資治通鑑唐紀八十一 昭宣帝 天祐 二年 905年
正月 淮南・両浙・寿州方面の戦い
- 朱全忠は諸将に命じて寿州へ圧力を加えた。
- 潤州団練使の安仁義は勇敢で兵心を得ており、淮南の王茂章が一年余り攻めても落とせなかった。楊行密は、帰順するなら高位を与えるが兵権は持たせぬと説得したが、安仁義は応じなかった。
- 王茂章は地道を掘って城中へ入り、ついに潤州を落とした。安仁義は一族を率いて楼に登って抵抗したが、李徳誠の礼節を評価し、自分を討つ功績を彼に与えようとして愛妾まで贈った。結局、安仁義とその子は広陵で処刑された。
- 陳詢が拠る睦州を両浙軍が囲んだ。楊行密は陶雅を救援に遣わしたが、夜間の混乱で兵が逃げても陶雅は動じず、やがて軍は立て直された。錢鏐が弟の錢鎰らを出して防いだが、陶雅に敗れて捕えられた。
- 庚午、朱全忠は李振に青州の事務を掌らせ、王師範に代えた。
- 朱全忠は寿州を囲んだが、城中は籠城して出てこなかったため、霍丘へ退いて後勢とした。
- 辛卯、朱全忠は大梁へ帰着した。
- 李振が青州に着くと、王師範は一族を率いて西へ移され、濮陽に至ると罪人のような服装で驢馬に乗り、朱全忠に謝罪の意を示した。朱全忠は彼を客分として遇し、李振を青州留後とした。
二月 諸王殺害・鄂州陥落・昭宗埋葬
- 戊戌、朱全忠の兄である朱全昱を太師として致仕させた。
- 同日、社日にあわせ、朱全忠は蔣玄暉に命じて昭宗の諸子、すなわち徳王裕ら九王を九曲池に招き、酒宴の最中にすべて絞め殺して池へ投げ込ませた。
- 朱全忠は将の曹延祚を派遣し、杜洪とともに鄂州を守らせたが、庚子、淮南の劉存が鄂州を陥落させ、杜洪・曹延祚らを広陵へ送って皆殺しにした。楊行密は劉存を鄂岳観察使とした。
- 己酉、昭宗を和陵に葬り、廟号を昭宗とした。
三月 宰相更迭と柳璨の専横
- 庚午、王師範を河陽節度使とした。
- 戊寅、独孤損を静海節度使へ出し、張文蔚を同平章事とした。
- 甲申、裴樞を左僕射、崔遠を右僕射とし、いずれも政事から退けた。
- 柳璨は若くして宰相に上り、軽薄で権勢にへつらう性格で、朱全忠側近に取り入っていた。裴樞・崔遠・独孤損ら朝廷の宿望を軽んじ、逆に彼らから軽視されていたことを恨んでいた。
- 和王傅の張廷範を太常卿にする議が出ると、裴樞は、勲臣なら方鎮など相応の職があるはずで、礼楽をつかさどる官に据えるべきでないと強く反対した。朱全忠はこれを聞いて、裴樞がなお清議に立つ本性をあらわしたとみなし、柳璨はこの機に裴樞・崔遠・独孤損を讒言し、三人は退けられた。
- 吏部侍郎の楊涉が宰相となった。楊涉は任命を家の不幸と感じ、子の楊凝式に、自分の身が一門へ累を及ぼすだろうと泣いて語った。
- 劉隱には同平章事を加えた。
- 河東では都押牙の蓋寓が死に臨んで李克用へ書を残し、造営を減らし、租税を軽くし、賢者を求めるよう勧めた。
四月 彗星出現と婺州戦線
- 庚子、西北に彗星が現れた。
- 淮南の陶雅は衢州・睦州の兵とともに婺州を攻めた。錢鏐は弟の錢鏢を救援に送った。
五月 禅代準備と「清流」粛清の始まり
- 礼院は、新帝即位に伴い南郊祭祀を行うべきだと奏し、十月甲午をその日と定めた。
- 乙丑、彗星は天を横切るほど長く伸びた。
- 柳璨は朱全忠の威を借りて恣意にふるまい、星変に対して占者が「君臣ともに災いがあり、誅殺でこれに応ずべし」と言うと、自分が憎む者を列挙して、陰で徒党を組み政権を非難する者どもだと朱全忠に訴えた。
