資治通鑑唐紀七十六 昭宗聖穆景文孝皇帝 乾寧 三年 前896年
春正月 西川・湖南・浙東の戦い
- 西川の将王宗夔が龍州を攻め落とし、刺史田昉を殺した。
- 丁巳、劉建鋒は都指揮使馬殷を派遣し、蔣勛討伐に当たらせた。馬殷は定勝寨を破った。
- 辛未、安仁義は水軍を率いて湖州に到り、董昌に呼応するため江を渡ろうとしたが、錢鏐方の顧全武・許再思が西陵を守ってこれを阻んだ。
- 董昌は湯臼を石城、袁邠を余姚に置いて防戦した。
閏月 魏博が河東と断交
- 李克用は蕃漢都指揮使李存信に一万騎を授け、魏を経由して兗鄆救援に向かわせ、莘県に進軍させた。
- 朱全忠は羅弘信に対し、克用の野心は河北全体に及び、帰路には魏博も危ういと吹き込んだ。
- しかも李存信の軍紀は緩く、魏の民に暴行を働いたため、羅弘信は激怒し、三万を率いて夜襲した。李存信軍は潰走し、洺州に退いて士卒の二、三割を失い、資糧・兵仗も大量に失った。
- これにより史儼・李承嗣の軍も帰路を断たれ、羅弘信は以後河東と絶交し、汴に専心して結ぶようになった。
- 朱全忠は羅弘信を年長の兄として遇し、使者の前で北向きに拝して贈物を受けるなど、わざと厚くもてなしてその心を固めた。
- その結果、全忠は東方、すなわち兗鄆攻略に専念できるようになった。
- 丁亥、果州刺史張雄が王建に降った。
二月 石城・余姚の戦いと董昌赦免
- 戊辰、顧全武と許再思は石城で湯臼を破った。
- 昭宗は楊行密の請いを受け、董昌を赦して官爵を復した。
- しかし錢鏐はこれに従わず、董昌討伐を続けた。
- 通王李滋が侍衛諸将を統轄する任に就いた。
朝廷、張濬復相をめぐり河東と緊張
- 朱全忠が兵部尚書張濬を推薦すると、昭宗は再び宰相にしようと考えた。
- これに対し李克用は、張濬が朝に宰相となれば夕方には自分が闕下に着くとまで言って激しく反対し、必要なら朱全忠を討つとも述べた。
- 京師は震え上がり、朝廷は双方に和解を命じた。
三月 鄆州方面の戦い
- 李継徽が天雄節度使となった。
- 李思孝は老いを理由に引退を願い、弟の李思敬を後任に薦めたので、朝廷はこれを許した。
- 朱全忠は龐師古を遣わして鄆州を攻めさせ、馬頰で鄆兵を破って、そのまま鄆州城下に迫らせた。
夏四月 河東の魏州攻め、湖南では劉建鋒が殺される
- 辛酉、黄河の増水で滑州城が危うくなると、朱全忠は河を二手に分けて城をはさむように流し、東方への被害はさらに大きくなった。
- 李克用は羅弘信に報復するため洹水を攻め、魏兵一万余を殺し、そのまま魏州へ迫った。
- 湖南では、劉建鋒が長直兵の陳贍の妻と関係を持ったため、陳贍が袖に隠した鉄撾で建鋒を殺した。
- 諸将は陳贍を殺し、行軍司馬張佶を留後に迎えようとしたが、佶は落馬して左腿を傷めた。そこで、なお邵州を攻めていた馬殷に政権を譲るよう勧めた。
- 㕔直軍将姚彦章は、劉建鋒・張佶・馬殷は苦楽をともにした一体の人々であり、いま天命と人望は馬殷に帰していると説いた。馬殷は邵州攻めを李瓊に任せ、自ら長沙へ向かった。
淮南・鎮海、蘇州を争う
- 淮南兵と鎮海兵は皇天蕩で戦い、鎮海軍が敗れた。
- 楊行密はその勢いで蘇州を包囲した。
- 錢鏐・鍾伝・杜洪は楊行密の強大化を恐れ、朱全忠に援助を求めた。
- 朱全忠は朱友恭に一万を与えて淮水を渡らせ、状況に応じて行動させた。
五月 董昌、帝号を捨てる
- 董昌は自軍を視察して、敵兵が強いと報告した者を斬り、疲弊し糧尽きたと報告した者に賞を与えるなど、現実を見失っていた。
- 戊寅、袁邠が余姚をもって錢鏐に降り、顧全武・許再思は越州城下に進んだ。
