資治通鑑唐紀七十七 昭宗聖穆景文孝皇帝 乾寧 四年 777年

春正月 韓建が諸王の兵権を奪う

  • 春正月甲申、韓建は、防城将の張行思らの告発として、睦・濟・韶・通・彭・韓・儀・陳の八王が自分を殺し、車駕を劫して河中へ移そうと謀ったと奏上した。実際には、韓建が諸王の兵権を嫌って仕組んだものだった。
  • 昭宗は驚いて韓建を召したが、韓建は病を口実に参内せず、かえって諸王に自ら弁明するよう求めた。さらに、諸王を旧制に従って十六宅へ戻し、師傅を選んで詩書を学ばせ、兵や政務に関与させるべきだと上表した。
  • 韓建は、天子が従わないことを恐れ、精兵で行宮を包囲し、上表を重ねて圧迫した。昭宗はやむなくその夜、諸王配下の兵を解散し、諸王を十六宅へ帰し、武器もすべて韓建に引き渡させた。
  • 韓建はさらに、殿後四軍も無用で危険だとして廃止を求めた。詔はこれにも従い、二万余の兵が解散され、天子の親軍はほとんど失われた。
  • 石門での扈従に功があった捧日都頭の李筠も、韓建の奏請で大雲橋にて斬られた。

韓建による宗室と側近への統制

  • 韓建は、玄宗末の永王璘、代宗期の吐蕃による宗室擁立、光啓中の朱玫の例を引き、諸王を各地に出しておくと人望の拠り所にされるとして、地方にいる宗室も召還するよう求めた。あわせて、方士の禁中出入りも禁じさせた。
  • 韓建は諸王を別第に幽閉したのち、昭宗の不快を察し、宥めるため徳王を太子に立てるよう請願した。丁亥、徳王祐が皇太子に立てられ、名を裕と改めた。

朱全忠、鄆州・兖州を平定

  • 龐師古と葛従周は連合して鄆州を攻めた。朱瑄は兵少なく食糧も尽き、深い壕を掘って守るのみであった。
  • 辛卯、汴軍は城西南に営し、浮橋を造った。癸巳、ひそかに壕の水を抜き、丙申に橋が完成すると、夜陰に乗じて中軍が渡河した。朱瑄は城を捨てて中都へ逃げたが、葛従周が追撃し、野人が朱瑄とその妻子を捕えて献じた。
  • 己亥、孫偓の鳳翔四面行営節度等使を罷め、副都統の李思諫を寧塞節度使とした。
  • 朱全忠は鄆州に入り、龐師古を天平留後に任じた。のちに朱友裕が天平留後、龐師古が武寧留後となる。
  • 朱瑾は康懐貞に兖州を守らせ、自ら河東の史儼・李承嗣とともに徐州境を掠めて兵糧を集めていたが、鄆州陥落を聞いて康懐貞は降伏した。
  • 二月戊申、葛従周が兖州に入る。朱瑾は帰る所を失い、沂州・海州を頼るも拒まれ、ついに州民を率いて淮を渡り、楊行密のもとへ奔った。楊行密は高郵で迎え、朱瑾に武寧節度使を遥授した。
  • 朱全忠は朱瑾の妻を捕えたが、張夫人が朱瑾の妻の嘆きを聞いて哀れみ、彼女を仏寺に送って尼とした。朱瑄は汴橋で斬られた。
  • これにより、鄆・齊・曹・棣・兖・沂・密・徐・宿・陳・許・鄭・滑・濮などが朱全忠の勢力下に入り、王師範のみが淄青を保った。

河東・淮南・宣武の動き

  • 魏州にいた李存信は、兖・鄆が陥ちたと聞いて兵を引いた。
  • 淮南はもと水戦に長じていたが、河東・兖鄆の兵を得て軍威が大いに振るった。史儼・李承嗣はいずれも河東の名将で、李克用は深く惜しみ、密使を楊行密のもとへ送り返還を求めた。楊行密はこれを許し、自らも使者を送って李克用と修好した。

