正月 宣州・睦州・魏博の大変動
- 壬戌、霊武節度使の韓遜が、吐蕃七千余騎が宗高谷に営し、涼州奪取を狙っていると奏した。
- 李簡の軍が突然宣州へ到着すると、王茂章は守りきれないと判断し、兵を率いて両浙へ逃れた。親兵の刁彦能は老母を理由に同行せず、城上から諸軍に対し王府の命による招諭だと告げ、宣州は安定した。
- 陶雅は王茂章を恐れて帰路を断ち、歙州へ撤退した。錢鏐は再び睦州を奪い返し、王茂章を鎮東節度副使とし、名を王景仁と改めた。
- 乙丑、静海節度使の曲承裕に同平章事を加えた。
魏博牙軍の壊滅
- 田承嗣以来、魏博では六州の精兵五千を牙軍として厚遇し、代々の節度使を左右する存在となっていた。長年のうちに彼らは驕慢となり、気に入らぬ節度使を廃立するまでになっていた。
- 羅紹威はこれを憎みつつ抑えられず、以前から朱全忠に援兵を求めていた。前年の李公佺の乱の後、いよいよ危機を感じ、再度救援を促した。
- 朱全忠は河南諸鎮の兵七万を李思安に率いさせ、名目上は滄州討伐として深州楽城に集結させた。
- ちょうど朱全忠の娘で、羅紹威の子・羅廷規に嫁いでいた者が死んだため、客将の馬嗣勲に甲兵を袋へ隠させ、長直兵千人を担夫に偽装して魏州へ入れた。朱全忠も後続して行営へ赴くと称した。
- 庚午、羅紹威は密かに武庫へ人を入れて牙軍の弓弦と甲の留め具を切らせ、その夜、自ら奴客数百を率いて馬嗣勲と合流し牙軍を襲った。牙軍は武器を使えず、営ごと殲滅された。八千家に及び、幼子まで助かった者はいなかった。
- 翌朝、朱全忠が兵を率いて入城した。
二月 南方諸道と睦州・帰州
- 辛未、龐巨昭を嶺南西道留後から節度使に、葉広略も節度使に任じた。
- 庚辰、錢鏐は睦州へ赴いた。
- 西川の王宗阮は帰州を攻め、将の韓従実を捕えた。
- 陳璋は陶雅が歙州へ帰ると婺州を捨てて衢州に退き、両浙の方永珍らが婺州を奪ってさらに衢州を攻めた。
- 楊渥は先鋒指揮使の陳知新を湖南へ送り込んだ。
三月 岳州奪取と三司の新設
- 乙丑、陳知新は岳州を奪い、刺史の許徳勲を追った。楊渥は陳知新を岳州刺史とした。
- 戊寅、朱全忠を塩鉄・度支・戸部の三司都制置使とした。三司を総括するこの名目はここに始まる。
- 四月癸未朔、日食があった。
四月 魏博余波と北方諸戦
- 羅紹威が牙軍を滅ぼした後も、魏博諸軍の恐れと怨みは消えず、朱全忠は城東にしばらく駐屯した。
- やがて天雄の牙将史仁遇が乱を起こし、数万を集めて高唐に拠り、自ら留後と称した。巡内の諸県も多くこれに応じた。
- 朱全忠は軍を城内に移し、行営兵を呼び戻して高唐を攻め、歴亭に進んだ。魏兵のうち行営にあった者も呼応して乱れたが、李周彞・符道昭がこれを半ば近く討った。
- 高唐は落ち、史仁遇は鋸引きにされ、城中の兵民は老幼を問わず皆殺しにされた。
- 史仁遇は事前に河東と滄州へ救援を求めており、李克用は李嗣昭に三千騎を与えて邢州を攻めさせたが、牛存節がわずか二百で守る城を落とせず、朱全忠が張筠を派遣すると、馬嶺で敗れて退いた。
- 劉守文は一万の兵で貝州・冀州方面を攻め、蓚県を抜き阜城へ進んだ。鎮州の王釗が救援すると滄州兵は退き、李重霸も宗城を捨てて逃げ、胡規に斬られた。
