資治通鑑唐紀七十七 昭宗聖穆景文孝皇帝 光化 一年 778年
春正月 朱全忠を都統に推す声と朝廷の対応
- 春正月、両浙・江西・武昌・淄青の諸勢力は、楊行密討伐のため朱全忠を都統とするよう使者を送って請願したが、朝廷は許さなかった。
- 王師範には同平章事が加えられた。
- 劉崇望は同平章事を帯びて東川節度使となり、馮行襲は昭信節度使となった。
- 朝廷は罪己の詔を出して兵を休め、李茂貞の姓名・官爵を回復し、諸道の鳳翔討伐軍をすべて罷めた。これは韓建の意向が強く働いていた。
王珂の婚姻と長安修復
- 壬辰、河中節度使王珂は晋陽へ赴いて婚姻を結び、李克用は李嗣昭を河中守備に置いた。
- 李茂貞と韓建はともに李克用へ書を送り、車駕が長く在外にあることを憂えて和好を求め、宮室修復のための工人提供も願った。李克用はこれを認めた。
- もともと王建が東川を攻めたため、顧彦暉は李茂貞に救援を求めていたが、李茂貞はその対応に手を取られ、東方で車駕を脅かす余裕を失った。
- さらに朱全忠が洛陽宮を修営して再三迎駕を求めたため、李茂貞と韓建は危機感を抱き、長安宮室の修復を願い出た。朝廷は韓建を修宮闕使とし、諸道に資金と材木・工人を供出させた。蔡敬思が工事督励にあたり、二月には韓建自身が完成状況を視察した。
藩鎮人事と宣武の拡張
- 銭鏐は鎮海軍の治所を杭州へ移すことを請い、認められた。
- 李茂貞はあらためて鳳翔節度使となった。
- 三月己丑、王審知が威武留後に任じられた。
- 朱全忠は副使韋震を入朝させ、天平兼領を求めた。朝廷は当初拒んだが、韋震が強く争ったため、やむなく朱全忠に宣武・宣義・天平三鎮節度使を兼ねさせた。韋震は天平留後、李振は天平節度副使となった。
蘇州・崑山をめぐる淮南と両浙の攻防
- 淮南の周本が蘇州を救おうとしたが、顧全武に破られた。
- 淮南の秦裴は兵三千で崑山を奪って守備した。
- 顧全武は蘇州攻略後、崑山を攻めた。秦裴はしばしば出撃し、病兵にも甲を着せて壮兵に弓弩を持たせたため、顧全武もたびたび退いた。
- 顧全武が降伏を勧める檄を送ると、秦裴は封をした函を送り返した。顧全武が喜んで開封すると、中身は仏経一巻で、からかわれた形となった。
- その後、顧全武は兵を増し、水を引いて城を灌した。城が壊れ、食糧も尽きて秦裴は降った。
- 銭鏐は盛大な饗応を用意していたが、現れた降兵は疲弊した百人足らずであった。銭鏐がなぜこれほどの少兵で久しく拒んだのかと問うと、秦裴は「楊公に背かなかっただけで、力尽きて降ったのだ」と答えた。銭鏐はその義を称え、顧全武の取りなしもあって赦した。
湖南の馬殷、基盤を固める
- 潭州刺史で湖南軍府をつかさどっていた馬殷は、武安留後とされた。
- 当時、湖南七州のうち、馬殷の支配は潭・邵のみで、衡州は楊師遠、永州は唐世旻、道州は蔡結、郴州は陳彦謙、連州は魯景仁が押さえていた。
- 馬殷は姚彦章の進言により、李瓊・秦彦暉に張図英・李唐を副えて嶺北七州游奕使とし、衡州を攻めた。楊師遠を斬り、そのまま永州へ進むと、唐世旻は月余の籠城ののち逃走して死んだ。馬殷は李唐を永州刺史とした。
河北で劉仁恭が拡大
- 義昌節度使盧彦威は残虐で近隣とも不和であり、劉仁恭と塩利を争った。
- 劉仁恭は子の守文に兵を授けて滄州を襲わせ、盧彦威は城を棄てて魏州、ついで汴州へ逃げた。劉仁恭は滄・景・徳三州を取り、守文を義昌留後とした。
- これにより、幽州と滄州の兵を兼ねて劉仁恭の勢力はさらに盛んになった。
- 劉仁恭は守文に旌節を求めたが、朝廷はまだ許さなかった。中使に対しても、自分には本来もう節鉞がある、ただ長安からの正式なものが欲しいだけだと言い放ち、その不遜さを見せた。
夏四月から五月 魏博・河東をめぐる戦い
- 朱全忠は劉仁恭と和を結んでいたが、魏博兵が李克用を攻撃した機に、四月丁未、自ら鉅鹿に至って河東兵を破り、青山口まで追撃した。
- 王珂には侍中が加えられた。
- 丁卯、葛従周が洺州を攻め、戊辰にこれを抜いて刺史邢善益を斬った。
- 五月己巳朔、天下に赦が下った。
- 葛従周はさらに邢州を攻め、馬師素は城を棄てて逃げた。辛未には磁州刺史袁奉滔が自刎した。