王建、東川攻略を本格化

  • 戊午、王建は邛州刺史の華洪、彭州刺史の王宗祐に五万を授けて東川を攻めさせ、自らは戎州刺史の王宗謹を鳳翔西面行営先鋒使とし、玄武で鳳翔の李継徽らを破った。
  • 己未、天下に赦が行われた。
  • 庚申、王建は王宗侃に渝州方面、王宗阮に瀘州方面を進ませた。辛酉に王宗侃が渝州を取り、癸酉に王宗阮が瀘州を落として馬敬儒を斬り、峡路が通じた。
  • 鳳翔の李継昭が梓州を救おうとして剣門に兵を残したが、西川の王宗播に敗れて捕えられた。

宰相更迭と楊行密への命令

  • 乙亥、孫偓は門下侍郎同平章事を罷められて本官にとどまり、朱朴も中書侍郎同平章事を罷められて秘書監となった。朱朴は政務で成果を挙げられず、外議も騒然としていた。
  • 馬道殷と許巖士が昭宗に近侍していたが、韓建は二人を罪に陥れて殺し、孫偓・朱朴が彼らと通じたとして宰相罷免の口実とした。
  • 朝廷は楊行密を江南諸道行営都統に任じ、武昌節度使杜洪を討たせた。
  • 張佶は邵州を攻略し、蔣勛を生け捕りにした。

三鎮人事と河中争奪

  • 三月丙子、朱全忠は葛従周を泰寧留後、朱友裕を天平留後、龐師古を武寧留後とするよう上表した。
  • 保義節度使王珙が護国節度使王珂を攻めると、王珂は李克用へ、王珙は朱全忠へ援軍を求めた。
  • 宣武の張存敬・楊師厚は猗氏南で河中兵を破り、河東の李嗣昭も陝兵を猗氏・張店で破って、河中の囲みは解かれた。
  • 同時期に利州の軍号は昭武へ改められ、蘇文建が節度使となった。

夏四月以後 諸道の戦い

  • 四月、同州防禦使李継瑭が匡国節度使となった。これは同州の旧軍号に復したものだった。
  • 李洵が両川宣諭使となり、王建と顧彦暉の和解を図った。
  • 辛亥、銭鏐は顧全武らを海路で嘉興救援に派遣し、己未に城下へ着くと淮南兵を大破した。
  • 杜洪は楊行密の攻撃を受けて朱全忠に救援を求め、朱全忠は聶金に泗州を掠めさせた。
  • 朱友恭が黄州を攻めると、瞿章は城を棄てて武昌寨へ退いた。癸亥、顧全武らは淮南十八営を破って魏約ら三千人を捕え、田頵も嘉興方面から退いて湖州へ逃げたが、さらに追撃され千余を失った。

韓建、政敵を排し 朱全忠が武昌方面を圧迫

  • 韓建は刑部尚書張禕らを憎み、罪をでっち上げて左遷させた。
  • 五月、崔洪に同平章事が加えられた。
  • 辛巳、朱友恭は樊港に浮橋を設け、壬午に武昌寨を破って瞿章を捕え、黄州を奪い返した。
  • 丙戌、王建は張琳を成都守備に残し、自ら五万を率いて東川攻撃に出た。このころ華洪は養子にされ、王宗滌と改名した。

王建と李茂貞の対立

  • 六月己酉、銭鏐は越州で鎮東節の節鉞を受けた。
  • 李茂貞は、王建が東川攻撃で詔命に従わないと奏上した。甲寅、王建は南州刺史に左遷され、乙卯には李茂貞が西川節度使、覃王嗣周が鳳翔節度使に任じられた。
  • しかし癸亥、王建は梓州南寨を攻略し、李継寧を捕えた。丙寅、宣諭使李洵が梓州に到着し、己巳に王建に面会したが、王建は戦士の意志は奪えないとして攻撃継続を示した。
  • 覃王が鳳翔へ赴任しようとすると、李茂貞はこれを拒み、奉天で包囲した。
  • 容州には寧遠軍が置かれ、李克用配下の蓋寓が節度使とされた。