- 鎮南節度使の鍾傳が死ぬと、軍中は子の鍾匡時を立てた。養子の鍾延規は不満を抱き、淮南へ降伏を申し出た。
五月 魏州巡行と江西遠征
- 丁巳、朱全忠は洺州へ行き、北辺を巡視して防備を見たのち魏州へ戻った。
- 丙子、戎昭軍を廃して均州・房州を忠義軍に属させ、馮行襲を匡國節度使とした。
- 楊渥は昇州刺史の秦裴を西南行営都招討使として江西へ進ませ、鍾匡時を討たせた。
六月 関中・山南の再編
- 甲申、忠義軍を再び山南東道と改めた。
- 朱全忠は、長安が邠・岐に近く戦争が絶えないため、佑國節度使の韓建を淄青へ移し、王重師を佑國節度使に任じた。
七月 魏博平定とその代償
- 朱全忠は相州を攻め落とした。このころ魏博の乱兵は貝・博・澶・相・衛などに散っていたが、諸将を分けて討たせ、ついにすべて平定した。
- その後、南へ帰った。
- 朱全忠は魏州に半年留まり、羅紹威は牛羊豕だけで七十万近くを供出し、食糧も同量に及び、贈賄も百余万に達した。去る時には魏州の蓄えはほとんど尽きていた。
- 羅紹威は牙軍の圧迫こそ除いたものの、魏博の兵力が衰えたことを深く悔い、「六州四十三県の鉄を集めても、この大失策を償うことはできぬ」と嘆いた。
- 壬申、朱全忠は大梁へ帰着した。
江西・東南方面の進展
- 秦裴が洪州へ進むと、諸将は水際の要害に陣を張るよう勧めたが、裴はあえて従わなかった。鍾匡時は果たして劉楚にその地を守らせた。諸将が裴を非難すると、裴は、匡時の驍将は劉楚一人であり、これを野戦で誘い出したかったのだと説明した。やがて劉楚を破って捕え、洪州を包囲した。
- 饒州刺史の唐宝が降伏した。
八月 蜀と荆楚・両浙
- 乙酉、李茂貞は子の李侃を西川へ人質として送り、王建は彭州を任せた。
- 朱全忠は幽州・滄州が互いに呼応して魏州の脅威になるとみて、甲辰、大梁を発して滄州討伐へ向かった。
- 両浙軍は衢州を包囲し、陳璋は楊渥に救援を求めた。楊渥は周本を派遣し、周本が到着すると両浙軍はいったん包囲を解いて城下に布陣した。陳璋は兵を率いて周本に合流し、両浙軍は衢州を得た。
- 吕師造は敵が近くで動かぬのは自軍を侮っているから攻撃すべきだと主張したが、周本は、自分の任務は陳使君の救出であり、敵は必ず備えているとみて戦わず退いた。周本は殿軍となり、追撃してきた敵を伏兵で大破した。
九月 滄州包囲と洪州陥落
- 辛亥朔、朱全忠は白馬から黄河を渡り、丁卯に滄州へ至って長蘆に軍を置いた。滄州勢は出撃しなかった。
- 羅紹威は魏州から長蘆まで五百里にわたり絶え間なく兵糧を送り、さらに魏州に元帥府舎を建て、沿道の駅亭ごとに酒食・帳幕・器物を完全に整えた。
- 秦裴は洪州を抜き、鍾匡時ら五千人を捕えて帰還した。楊渥は自ら鎮南節度使を兼ね、秦裴を洪州制置使とし、江西を支配下に置いた。
- 静難節度使の楊崇本は、鳳翔・保塞・彰義・保大などの兵を率いて夏州を攻めたが、匡國節度使の劉知俊が坊州兵を邀撃して大勝し、坊州刺史の劉彦暉を捕えた。
- 劉仁恭は滄州救援の戦いにたびたび敗れ、ついには領内の十五歳以上七十歳以下の男子に兵糧自弁で出征を命じ、壮者には顔、士人には腕や臂に「一心事主」などと入れ墨をした。幼児を除くほぼ全員が刺青を受けた上で、十万の兵を瓦橋に集めた。