- 董昌は出撃して敗れ、城に閉じこもった。包囲されてはじめて恐れ、帝号を去って再び節度使を称した。
馬殷、湖南を掌握
- 馬殷が長沙に着くと、張佶は輿に乗って府に入り、形式上の礼を受けたうえで、馬殷に留後の位を譲った。
- 張佶はそのまま行軍司馬に戻り、代わって邵州攻めを担当した。
蘇州陥落と成及
- 癸未、蘇州の常熟鎮使陸郢が州城を挙げて楊行密に応じ、刺史成及を捕えた。
- 行密が成及の家を調べさせると、蓄えていたのは図書と薬物ばかりであったため、その節操を認めて行軍司馬に任じようとした。
- だが成及は、一家百口が錢鏐のもとにあり、蘇州を失って死ねなかった以上、富貴を受けるわけにはいかないとして、自害しようとした。行密はこれを制止し、客として遇した。
- 行密は武器を備えた室に単衣で赴き、ともに飲食するほど疑わなかった。
- 錢鏐は蘇州陥落を聞き、顧全武を急ぎ西陵へ戻して行密に備えようとしたが、全武は越州こそ根本であり、まず董昌を滅ぼしてから蘇州奪回を図るべきだと主張し、錢鏐も従った。
淮南、蘄州・光州を奪取
- 朱延寿は突然蘄州を包囲した。大将賈公鐸は狩りのため城外にいて戻れなかったが、勇士二人に羊皮を着せて夜中に城へ潜入させ、内応の約束を取り付けた。
- 公鐸は夜半、南門の合図火に応じて城内へ突入し、包囲を破って城へ入った。延寿はかえってその胆力に驚き、力攻めは難しいと判断した。
- そこで柴再用を使者に立て、旧交と利害を説かせたところ、数日後に賈公鐸と刺史馮敬章は降伏した。敬章は左都押牙、公鐸は右監門衛将軍とされた。
- 朱延寿はさらに光州も攻略し、刺史劉存を殺した。これにより楊行密は淮南全域を手中に収めた。
朝廷、西川と東川を和解させるも、崔昭緯を賜死
- 丙戌、昭宗は中使を梓州に派遣し、西川と東川の和解を命じた。
- 王建は表向きは詔に従って成都へ兵を返したが、実際にはなお対陣を解かなかった。
- 崔昭緯は再び朱全忠に救援を求めたが、戊子、朝廷は中使を送り、荊南へ向かう途中で崔昭緯を捕えて斬らせた。内外ともに快とした。
荊南の西進と王宗播の改名
- 荊南節度使成汭は将の許存とともに長江を遡って州県を略取し、武泰節度使王建肇は黔州を捨てて豊都へ退いた。
- 許存はさらに渝州・涪州を取ったが、成汭はその不満を察して襲わせ、許存は茅埧へ逃れた。
- 趙武がたびたび豊都を攻め、王建肇は守れず、許存とともに王建へ降った。
- 王建は許存の勇略を忌んで殺そうとしたが、掌書記高燭が、英雄を招く時に窮して帰した者を殺してはならないと諫めた。
- そこで王建は蜀州守備にまわし、さらに王宗綰がその忠勇を保証したため、ついに疑いを解き、名を王宗播と改めさせた。
- 王宗播は以後、強敵との戦いでは自ら先頭に立ちながら、功があっても病を口実に誇らず、ついに功名を保った。柳修業がかねて慎みを勧めていたことが役立った。
越州陥落、董昌誅殺
- 甲午夜、顧全武は越州の外郭を急攻し、乙未の朝にはこれを奪った。
- 董昌はなお牙城に籠もって抵抗したが、戊戌、錢鏐は董昌の旧将駱団を使って、朝命により大王を引退させるとの偽報を伝えさせた。董昌はこれを信じ、牌印を渡して清道坊に退いた。
- 己亥、顧全武は董昌を船で杭州へ送る途中、小江南で斬り、その家族二百余人も殺した。李邈・蔣瓌ら僭位の宰相以下百余人も処刑された。
- 包囲中の董昌は吝嗇を極め、民から口ごとに銭帛を徴発し、兵糧を削っていたが、落城後の倉庫には貨物五百間、米三百万斛が残っていた。
- 錢鏐は董昌の首を京師へ送り、金帛を将士に分け、倉を開いて窮民を救った。
李克用、魏博を攻めるも子を失う
- 李克用は魏博六州を遍く侵掠した。