秋七月 李茂貞と韓建、覃王をめぐる処置

  • 七月、成汭に侍中が加えられた。
  • 韓建が李茂貞に書を送ると、李茂貞は奉天の囲みを解き、覃王は華州へ帰った。
  • 李継徽は天雄から静難節度使へ移された。
  • 庚戌、銭鏐は杭州へ戻り、顧全武を蘇州攻略に向かわせた。乙未に松江、戊戌に無錫、辛丑に常熟・華亭を攻略した。

劉仁恭、李克用に背く

  • 李克用は以前幽州を平定した際、劉仁恭を節度使に推し、自軍の将十人を留めて要地を押さえ、租税も軍用を除き晋陽へ送らせていた。
  • その後、昭宗が華州へ出奔すると、李克用は劉仁恭・王鎔・王郜に書を送り、関中を定めて天子を長安へ帰そうとした。
  • 劉仁恭は契丹侵攻を口実に出兵を断り、督促しても兵を出さなかった。ついには李克用の書を地に投げて罵り、使者を幽閉し、河東の戍将まで殺そうとした。
  • 八月、李克用は怒って自ら劉仁恭討伐に出た。

昭宗の奉天行幸案と韓建の諸王虐殺

  • 昭宗は奉天へ幸して自ら李茂貞を討とうとし、宰相に諮ったが、強い諫めを受けて断念した。
  • 延王戒丕が晋陽から帰ると、韓建は、諸王が兵を持つことが近年の乱の根源だとし、とくに延王と覃王に陰謀の兆しがあるとして先手を打つよう迫った。
  • 昭宗はすぐには応じなかったが、数日後、韓建は枢密の劉季述とともに詔を偽造し、十六宅を兵で囲んだ。諸王は髪を振り乱して塀や屋根にのぼり、天子に救いを求めた。
  • 韓建は、通・沂・睦・濟・韶・彭・韓・陳・覃・延・丹の十一王を石隄谷へ連行し、ことごとく殺した。
  • そののち、礼部尚書孫偓は南州司馬へ、朱朴も郴州司戸へ左遷され、推薦者の何迎も湖州司馬へ落とされた。

王建、梓州包囲を進める

  • 鍾伝が吉州刺史周琲を討とうとすると、周琲は兵を率いて広陵へ逃れた。
  • 王建は顧彦暉と五十余戦を重ね、九月癸酉朔に梓州を包囲した。
  • 蜀州刺史周徳権は、東川の群盗は顧彦暉の懐柔に頼っているだけなので、賊帥を説得して味方に引き入れればよいと進言した。王建はこれを採用し、顧彦暉はいっそう孤立した。

木瓜澗の敗戦

  • 丁丑、李克用は安塞軍に至り、辛巳にこれを攻めた。幽州の単可及が騎兵を率いて到着したが、李克用は酒席にあって軽敵し、その日のうちに攻撃を命じた。
  • ところが大霧で敵味方の識別も難しい中、幽州の楊師侃が木瓜澗に伏兵を置き、河東軍は大敗して半ば以上を失った。風雨と雷電により幽州軍が退いたため、李克用は全滅を免れた。
  • 李克用は酔いがさめてから敗戦を知り、李存信らを責めた。

湖州・鳳翔・宣武の動き

  • 湖州刺史李彦徽は州を挙げて楊行密に附こうとしたが、配下が従わず、李彦徽は広陵へ奔った。都指揮使沈攸は州を銭鏐に帰し、以後湖州は銭鏐の領有となった。
  • 朝廷は張璉を鳳翔西北行営招討使とし、再び李茂貞討伐を命じた。また王建を西川節度使同平章事に復し、王郜に同平章事を加え、李茂貞の官爵と賜姓を剥奪して宋文通に戻した。