- 李振も、朝廷が乱れるのは衣冠の士が綱紀を紊したためであり、大事を図るならまず彼らを除くべきだと勧めた。朱全忠はこれに同意した。
- 癸酉、独孤損を棣州刺史、裴樞を登州刺史、崔遠を萊州刺史へ左遷した。
- 乙亥には陸扆・王溥、庚辰には趙崇・王賛らも地方官へ落とされた。
- 門第が高い者や科挙出身者で、台閣にあって名節を重んじる者は、みな「浮薄」と決めつけられて追放された。士大夫の列はほとんど空になった。
- 辛巳、裴樞を瀧州司户、独孤損を瓊州司户、崔遠を白州司户へさらに落とした。
- 甲申、趙匡凝は王建へ使者を送り、修好を求めた。
六月 白馬の禍
- 戊子朔、裴樞・独孤損・崔遠・陸扆・王溥・趙崇・王賛らに、それぞれ流された先で自尽を命じた。
- このとき朱全忠は、樞ら三十余人の左遷官を白馬驛に集め、一夜で皆殺しにして黄河へ投げ込ませた。李振は、彼らは自ら「清流」と称するから黄河へ投げて「濁流」にしてやればよいとそそのかしていた。
- 李振は汴から洛陽へ来るたびに、必ず誰かが追放されたので、人々は彼を凶鳥になぞらえた。
- 朱全忠はまた、柳の木を車の轂に用いるという何気ない話に追従した遊客たちを、無知な追従者だとしてその場で殺させた。
- 己丑、裴贄も青州司户へ落とされ、まもなく死を賜った。柳璨の怒りの矛先はなお十数人に及んだが、張文蔚が強くとりなしてようやく止まった。
- 士大夫の多くは乱を避けて朝廷に入らなかったため、壬辰、州県に対し彼らを督促して出仕させよとの詔が出された。李徳裕の孫・李延古も、平泉荘に隠れていたが、詔が届く前に衛尉寺主簿へ降格された。
七月 魏博・襄陽方面の動乱
- 癸亥、柳遜を曹州司馬に左遷した。
- 庚午夜、天雄の牙将李公佺が牙軍とともに乱を起こしたが、羅紹威に察知され、公佺は府舎を焼き掠奪して滄州へ逃れた。
- 八月を前に、王建は王宗賀らを金州へ送り、昭信節度使の馮行襲を攻めた。
- 朱全忠は、趙匡凝が東では楊行密、西では王建と連絡しているとして、乙未、楊師厚を派遣してこれを討たせ、さらに己亥、自ら大軍を率いて続いた。
- 處州刺史の盧約は、弟の盧佶に温州を陥れさせ、張惠は福州へ逃れた。
- 錢鏐は婺州救援に方永珍を送った。
八月 司空図と朱全忠の南進
- 司空図は以前から官を捨てて虞郷の王官谷に隠れていた。昭宗がたびたび召しても出なかったが、柳璨が詔で呼ぶと洛陽へ出てきた。司空図はわざと老い衰えた姿を見せて礼を失し、柳璨は逆に、世を傲り名を釣る者だとして放還する詔を出した。
- 楊師厚は唐・鄧・復・郢・隨・均・房の七州を攻め落とした。
- 朱全忠は漢水北岸に軍を進めた。
九月 襄陽・荆南の陥落
- 辛酉、楊師厚に陰谷口で浮橋を作らせ、癸亥に朱全忠軍は漢水を渡った。
- 甲子、趙匡凝は二万の兵で漢水のほとりに布陣したが、楊師厚に大破された。軍はそのまま襄陽城下に迫った。
- その夜、趙匡凝は自ら府城を焼き、一族と麾下を率いて漢水沿いに広陵へ逃れた。乙丑、楊師厚は襄陽に入り、丙寅には朱全忠も着いた。
- 趙匡凝が広陵に着くと、楊行密は、平時には朱全忠へ貢ぎながら敗れると自分に頼るのかとからかった。趙匡凝は、諸侯が天子へ貢ぐのは職分であって賊に貢いだのではない、自分がここへ来たのは賊に従わなかったからだと答えた。
- 同日、皇弟禔を潁王、祐を蔡王とした。
- 丁卯、荆南節度使の趙匡明も二万の兵を率いて江陵を捨て、成都へ逃れた。
- 戊辰、朱全忠は楊師厚を山南東道留後に任じ、自らは江陵を攻めた。楽郷に至ると、荆南の牙将王建武が降伏を申し出たため、賀瓌を荆南留後に任じた。のち楊師厚を山南東道節度使とした。