- 朱全忠は葛従周を鄆州から呼び戻し、洹水に陣して魏博を救わせ、自らも大軍で続いた。
- 六月、克用は葛従周を撃ったが、汴軍は陣前に多くの落とし穴を掘っていた。激戦の最中、克用の子で鉄林指揮使の落落が馬ごと穴に落ち、捕えられた。
- 克用自ら救いに向かったが、自馬もつまずき、危うく捕えられそうになった。振り向きざまに汴将を射殺して辛うじて脱した。
- 克用は和議を求めて落落の返還を願ったが、朱全忠は許さず、羅弘信のもとへ送って殺させた。こうして汴・魏の結びつきはさらに強まった。
- 克用は撤退し、葛従周は洹水から黄河を渡って楊劉に屯し、ふたたび兗鄆を攻めた。故楽亭で兗鄆・河東連合軍を破り、その属城も多く奪った。
- 兗鄆は河東の再救援を求めたが、羅弘信が道を塞いで前進できず、以後しだいに衰えていった。
李茂貞、再び京師を脅かす
- 李克用が渭北にいた頃は、李茂貞と韓建も朝廷に恭順の姿勢を見せていたが、克用が帰ると、両鎮の貢献は疎となり、上表も驕慢になった。
- 昭宗は石門から帰還した後、神策両軍の外に安聖・捧宸・保寧・宣化などの新軍を数万人編成し、諸王に統率させた。延王戒丕と覃王嗣周も独自に数千人を募った。
- 李茂貞はこれを自分討伐の準備と疑い、恨みを募らせたうえ、自らも兵を集めて京へ訴え出ると言い立てたので、都人は競って山谷へ避難した。
- 昭宗は通王滋、嗣周、戒丕に近畿防衛を分担させ、戒丕を三橋に屯させた。
- すると李茂貞は、延王が無故に兵を動かして自分を討とうとしているとして、入朝して罪を訴えると上表した。
秋七月 昭宗、再び出奔し華州へ
- 丙寅、李茂貞は京畿へ進軍し、覃王は婁館で迎え撃ったが敗れた。
- 茂貞はさらに京師へ迫った。延王戒丕は、関中に頼れる藩鎮はないから、鄜州から河を渡って太原へ避難すべきだと進言し、自ら先に李克用へ知らせることを願った。
- 辛卯、昭宗は鄜州行幸を決めたが、翌日渭北に出たところで、韓建の子韓従允が華州への行幸を請う表を持参した。
- 昭宗は当初これを断ったが、韓建は京畿都指揮安撫制置などの使に任じられ、表を重ねて勧めた。従臣たちも遠く太原方面へ行くことを恐れた。
- 癸巳、富平に至ると元公訊を使わして韓建を召し、去就を相談した。
- 甲午、韓建は富平で拝謁し、いま宗廟と園陵を離れて辺境に出れば、車駕が河を渡っても二度と戻れまい、自分は華州で十余年兵糧を蓄え軍備を整えてきたので、長安近くで自立を保てる、と泣いて訴えた。
- 昭宗はこれに従い、乙未に下邽、丙申に華州へ着き、州府を行宮とした。韓建は龍興寺で政務をとった。
- その後、李茂貞は長安へ入り、中和以来ようやく整えられていた宮室や市街をまた焼き尽くした。
宰相の交代と朱朴の抜擢
- 乙巳、崔胤は武安節度使に出された。昭宗は彼を崔昭緯派と見て遠ざけたのである。
- 丙午、翰林学士承旨の陸扆が戸部侍郎・同平章事となった。
- 水部郎中何迎は、国子の毛詩博士朱朴を謝安に比すべき人材だとして推薦し、道士許巌士も同調した。昭宗は連日召対し、その弁舌を気に入って、太宗における魏徴のようだとまで言った。
- 楊行密は江淮への遷都を、王建は成都への行幸をそれぞれ求めたが、宰相たちは韓建を恐れて決断できなかった。
- 八月丙辰、昭宗は韓建に朝政への関与を命じようとしたが、韓建は表向き固辞した。これは権勢を避けたのではなく、文字に通じなかったためとされる。
- 韓建は諸道へ資糧輸送を命じる檄を飛ばした。
- 李克用は、昨年自分の進言に従って鳳翔を討っていれば今のような患いはなかったと嘆き、また韓建は愚かな者で、賊臣のために帝室を弱くしている、いずれ李茂貞に捕えられるか朱全忠に虜とされるだろうと評した。