- しかし汴軍の包囲は堅く、滄州城内では食糧が尽き、土を丸めて食べ、ついには互いに略して食らうほどになった。
- 朱全忠は使者を送り、援軍は到底間に合わないから早く降れと劉守文を説いた。劉守文は、自分は幽州の父に仕える子であり、大義を掲げる梁王が、父に叛いた者をどう用いるのかと城上で答えた。朱全忠はその言の筋を認め、攻撃をやや緩めた。
十月 王建の行台設置と河東・幽州連携
- 丙戌、王建は蜀に行台を立て、東に向かって哭し、帝が東遷して以来命令が通わぬので、やむなく李晟・鄭畋の故事にならい、便宜により承制封拝を行うと称して、掲示によって管内へ告げた。
- 劉仁恭は河東へ百回以上も救援を求めた。李克用は、かつての裏切りを深く恨んでいたが、子の李存朂が、北方で朱温に対抗できるのは河東と幽滄だけであり、私怨を捨ててこれを救えば名分と実利をともに得ると説いたため、考えを改めた。
- 李克用は、幽州兵を招いてともに潞州を攻めることで、相手には滄州包囲を解かせ、自軍には領土拡張の利益があるとして、和睦と出兵を許した。劉仁恭は李溥に三万を率いさせて晋陽へ送った。李克用は周徳威・李嗣昭を派遣してこれとともに潞州を攻めさせた。
- 夏州からの急報を受け、戊戌、朱全忠は劉知俊・康懐貞を救援に送った。楊崇本は六鎮の兵五万を美原に置いたが、劉知俊らに大敗し、邠州へ退いた。
- 武貞節度使の雷彦威はたびたび荆南を侵した。賀瓌は城に閉じこもるばかりだったため、朱全忠は臆病だとして、高季昌を後任に据え、倪可福に兵五千を率いさせて荆南へ駐屯させ、呉・蜀に備えさせた。雷彦威の兵は退いた。
十一月 西方での朱梁優勢
- 劉知俊・康懐貞は勢いに乗って鄜・延など五州を攻め落とした。劉知俊には同平章事を加え、康懐貞を保義節度使とした。これ以後、邠岐など西方勢力は振るわなくなった。
- 湖州刺史の高彦が死に、子の高澧が後を継いだ。
十二月 王景仁・潞州帰附・滄州包囲解除
- 乙酉、錢鏐は行軍司馬の王景仁を推薦し、詔で寧國節度使を帯びさせた。
- 朱全忠は数万の歩騎を李周彞に与え、河陽から潞州救援へ向かわせた。
- 閏十二月乙丑、鎮國軍興徳府を廃して再び華州とし、匡國節度に属させた。金州・商州は佑國軍へ移し、関中西部の防備を厚くした。
- もともと昭宗崩御の報が潞州に届いた時、昭義節度使の丁會は将士とともに喪服して涙を流していた。李嗣昭が潞州を攻めると、丁會は軍ごと河東へ降った。李克用に対し、自分は力尽きて守れなかったのではなく、唐室を虐げる朱全忠に仕え続けるに忍びず帰順したのだと述べた。李克用はこれを厚遇し、諸将の上に列した。
- 己巳、朱全忠は諸軍に滄州総攻撃の準備を命じたが、壬申に潞州失陥を知り、甲戌、軍を引いて帰った。
- それまで河南・河北から水陸で積み上げた糧秣は山のようであったが、撤退に際しては陸上分を焼き、船積み分は沈めた。
- 劉守文は朱全忠に書を送り、王が百姓ゆえに自分を赦して包囲を解いたことは恩であり、どうせ焼き沈めるのなら残りを譲って城中数万の命を救ってほしいと願った。朱全忠は心を動かされ、数囷を残して与えたので、滄州の人々はそれで命をつないだ。
- 河東軍はさらに澤州を攻めたが、落とせず退いた。
- 吉州刺史の彭玕は湖南へ使者を送り、降伏を願い出た。