった。
- 蜀は王宗祐・王宗賀・唐道襲を三路の招討使とし、王宗紹を副将として歩騎十二万を率いさせ、岐へ向けて進軍させた。
- 壬辰、蜀軍は成都を発し、その軍容は数百里に及んだ。
- 岐王は華原の盗賊首領温韜を養子として取り立て、華原を耀州、美原を鼎州とし、義勝軍を置いて節度使に任じ、邠・岐の兵を率いて長安を脅かさせた。後梁は康懐貞・牛存節らに同華・河中の兵を合わせて討たせ、己酉、車度で温韜を破って退けた。
四月 岐と蜀の交戦
- 乙卯朔、岐の兵が蜀の興元に侵入したが、唐道襲がこれを撃退した。
五月 後梁の大赦と嶺南の整備
- 帝は病が長引いていたため、甲申朔に大赦を行った。
- 甲辰、劉巖を清海節度使に任じた。
- 劉巖は中原から流れてきた士人を多く幕府に招き、外に出して刺史とした。武人を州刺史にしない統治方針を採った。
六月 蜀主の親征と燕王守光の増長
- 癸丑朔、蜀主は利州に至り、親征して岐討伐を後押ししようとしたため、太子に監国を命じた。
- 燕王劉守光は以前から天子の服色に似た赭袍をまとい、自ら帝位を望む気持ちを将吏に漏らしていた。
- 孫鶴は、国内は疲弊し、晋や契丹の脅威もあるので、まず士を養い民を愛し兵糧を蓄えるべきだと諫めたが、守光は不機嫌になった。
- 守光は鎮・定に働きかけて自分を尚父に推戴させようとした。趙王王鎔はこれを晋王に知らせた。
- 晋王は激怒して討伐を考えたが、諸将は「推戴するふりをしてさらに驕らせ、滅亡を早めるべきだ」と進言した。
- そこで晋王・王鎔・王処直ら六鎮は連名で劉守光を尚書令・尚父に推戴した。守光はこれを本気の服属と誤認し、ますます増長した。
- 守光は後梁へ上表し、河北都統に任じてくれれば并州や鎮州など平定してみせる、と大言した。帝はその狂妄を見抜きつつ、河北道採訪使に任じ、王瞳・史彦羣に冊命を持たせた。
- 守光は冊礼の文案を見て、郊天や改元が含まれていないことに怒り、自分は河北二千里・三十万兵を有するのだから「河北の天子」になれるとして、即位儀礼の準備を命じた。
- 王瞳や史彦羣ら使節はいったん捕らえられたが、のちに釈放された。
- 後梁は楊師厚に三万を与えて邢州に駐屯させた。これは表向き燕牽制でありつつ、実際には趙を圧迫する意味もあった。
秋七月 蜀軍の勝利、後梁宮廷の乱れ、晋趙の結束
- 蜀の諸将は岐兵をたびたび破った。
- 蜀主は西へ帰り、御営使の昌王宗鐬を利州に残した。
- 辛丑、帝は張宗奭の邸に避暑したが、その家の婦女に乱暴を働き、宗奭の子張継祚は憤って帝を殺そうとした。宗奭は、かつて河陽で飢えに苦しんだ自分たち一家を朱温が救った恩を説いて制止した。甲辰、帝は宮へ戻った。
- 趙王王鎔は邢州に楊師厚がいることを深く恐れ、承天軍で晋王と会見した。晋王は王鎔に対しきわめて丁重に接し、梁軍が侵入すれば自ら率兵して防ぐと請け合った。
- 王鎔は晋王を「四十六舅」と呼んで盃を捧げ、幼子王昭誨を従わせた。晋王は衣の襟を断って盟約し、自分の娘を王昭誨に嫁がせる約束をした。これにより晋と趙の結びつきはいっそう強固になった。
八月 劉守光の称帝
- 庚申、蜀主は成都に帰還した。
- 劉守光は帝位につく意志を固めたが、側近たちの多くは密かに反対した。守光は庭に斧と台を置き、諫める者は斬ると威した。
- 孫鶴はなおも、今は帝を称すべき時ではないと命を懸けて諫めた。守光は怒って孫鶴を惨殺し、口を土で塞がせてさらに寸断させた。孫鶴は死に際して「百日もしないうちに大軍が来る」と言い残した。
- 甲子、守光は即皇帝位につき、国号を燕、元号を応天とした。王瞳を左相、齊涉を右相、史彦羣を御史大夫にした。
- 冊命を受ける日に契丹が平州を陥れ、燕の人々は大いに動揺した。
八月〜九月 蜀と岐の激戦
- 岐王は劉知俊・李繼崇に兵を与えて蜀を攻めさせた。
- 乙亥、青泥嶺で王宗侃・王宗賀・唐道襲・王宗紹らがこれと戦ったが、蜀軍は大敗した。王宗浩は興州へ逃れて江で溺死し、唐道襲は興元へ退いた。
- 王宗綰が西県に築いた安遠軍の城に、王宗侃・王宗賀らは敗残兵をまとめて籠城した。劉知俊・李繼崇はこれを包囲した。
- 興元を捨てるべきだとの議論に対し、唐道襲は、興元を失えば安遠・利州も続いて危うくなるとして死守を主張した。
- 蜀主は昌王宗鐬を応援招討使、王宗播を四招討の馬歩都指揮使として派遣し、廉水・譲水の間に布陣させ、唐道襲と合流させた。
- 蜀軍は明珠曲で岐兵を大破し、翌日鳧口でも勝ち、成州刺史李彦琛を斬った。