- そのうえで近隣諸道とともに援軍を出したいと奏したが、実際には空言に近かった。
- 錢鏐には中書令が加えられた。
- 癸丑、王建は鳳翔西面行営招討使となった。
- 甲寅、王摶は威勝節度使として外に出されたが、浙東経営をめぐる措置であった。
- 乙丑、朱朴は左諫議大夫・同平章事となった。彼は自ら、ひと月あれば天下に太平を致せると豪語していたが、人柄は庸劣で偏狭、他に長所がなく、この抜擢には内外が驚いた。
- 丙寅、韓建に中書令が加えられた。
九月 地方勢力の再編と崔胤の復帰
- 庚辰、福建は威武軍に昇格し、観察使王潮が節度使となった。
- 湖南では馬殷が軍府を掌り、高郁を謀主とした。高郁は、成汭は恐れるに足らず、楊行密は旧仇なので金を積んでも味方にはならない、天子を奉じ民心を収めて覇業を図るべきだと説き、馬殷はこれに従った。
- 崔胤が湖南へ出されたのは韓建の意向だったが、崔胤は密かに朱全忠へ援助を求め、さらに洛陽宮城整備と遷都案を上表させた。
- 朱全忠と張全義は、昭宗を洛陽へ遷すよう請い、全忠は二万兵で車駕を迎えるとまで述べ、崔胤は忠臣だから外へ出すべきでないと主張した。
- 韓建は恐れて崔胤を再び召し戻し、全忠には今は静観すべきだと使者で伝えた。
- 乙未、崔胤は中書侍郎・同平章事として復帰し、さらに崔遠も宰相となった。
- 丁酉、陸扆は硤州刺史に左遷された。崔胤が、自分に代わって相位に就いたことを恨み、李茂貞と党していると讒したためである。
- 己亥、朱朴は戸部も兼ね、軍旅・財賦の事を一手に委ねられた。
- 孫偓は鳳翔四面行営都統、李思諫は静難節度使兼副都統となり、いずれも李茂貞討伐を名目とした。
河東、魏博・汴軍と交戦
- 河東の李存信は臨清を攻め、宗城北で葛従周を破り、そのまま魏州北門まで迫った。
- 十月壬子、孫偓に行営節度招討処置等使が加えられた。
- 丁巳、韓建は京兆尹を兼ね、道路遮断や防備を統括する把截使となった。
- 戊午、李茂貞は罪を謝し、宮室修理費として金銭を献じて自新を願った。韓建もこれを後押ししたため、討伐は実行されなかった。
錢鏐、浙東西を兼領
- 錢鏐は両浙の官民に上表させ、自らの浙東兼領を求めた。
- 朝廷はやむなく王摶を宰相へ戻し、錢鏐を鎮海・威勝両軍節度使とした。
- 丙子、威勝軍は鎮東軍と改称され、錢鏐はここに浙東西をあわせて支配することとなった。
十月から十一月 魏州・湖州・広州の動き
- 李克用は自ら魏州を攻め、白龍潭で魏兵を破って観音門まで追った。
- 朱全忠は再び葛従周を救援に送り、自身も大軍で続いたので、克用は撤退した。
- 王珂には同平章事が加えられた。
- 十一月、朱全忠は大梁へ帰り、葛従周を再派遣して龐師古とともに鄆州を攻めさせた。
- 湖州刺史李師悦は節度使就任を求め、朝廷は湖州に忠国軍を置いて節度使としようとしたが、告身や旌節が届く前に戊子、李師悦は死んだ。楊行密はその子李彦徽に州事を行わせるよう求めた。
- 淮南将安仁義は婺州も攻撃した。
十二月 広州で劉隠が台頭
- 東川兵は漢州・眉州・資州・簡州の境を焼き掠めた。
- 清海節度使に任じられていた薛王知柔が湖南まで来たが、広州の牙将盧琚と譚弘玘が入境を拒んだ。
- 弘玘は端州を守り、さらに封州刺史劉隠と結んで娘を嫁がせようとした。劉隠は表面上これを受け入れ、婚礼を口実に夜、兵を舟に伏せて端州へ入り、弘玘を斬った。
- その勢いで広州を襲い、盧琚も斬って、軍容を整えて薛王知柔を迎え入れた。
- 知柔は劉隠を行軍司馬に任じた。これが後の嶺南勢力伸長の端緒となる。