朱全忠の淮南大挙

  • 朱全忠は兖・鄆の兵を得て勢いを増し、龐師古に徐・宿・宋・滑の兵七万を与えて清口に布陣させ、揚州へ向かわせた。葛従周は兖・鄆・曹・濮の兵を率いて安豊に陣し、寿州方面を狙った。朱全忠自身も宿州に屯した。
  • 淮南は大いに恐れた。
  • 匡国節度使李継瑭は、朝廷が李茂貞を討つことを聞き、韓建にも動揺を誘われて鳳翔へ逃げた。
  • 冬十月、韓建は鎮国・匡国両軍節度使となり、同州・華州を兼領した。
  • 壬子、知遂州侯紹、乙卯、知合州王仁威、戊午には鳳翔の李継溥がいずれも王建に降った。
  • 庚申、顧彦暉は一族と養子を集めて酒宴を開き、王宗弼を王建のもとへ帰したのち、養子の瑤に命じて自分と同席者を殺させ、最後に自ら死んだ。王建は梓州に入り、三年がかりで東川を平定した。
  • 王建は王宗綰に昌・普などを巡撫させ、王宗滌を東川留後とした。

劉仁恭と朱全忠・李克用

  • 劉仁恭は、李克用が理由なく攻めてきたと奏して木瓜澗の勝利を誇り、自ら討伐軍の統帥となることを求めたが、詔は許さなかった。
  • 劉仁恭は朱全忠にも書を送り、朱全忠はその功を認めて同平章事を加えた。
  • 劉仁恭はまた李克用に謝罪の使いを送り、不安の情を述べた。李克用は、主君に背く者は誰にも信用されないと厳しく返書した。

皇子封王と清口の大敗

  • 甲子、皇子祕を景王、祚を輝王、祺を祁王に封じ、張璉に同平章事を加えた。
  • 楊行密は朱瑾とともに三万を率いて楚州で汴軍に対峙し、張訓も漣水から合流して前鋒となった。
  • 龐師古は清口に陣したが、低湿地であるとの諫めも聞かず、ふだんから碁に興じて警戒を怠った。朱瑾が淮水をせき止めて灌水しようとしているとの報告すら、師古は流言として斬ってしまった。
  • 十一月癸酉、朱瑾と侯瓚は汴軍の旗を用いてひそかに淮を渡り、北から中軍へ近づいた。張訓も柵を越えて突入した。そこへ大水が押し寄せ、楊行密本隊も淮を渡って挟撃し、汴軍は大敗した。
  • 龐師古は斬られ、将士の首は一万余級。余衆は潰走した。葛従周も寿州西北から退き、濠州に屯したが、敗報を聞いて撤退し、渒水で半渡のところを淮南軍に襲われて壊滅的損害を受けた。牛存節の奮戦で一部は渡れたが、雪中の飢凍も重なり、生還者は千人に満たなかった。
  • 朱全忠も敗報を聞いて引き返した。
  • 楊行密は朱全忠へ、龐師古や葛従周では相手にならない、みずから淮上へ来て決戦せよと書を送った。
  • 楊行密は李承嗣の先見を賞し、銭一万緡を与え、鎮海節度使を遥授した。史儼・李承嗣には厚遇を尽くし、二人も淮南に尽力した。これにより楊行密は江淮の地をしっかり保ち、朱全忠も容易には争えなくなった。

年末の政事と辺境

  • 戊寅、淑妃何氏が皇后に立てられた。皇后は東川の人で、徳王と輝王を生んでいた。
  • 威武節度使王潮は病床で、弟の王審知に軍府を任せた。十二月丁未、王潮が没すると、王審知は兄の王審邽に譲ろうとしたが、辞退されたため、自ら福建留後を称して朝廷に上表した。
  • 壬戌、王建は梓州から帰り、戊辰に成都へ着いた。
  • この年、南詔の舜化が上皇帝書や中興年号を記した文書を送ってきた。朝廷は詔書で返答しようとしたが、王建は小夷に詔書を下す必要はないと述べ、自ら西南にいるかぎり侵入はないとして退けた。
  • また黎州・雅州の西南の浅蛮三部、すなわち劉王・郝王・楊王の旧来の関係を断ち、大将の山行章を斬って威を示し、さらにのちに三王も斬ったことで、卭崍関以南に障候も戍兵も置かずに辺境を静めた。
  • 右拾遺張道古は、国家の危機と混乱を論じて昭宗を強く諫めたが、昭宗は怒って施州司戸に左遷し、さらに詔してその罪を公示させた。