五月 朱全忠の帰還と諸勢力の動き
- 五月丙寅、河陽節度使の張漢瑜に同平章事を加えた。
- 皇帝は崇勲殿で朱全忠と百官を宴に招き、宴の後さらに内殿にも朱全忠を呼んだが、朱全忠は危険を疑って入らなかった。皇帝が敬翔を代わりに呼ぼうとすると、朱全忠は敬翔も行かせなかった。彼は皇帝が自分を害しようとしているのではないかと疑っていた。
- 辛未、朱全忠は東へ帰還し、乙亥に大梁へ着いた。
- 忠義節度使の趙匡凝は水軍を三峡上流へ進めて夔州を攻めたが、渝州側の王宗阮らに破られた。万州刺史の張武は江中に鉄索を張って両岸に柵を設け、峡路を固めた。
六月 岐・蜀の連携と朱全忠の西征
- 李茂貞・王建・李繼徽は檄を飛ばし、連合して朱全忠を討とうとした。
- 朱全忠は鎮國節度使の朱友裕を行営都統として歩騎を率いさせ、保大節度使の劉鄩には鄜州を捨てて同州へ退き、友裕軍と連携させた。
- 癸丑、朱全忠は自ら大梁を発して西へ向かい、李茂貞らを討った。
七月 王建の対岐政策と蜀中の内政
- 甲子、朱全忠は東都を通過して入朝し、壬申には河中へ至った。
- 西川の諸将は、李茂貞が衰えた機に乗じて鳳翔を奪うべきだと王建に勧めた。王建が節度判官の馮涓に諮ると、馮涓は、蜀は軽々しく兵を尽くすべきでなく、いま梁と晋が争っている以上、鳳翔を蜀の外郭として保たせる方が得策だと説いた。王建はこれをよしとし、李茂貞と和親する方針を取った。
- 丙子、李茂貞は判官の趙鍠を西川に遣わし、甥の天雄節度使李繼勲のために王建の娘を求婚した。王建はこれを受け入れた。
- 李茂貞はたびたび軍資や兵甲を王建に求め、王建は与え続けた。
- 王建の課税は重かったが、馮涓は王建の誕生日に献じた頌文の中で、その功績をたたえつつ民の苦しみを諫めた。王建は恥じて謝し、以後は取り立てをやや軽くした。
昭宗と徳王をめぐる不安
- 朱全忠は、以前に昭宗を鳳翔から迎えた際、徳王裕が容貌すぐれ年長でもあったため、自らの将来に不利と見て嫌った。
- 彼は崔𦙍に対し、徳王は帝位をうかがったことがあるから除くべきだとほのめかし、崔𦙍がそれを皇帝に伝えた。皇帝が朱全忠に問いただすと、朱全忠は知らぬふりをして、逆に崔𦙍が自分を売ったのだと述べた。
- 昭宗は長安を離れて以来、身の危険を恐れ、皇后とともに日々酒に溺れ、ときに向き合って泣いた。
- 朱全忠は樞密使の蔣玄暉に帝の動静を探らせていた。皇帝は蔣玄暉に、徳王は愛子なのになぜ朱全忠は殺したがるのかと涙ながらに訴え、指を噛んで血を流した。蔣玄暉はこれを朱全忠にそのまま伝えたため、朱全忠はいよいよ不安を深めた。
- 当時、李茂貞・楊崇本・李克用・劉仁恭・王建・楊行密・趙匡凝らは、いずれも「唐室再興」を名目に檄を交わしていた。朱全忠は西征中でもあり、昭宗に英気があるのを恐れ、幼君を立てて禅譲を進めやすくしようと考えた。
八月 昭宗弑逆と昭宣帝の擁立
- 朱全忠は判官の李振を洛陽へ送り、蔣玄暉・左龍武統軍の朱友恭・右龍武統軍の氏叔琮らとともに計画を進めさせた。
- 壬寅夜、昭宗が椒殿にいたとき、蔣玄暉は龍武の牙官史太ら百人を選び、軍前からの急奏と称して宮門を開かせた。裴貞一が不審をいだくと史太は彼女を殺害した。昭儀の李漸榮は皇帝をかばって叫んだが、史太は酔って逃げる昭宗を追って殺し、李漸榮もまた殺した。何皇后も殺されかけたが、蔣玄暉に哀願して助かった。