金州・婺州・淮南の動き
- 王宗賀らは馮行襲を攻めて連勝し、丙子、馮行襲は金州を捨てて均州へ逃れた。その将全師朗が城をもって降り、王建はこれを王宗朗と改名して金州観察使に任じ、渠・巴・開三州を属させた。
- 乙酉、郊祀の日取りを十一月癸酉に改めた。
- 淮南の陶雅・陳璋は婺州を奪い、刺史の沈夏を捕えた。楊行密は陶雅を江南都招討使・歙婺衢睦観察使、陳璋を副招討使とした。
- 陳璋が暨陽を攻めると、両浙の方習に敗れた。方習はさらに婺州を攻めた。
- 濠州団練使の劉金が死に、その子の劉仁規が州政を掌った。
楊行密の後継問題
- 楊行密の長子・楊渥は日ごろ評判がよくなく、軍府でも軽んじられていた。楊行密が病床に伏すと、節度判官の周隱に楊渥召還を命じたが、周隱は楊渥は軽薄で讒言を信じ、球技と酒にふけるので家を保てる主ではない、劉威に軍府を委ねるべきだと進言した。楊行密は答えなかった。
- 徐温・張顥は、王が万死を冒して築いた基業を他人に渡すわけにはいかないと主張した。楊行密は、自分はこれで目を閉じられると言った。
- 幕僚の厳可求は徐温とともに周隱のもとへ行き、机上に残っていた召還文書を取り出して使者を宣州へ送った。
- 楊行密は王茂章を宣州観察使に転じさせた。
十月 朱全忠の淮南遠征失敗
- 丙戌朔、朱全忠を諸道兵馬元帥とし、別に幕府を開かせた。
- その日、朱全忠は帰還の部署を変えて、勝勢に乗じて淮南を攻めようとした。敬翔は、荆南・襄陽という二大鎮を一月足らずで平らげた威望を大切にし、いまは帰って兵を休めるべきだと諫めたが、聞き入れられなかった。
- 昭信軍は戎昭軍と改称された。
- 辛卯、朱全忠は襄州を発ち、申州から光州へ向かったが、豪雨と悪路で軍は疲弊し、冬衣も足りず逃亡者が続出した。
- 光州刺史の柴再用に降伏を勧め、降れば蔡州刺史にすると脅したが、柴再用は城を堅く守り、まず寿州が落ちたなら従うと答えた。朱全忠は旬日ほど城東に留まっただけで去った。
- 起居郎の蘇楷らは、昭宗の諡号は美辞が過ぎるとして改定を求めた。太常に下され、丁酉、張廷範の奏により、昭宗は「恭靈莊愍孝皇帝」と改諡され、廟号も襄宗に改められた。
- 楊渥が広陵へ着くと、辛丑、楊行密は承制により淮南留後とした。
- 戊申、朱全忠は光州を発して寿州へ向かったが、道に迷い、雨にも妨げられた。寿州側は籠城と清野で応じ、木材不足で囲いも作れなかったため、朱全忠は正陽へ退いた。
- 癸丑、成徳軍の名を武順軍に改めた。
十一月 朱全忠帰還と禅譲工作の急展開
- 丙辰、朱全忠は淮水を渡って北へ退いた。柴再用がその後軍を襲い、首三千を挙げ、多数の軍資を奪った。朱全忠は敬翔の言を用いなかったことを悔やみ、ますます苛烈になった。
- 丁卯、大梁に帰着した。
- 以前から朱全忠は禅譲を急ぎ、蔣玄暉・柳璨らは、魏晋以来の先例に従って、まず大国封建・九錫・殊礼を段階的に行うべきだと議していた。そこで朱全忠に諸道元帥を加え、さらに刑部尚書の裴迪を官告使として遣わしたところ、朱全忠は激怒した。
- 宣徽副使の王殷・趙殷衡は、蔣玄暉の権勢を憎み、彼と柳璨らが唐の命脈を引き延ばしていると讒言した。
- 蔣玄暉は恐れて寿州の朱全忠に直接弁明したが、朱全忠は、たとえ九錫を受けなくても自分は天子になれると怒鳴りつけた。蔣玄暉は、晋・燕・岐・蜀などの敵がなお強いので、義理を尽くした形を取るのが万代の業にかなうと弁じたが、朱全忠はなお怒った。
