資治通鑑唐紀七十七 昭宗聖穆景文孝皇帝 光化 二年 779年

春正月 宰相交代と朱全忠の推挙

  • 春正月丁未、崔胤が罷められて本官に戻り、陸扆が同平章事となった。
  • 朱全忠は、李罕之を昭義節度使とし、丁会・王敬蕘・張珂らにも節度使任命を求め、朝廷はこれを認めた。河陽・武寧は朱全忠に属する地であり、張珂への節鉞もまた関係強化の意味を持っていた。

徐州救援と劉仁恭の大挙

  • 楊行密と朱瑾は数万で徐州を攻め、呂梁に軍した。朱全忠は騎将張帰厚を救援に送った。
  • 劉仁恭は幽・滄など十二州の兵十万を発し、河朔併呑を狙って貝州を攻め落とした。城中の万余戸を皆殺しにし、死体を清水へ投げ込んだため、以後諸城はみな固く守って降らなかった。
  • 劉仁恭はそのまま魏州を攻め、城北に営した。羅紹威は朱全忠に救援を求めた。

蔡州の崩壊と朱全忠の転進

  • 朱全忠は、人質となっていた崔賢を蔡州へ帰し、兵二千を大梁へ出させた。
  • 二月、蔡州の将崔景思らは崔賢を殺し、崔洪を脅して兵民を率い淮を渡って楊行密へ奔った。ただし兵民は途中で次々と逃亡し、広陵に着いた者は二千に満たなかった。
  • 朱全忠は朱友裕に蔡州を守らせ、自ら徐州救援へ向かったが、楊行密はこれを聞いて退いた。汴軍は下邳で追撃し、千余人を斬った。
  • 朱全忠が輝州まで進んだところで、淮南軍がすでに退いたことを知り、引き返した。

魏州救援戦と劉仁恭の敗北

  • 三月、朱全忠は李思安・張存敬を魏博救援に向かわせて内黄に屯させ、自身も癸卯に滑州へ進んだ。
  • 劉仁恭は子の守文に、李思安などは容易に捕えられると豪語し、守文と妹婿の単可及に精兵五万を授けて内黄へ向かわせた。
  • 丁未、李思安は袁象先に清水右岸へ伏兵を置かせ、自ら繁陽で戦って敗走を装った。守文が追撃して内黄北へ来ると、汴軍は反転し、伏兵も加わって幽州軍を大破した。単可及は斬られ、三万が殺獲され、守文はかろうじて逃げた。
  • 葛従周も騎兵八百で魏州へ入り、館陶門・上水関方面で賀徳倫とともに奮戦した。翌日には汴・魏の連合軍が劉仁恭の八営を破り、劉仁恭父子は自軍の陣を焼いて遁走した。
  • 追撃は臨清に及び、永済渠に追い込まれて溺死する者が続出し、東では王鎔の兵も遮撃した。魏から滄へ至る五百里にわたって死体が横たわり、劉仁恭は以後ふるわなくなった。これにより朱全忠の威勢はいよいよ増した。

河東・魏博関係の変化と洞渦の戦い

  • 劉仁恭が魏州を攻めた際、羅紹威は河東にも和を通じて救援を求めた。壬午、李克用は李嗣昭を派遣したが、到着前に劉仁恭は敗れており、羅紹威は再び河東と絶交した。
  • 葛従周は幽州軍撃破の勢いに乗じて土門から河東へ侵攻し、承天軍を抜いた。氏叔琮は馬嶺から入り、遼州の楽平を取り、榆次まで進んだ。
  • 李克用は内牙軍副の周徳威を遣わして迎え撃たせた。氏叔琮配下の驍将陳章は「陳夜叉」と呼ばれ、周徳威を生け捕りにして一州を賜りたいと豪語した。
  • 洞渦で対陣すると、周徳威は微服で出て挑発し、陳章に追わせたところを鉄檛で打ち落として生け捕りにした。その勢いで氏叔琮軍を大破し、石会関まで追って斬首多数をあげた。葛従周も退いた。
  • 丁巳、丁会が沢州を攻めてこれを落とした。