- 癸卯、蔣玄暉は偽詔を出し、李漸榮・裴貞一が逆をなしたとし、輝王祚を皇太子に立てて柷と改名させ、軍国を監させた。さらに偽って皇后の令を出し、太子を柩前で即位させた。宮中は恐怖に沈み、声をあげて泣く者もなかった。
- 丙午、昭宣帝が即位した。年は十三。
- 李克用は再び張承業を監軍とした。
- 淮南では李神福が鄂州を攻めていたが落とせず、病により広陵へ戻り、楊行密は舒州団練使の劉存を後任の招討使とした。まもなく李神福が死に、宣州観察使の臺濛も死んだ。
- 楊行密は子の楊渥を宣州観察使に任じた。徐温は楊渥に、もし王からの正式な令書と自分の使者がそろわぬうちは軽々しく呼び出しに応じるなと忠告した。
九月 朱全忠の動きと各地の変化
- 己巳、皇后を皇太后とした。
- 朱全忠は北の永壽に軍を置き、南は駱谷にまで圧力を加えたが、鳳翔・邠寧の兵はついに出なかった。辛未、朱全忠は東へ戻った。
- 淮南では李神福の死後、劉存が鄂州攻略を引き継いだ。
十月 日食と朱全忠の「弑逆犯人」処分
- 辛卯朔、日食があった。
- 朱全忠は朱友恭らが昭宗を弑したと聞くと、表向きは驚き悲しみ、地に伏して、家臣どものせいで万代の悪名を受けることになったと泣いた。
- 癸巳、東都に至ると昭宗の梓宮に伏して慟哭し、昭宣帝にも自分の本意ではないと弁明して「賊」を討つと請うた。
- 以前、護駕軍の兵が市で米を略奪したことがあり、甲午、朱全忠はそれを口実に、朱友恭・氏叔琮が士卒を統制できず市を乱したとして罪に問った。朱友恭は崖州司户に、氏叔琮は白州司户に左遷され、まもなくともに自尽を命じられた。朱友恭は、天下への非難を塞ぐために自分が売られたのだと叫んだ。
- 丙申、天平節度使の張全義が来朝した。
- 丁酉、朱全忠は宣武・護國・宣義・天平の節度使に再任され、張全義は河南尹兼忠武節度使・六軍諸衛事判とされた。
- 乙巳、朱全忠は辞して鎮に赴き、庚戌に大梁へ戻った。
- 鎮國節度使の朱友裕が梨園の軍中で死去した。
- 光州が楊行密に叛いて朱全忠へ降り、楊行密はこれを包囲した。また鄂州からも杜洪救援の要請が朱全忠に届いた。
十一月 朱全忠の淮南遠征と嶺南情勢
- 戊辰、朱全忠は自ら五万の兵を率い、潁州から淮水を渡って霍丘に軍を置き、一部を鄂州救援へ向かわせた。
- 淮南軍は光州包囲を解いて広陵へ退いたが、決戦は避けた。朱全忠は諸将に命じて淮南を大いに掠めさせ、相手を疲弊させようとした。
- 錢鏐はひそかに衢州の羅城使・葉讓に命じて刺史の陳璋を殺させようとしたが、事が漏れた。
十二月 地方政局の変転
- 陳璋は葉讓を斬って楊行密に降った。
- 馬殷の弟の馬賨は、もと孫儒の部下で、その後楊行密に仕えて功を立てていた。楊行密はその器量からただ者でないと見ており、兄が馬殷だと知ると、本人の辞退を退けて長沙へ帰した。馬殷は彼を節度副使に取り立てた。後日、馬殷が朝廷への入貢を議すると、馬賨は楊行密と友好を結ぶ利益を説いたが、馬殷は朱全忠を恐れてこれを退けた。
- 清海節度使の徐彦若は死に際して副使の劉隱を留後に推薦していた。朝廷は崔遠を節度使に任じたが、崔遠は嶺南の混乱と劉隱への恐れから赴任できず、召し返された。劉隱は朱全忠へ厚賂を送り、ついに清海節度使に任ぜられた。