- 百官が郊祀の儀礼を習っている最中、裴迪が大梁から戻り、柳璨・蔣玄暉らが郊天によって唐祚を延ばそうとしていると朱全忠が怒ったと告げた。柳璨らは恐れ、庚午、郊祀を翌年正月上辛に延期した。
- 壬申、趙匡明が成都に着いた。
- 王建のもとへ昭宗の喪を告げる使者・司馬卿がようやく蜀へ入ったが、韋莊の献策により、王宗綰が途中で、蜀の将士は昭宗弑逆を聞いて復讐を誓っている、使者は進退を考えるべきだと告げた。司馬卿は引き返した。
- 庚辰、楊行密が死去した。将佐は宣諭使の李儼に承制を請い、楊渥を淮南節度使・東南諸道行営都統・侍中・弘農郡王に任じた。
十一月後半 朱全忠に魏王・九錫、ただし辞退
- 柳璨・蔣玄暉らは朱全忠への九錫加授を議した。朝士の多くは内心憤っていたが、蘇循だけは人望も天命も梁王に帰した、朝廷は早く譲るべきだと公言した。
- 辛巳、朱全忠を相国・総百揆とし、二十一道をあわせて魏国とし、魏王に進め、なお九錫を加えた。
- だが朱全忠は、手続きが遅いと怒って受けようとしなかった。
十二月 蔣玄暉・柳璨の失脚、何太后の廃殺
- 戊子、樞密使の蔣玄暉が手詔を持って朱全忠のもとへ赴いた。
- 癸巳、大梁から帰ると、朱全忠の怒りはまだ解けていないと報告した。
- 甲午、柳璨は、世論はすでに梁王に帰しており、皇帝が重荷を解く時だと奏し、その日のうちに自ら大梁へ赴いて禅譲の意を伝えたが、朱全忠は拒んだ。
- 柳璨は白馬の禍をはじめ朝士を害しすぎており、朱全忠自身も彼を憎んでいた。柳璨・蔣玄暉・張廷範は日々宴集して禅代を図っていたが、何太后は宮人の阿虔・阿秋を通じて蔣玄暉に助命を求め、蔣玄暉は禅譲後に母子の命を全うさせたいと答えていた。
- 王殷・趙殷衡はさらに、蔣玄暉が柳璨・張廷範と積善堂で何太后に香を焚いて誓い、唐祚再興を約したと讒言した。朱全忠はこれを信じ、乙未、蔣玄暉と豊徳庫使の應頊、御厨使の朱建武を獄につないだ。王殷が樞密事を、趙殷衡が宣徽院事を代行した。
- 朱全忠は三度、魏王と九錫を辞退する表を出した。丁酉、詔でこれを許し、あらためて天下兵馬元帥とした。しかしその頃、大梁ではすでに宮殿造営が進んでいた。
- 同日、蔣玄暉を斬り、應頊・朱建武を杖殺した。
- 庚子、樞密使と宣徽南院使を廃し、宣徽使一員のみを置いて王殷を任じ、趙殷衡を副使とした。
- 辛丑、宮人が詔命を伝えたり朝会に関わることを禁じた。
- 蔣玄暉は死後なお逆臣としてさらされ、河南府でその屍を都門外に掲げ、衆人の前で焼かれた。
- 王殷・趙殷衡はさらに、蔣玄暉が何太后と私通したと讒した。己酉、朱全忠はひそかに二人へ命じ、積善宮で何太后を殺させ、庶人に落とした。阿秋・阿虔も殿前で打ち殺された。
- 庚戌、皇太后の喪として三日間の廃朝が行われた。
- 辛亥、宮禁の内乱を理由に、翌年正月上辛の郊廟祭祀も取りやめた。
- 癸丑、柳璨を登州刺史に、張廷範を萊州司戶に左遷した。
- 甲寅、柳璨を上東門外で斬り、張廷範を都市で車裂きにした。柳璨は、国を負う賊たる自分が死ぬのは当然だと叫んだ。
- 西川では王宗朗が金州を守れず、城邑を焼いて成都へ逃げた。馮行襲は金州を取り返し、その荒廃を理由に節度使の治所を均州へ移すよう求め、認められた。
- 陳詢は睦州を守れず、広陵へ逃れた。陶雅が睦州に入った。
- 楊渥は宣州を去る際に幕舎や親兵を引き抜こうとして王茂章と不仲になっていたため、即位後まもなく李簡らを派遣して宣州の王茂章を襲わせた。