- 朱全忠は葛従周を昭義留後とし、邢・洺・磁三州を守らせて自らは帰還した。ここから汴と并はこの三州をめぐって毎年争うことになる。
山南・東川の人事
- 李継密は武定節度使から山南西道節度使へ移された。
- 朝廷は、王建がすでに王宗滌を東川留後としていると知ると、劉崇望を東川節度使として赴任させる計画を撤回し、兵部尚書として呼び戻した。そのまま王宗滌が東川留後に認められた。
忠義・華州・長安復帰
- 七月、雷満に同平章事、鍾伝に侍中が加えられた。
- 趙匡凝は、前年の清口大敗を見て密かに楊行密へ通じた。朱全忠は氏叔琮に命じてこれを討たせ、丙申に唐州を抜き、随州刺史趙匡璘を捕え、鄧城で襄州兵を破った。
- 八月庚戌、華州は興徳府と改められた。
- 戊午、康懐貞が鄧州を襲い、刺史国湘を捕えた。趙匡凝は恐れて朱全忠に服属を願い、許された。
- 己未、車駕は華州を発し、壬戌に長安へ到着した。甲子、天下に赦を行い、改元して光化とした。
河東・汴州の和解工作
- 昭宗は藩鎮の相互和睦を望み、張有孚を河東・汴州宣慰使として、李克用と朱全忠に詔と宰相書を送って和解を促した。
- 李克用は詔には従いたいと思ったが、自ら先に屈するのを恥じ、王鎔を介して朱全忠に書を通じた。しかし朱全忠は応じなかった。
王建の東川再編
- 九月乙亥、韓建は太傅・興徳尹となり、王鎔には中書令、羅弘信には侍中が加えられた。
- 己丑、王宗滌は王建に対し、東川は領域が広く文書往来に数月を要するので、遂・合・瀘・渝・昌の五州を分けて別鎮とすべきだと進言した。王建はこれを上表した。
蘇州平定と羅弘信の死
- 甲申、蘇州刺史臺濛は食糧尽きて城を棄てて逃げ、援軍も退いたため、顧全武が蘇州を奪回した。望亭で周本らを破り、ただ秦裴だけが崑山に立てこもった。
- 九月、魏博節度使羅弘信が死去し、軍中は子の羅紹威を推して留後とした。
十月以後 河東と汴の再戦
- 十月己亥、朱友恭は江淮からの帰路、安州を通る際、刺史武瑜が淮南と通じて汴軍を襲おうとしているという訴えを信じ、攻めてこれを殺した。
- 李克用は李嗣昭・周徳威に歩騎二万を与え、邢・洺・磁の奪回を図らせた。壬寅、邢州を攻めたが、葛従周に大破されて青山へ退いた。
- その退却戦で、横衝都将の李嗣源が後着の兵を率いて踏みとどまり、鞍を外して陣を整え、敵の虚を衝いて突撃し、李嗣昭も続いて葛従周を退けた。
- 癸卯、王審知は威武節度使となり、羅紹威も魏博節度使に正式任命された。丁巳には王宗滌が東川節度使となり、張全義には侍中が加えられた。
- 王珙は汴兵を引いて河中を侵したが、王珂の求援で李嗣昭が駆けつけ、胡壁で汴軍を破った。
王柷の殺害
- 前常州刺史王柷は剛直で声望があり、朝廷に召された。世間では近く宰相になると見られていた。
- 陝州を通過した際、王珙は同姓のよしみで子姪の礼を結ぼうとしたが、王柷は固辞した。王珙は門地を軽んじられたと怒り、送迎の者に命じて王柷を殺し、家人もろとも黄河へ投じ、財貨を奪ったうえ、舟の覆没事故のように偽装した。
- 朝廷は藩鎮を恐れて詰問できなかった。
年末 南方・蔡州・河東
- 閏月、銭鏐は曹圭を蘇州制置使とし、王球を婺州攻略へ向かわせた。
- 十一月甲寅、皇子禎を雅王、祥を瓊王に封じ、羅紹威を魏博節度使とした。
- 衢州刺史陳岌が楊行密に降ろうとしたため、銭鏐は顧全武に討伐させた。
- 朱全忠は、崔洪が楊行密と通じているとして張存敬を派遣して攻めた。崔洪は弟の崔賢を人質とし、さらに兵二千を差し出すことで赦しを請い、朱全忠は許した。
- 十二月、昭義節度使薛志勤が死ぬと、李罕之は潞州へ夜襲してこれを奪い、自らの処置を既成事実化した。李克用は激怒して譴責したが、李罕之は子を朱全忠に送って降り、河東将の馬溉らと沁州刺史傅瑶を汴州へ送った。
- 李克用は李嗣昭に討伐を命じた。李嗣昭はまず澤州を奪い、李罕之の家族を捕えて晋陽へ送った。
- 楊行密は、両浙に捕えられていた成及と、淮南が捕えた魏約らとの交換を申し出た。銭鏐はこれを受け入れた。
- 韶州刺史曽衮が広州を攻め、州将王瓌も応じたが、劉隠が一戦で破った。劉潼も湞浛に拠ったが、劉隠に討たれた。