婺州と武信軍

  • 婺州刺史王壇は前年から両浙に包囲されており、宣歙節度使田頵に救援を求めた。
  • 四月、田頵は康儒らを派遣して救わせた。
  • 五月甲午、遂州に武信軍が置かれ、遂・合など五州がこれに属した。これは王建の意向によるものである。
  • 康儒らは五月庚戌、龍丘で両浙兵を破り、王球を捕え、そのまま婺州を奪回した。

潞州をめぐる攻防

  • 李克用は李君慶に兵を授けて李罕之を攻めさせ、己亥に潞州を囲ませた。
  • 朱全忠は河陽に進み、辛丑に張存敬、壬寅に丁会を相次いで援軍として送り、河東軍を大破して李君慶を撤退させた。
  • 李克用は李君慶とその副将伊審・李弘襲を誅し、李嗣昭に蕃漢馬歩都指揮使を継がせて潞州攻撃を続けさせた。
  • 六月、李罕之は病が重くなり、丁卯、朱全忠は彼を河陽節度使とし、丁会を昭義節度使とした。まもなく葛従周が潞州へ入り、丁会に代わって守ったとみられる。
  • 丁丑、李罕之は懐州で死んだ。

河中・海州・湖南

  • 保義節度使王珙は猜疑深く残忍で、身内も安心できないほどだったが、この年、軍中の乱で部下に殺された。都将李璠が留後に推された。
  • 七月、海州戍将陳漢賓が楊行密に降ろうとした。張訓と王綰は、それを信用せず二千で海州へ急行して城を確保し、淮南はここに海州を得た。
  • 成汭には中書令が加えられた。
  • 馬殷は李唐を道州へ進ませた。蔡結は山間に伏兵を置いて大破したが、李唐は平地へ誘い出すため風に乗じて林を焼き、蛮兵を散らして道州を奪い、蔡結を斬った。

秋八月以後 潞州・沢州の奪回

  • 朱全忠は葛従周を潞州から呼び戻し、賀徳倫に守らせた。
  • 八月丙寅、李嗣昭は潞州城下に着いて沢州にも兵を分けた。己巳、汴将劉玘は沢州を棄てて逃げ、河東軍は天井関を抜き、李存璋を沢州刺史とした。
  • 李嗣昭は鉄騎で潞州城を日々包囲し、城外三十里の禾黍を刈り尽くして補給を断った。
  • 乙酉、賀徳倫らは夜に潞州を捨てて壺関へ逃れたが、李存審の伏兵に遮られて多くを失った。葛従周は援兵として来たが、すでに敗報を聞いて引き返した。

朝廷人事と東方の情勢

  • 九月癸卯、李茂貞は鳳翔・彰義節度使となった。
  • 李克用は孟遷を昭義留後に推した。
  • 王師範は密州・沂州方面で内乱が起きたとして楊行密に援軍を求めた。楊行密は海州刺史台濛と副使王綰を派遣し、まず密州を奪って王師範に返した。
  • 沂州を攻める前に王綰は偵察させ、城内の静けさを見て備えありと判断し、救兵も近いので攻めるべきではないと主張したが、諸将は聞かなかった。攻撃は失敗し、救兵が来て退いたところを州兵が追ったが、王綰の伏兵がこれを破った。

年末 陝州・湖南平定

  • 十一月、陝州都将朱簡が李璠を殺し、自ら留後を称して朱全忠に属した。さらに名を友謙と改め、朱全忠の子姪の列に加わることを求めた。
  • 趙匡凝には中書令が加えられた。
  • 馬殷は李瓊に郴州を攻めさせ、陳彦謙を捕えて斬り、そのまま連州へ進ませた。魯景仁は自殺し、これによって湖南はすべて馬殷の支配に入った。
  • 十二月、羅紹威に同平章事が加えられた。