九月 後梁帝の北巡
- 帝は病がやや回復すると、晋と趙が侵攻を計画していると聞き、自ら出征して防ごうとした。
- 戊戌、張宗奭を西都留守に任じ、庚子に洛陽を発した。甲辰に衛州へ着いたが、食事中に「晋軍が井陘を出た」との報を受け、急いで北へ向かい、丙午には相州に至った。ところが晋兵は出ていないと判明し、そこで停まった。
- 相州刺史李思安は帝の突然の来着に備えがなく、慌てふためいたため官爵を削られた。
十月 晋の外交攻勢と蜀の反撃
- 辛亥朔、湖州刺史銭鏢は酒乱のうえに人を殺し、罪を恐れて都監潘長・推官鍾安徳を殺して呉へ逃れた。
- 晋王は劉守光の称帝を聞いて大笑いし、「年数を占わせてから、その鼎を問おう」と嘲った。
- 張承業は、使者を送って祝賀し、さらに驕らせる策を勧めた。晋王は李承勲を派遣した。
- 幽州で燕側は李承勲に臣下の礼を要求したが、承勲は唐の官として他国の使者が燕王に臣従する道理はないと拒み、幽閉されても屈しなかった。守光はついに強制できなかった。
- 蜀主は再び利州へ赴き、太子に監国を命じた。
- 蜀の決雲軍虞候王琮は岐兵を破り、将の李彦太を捕え、三千級を斬った。
- 王宗侃は副将林思諤を中巴経由で泥溪へ走らせ、蜀主に救援を求めた。蜀主は王宗弼を派遣し、斜谷で劉知俊を破った。
十月 後梁軍の空騒ぎ
- 甲寅の夜、帝は相州を発し、乙卯に洹水へ達した。その夜、「晋・趙の兵が南下した」との報が入ると、ただちに進軍し、丙辰に魏県へ至った。
- 「沙陀が来た」との流言で軍中は恐慌状態となり、兵は多く逃亡した。厳罰でも止められなかったが、やがて誤報と分かってようやく落ち着いた。
- 戊午、貝州から「晋兵が東武に侵入したがすぐ引き上げた」と報告があった。
- 帝は夾寨・柏郷での敗戦の恥を雪ごうとして無理に北巡したため、気分は鬱屈し、怒りっぽくなっていた。功臣や宿将も些細な過失で処刑され、軍心はいよいよ恐怖した。
- 結局、晋・趙の兵は出てこなかった。
十一月 燕・定州・河西方面
- 壬午、帝は南へ帰還した。
- 劉守光は将吏を集めて易定攻撃を相談した。幽州参軍の馮道は時機ではないと諫めたが、投獄され、助命されたのち晋へ亡命した。張承業はこれを晋王に推薦し、掌書記とした。
- 丁亥、王処直が晋に救援を求めた。
- 戊子、帝は獲嘉に到着した。懐州刺史段明遠は盛大な饗応を行い、帝に喜ばれた。
- 庚寅、高万興は都指揮使高万金を派遣して塩州を攻めさせ、高行存を降した。
- 壬辰、帝が洛陽に戻ると病が再発した。
- 蜀では王宗弼が金牛で岐兵を破って十六寨を抜き、六千余級を斬り、郭存らを捕えた。
- 丙申、王宗鐬・王宗播も黄牛川で岐兵を破り、蘇厚らを捕えた。
- 丁酉、蜀主は利州から興元へ進んだ。援軍が着くと、安遠軍の王宗侃らは旗を見て鼓噪し、内外から岐兵を挟撃した。岐軍は大敗し、二十一寨を失い、李廷志らが斬られた。己亥に包囲を解いて退き、唐道襲が斜谷に伏せてさらに撃破した。庚子、蜀主は西へ帰った。
- 岐王の側近石簡顒が劉知俊を讒言したため、岐王はその兵を奪った。李繼崇が、窮して帰順した勇士を讒言で失ってはならないと進言したので、岐王は石簡顒を誅して劉知俊をなだめた。李繼崇は劉知俊一家を秦州に移して保護した。
十二月 易定救援、南方諸勢力の動き
- 戊申、燕主守光は二万を率いて易定に侵入し、容城を攻めた。王処直は晋に急を告げた。
- 乙卯、朗州留後馬賨を永順節度使・同平章事に任じた。
- 虔州の盧延昌は狩猟にふけって政務を顧みず、百勝軍指揮使黎球に殺された。譚全播も殺されかけたが、病と老いを理由に退く姿勢を見せて免れた。丙辰、朝廷は黎球を虔州防禦使に任じたが、ほどなく黎球は死んだ。李彦図が州務を代行し、譚全播は病が重いふりを続けた。
- 劉巖は譚全播の病を聞いて韶州を攻め、刺史廖爽を敗走させた。楚王馬殷は廖爽を永州刺史にした。
- 丁巳、蜀主は成都に帰還した。
- 戊午、静海留後の曲美を節度使に任じた。
- 癸亥、姚彦章を寧遠節度副使として容州をあずからせた。これは楚王馬殷の請願によるものだった。
- 劉巖が容州に兵を向けると、馬殷は許徳勲に桂州兵を率いさせて救援に向かわせた。姚彦章は守れず、容州の士民と府庫を長沙へ移して撤退したため、劉巖は容管と高州を占領した。
- 甲子、晋王は周徳威に三万を与え、燕を攻めて易定を救わせた。
- この年、蜀主は潘炕を武泰節度使とし、その従弟潘峭を内枢密使に任じた。