資治通鑑唐紀七十六 昭宗聖穆景文孝皇帝 乾寧 二年 前895年

春正月 李克用の幽州入府と河北の動き

  • 辛酉、幽州では軍民数万人が旗や楽を並べて李克用を迎え入れた。克用は李存審・劉仁恭に兵を授け、盧龍配下の諸州を平定させた。
  • そののち克用は劉仁恭を盧龍留後として推挙し、守備兵も残したうえで、壬子に晋陽へ帰還した。
  • 媯州の高思継兄弟は勇武で知られ、幽州兵を分掌していたが、劉仁恭は彼らを警戒していた。河東兵の駐屯軍が乱暴を働くと、高氏兄弟は厳しく処断し、多くを殺したため、克用は怒った。
  • 劉仁恭は責任を高氏兄弟に帰したため、克用は兄弟を誅殺した。仁恭は燕の人心を収めるため、その子弟を手元に置いて厚遇した。

朱全忠、兗州を包囲

  • 癸未、朱全忠は朱友恭を派遣して兗州を包囲させた。朱瑾はこれまでたびたび汴軍と戦って双方とも疲弊しており、この時に本格的に圧迫された。
  • 朱瑄が鄆州から兵糧を送って救援したが、朱友恭は高梧で伏兵を用いてこれを大破し、兵糧を奪い、河東の将安福順・安福慶を捕えた。

宰相任免と河中の後継争い

  • 己巳、給事中の陸希声が戸部侍郎・同平章事となった。彼は陸元方の五世の孫である。
  • 壬申、護国節度使王重盈が死去した。軍中は王重栄の養子となっていた王珂に留後を任せようとしたが、これがのちの河中争奪の火種となった。
  • 王重盈の子で保義節度使の王珙、晋州刺史の王瑶は兵を挙げて王珂を攻め、王珂は自らの正統性を弁明し、李克用にも援助を求めた。
  • 朝廷はまず中使を送って和解を図り、その後、乙未に李谿をあらためて戸部侍郎・同平章事とした。
  • のちに朝廷は崔胤を護国節度使として河中に向かわせ、王摶を宰相に加えたが、王珙は王行瑜・李茂貞・韓建と結び、王珂の継承を否定してなお争った。

董昌、僭称をめぐって部下を誅す

  • 楊行密は朱全忠の罪を列挙して、易定・兗鄆・河東などと連合して討つよう上表した。
  • 一方、董昌は帝号を称えようとし、側近たちに諮った。
  • 節度副使黄碣は、唐室は衰えたとはいえなお天命は尽きておらず、節度使としての栄達で十分なのに、なぜ自ら滅族の道を選ぶのかと強く諫めた。董昌は怒って黄碣を斬り、その一族八十口も坑に埋めた。
  • 会稽令呉鐐も、真の諸侯として子孫に伝えるのではなく、偽りの天子を名乗って滅亡を招くのかと諫めたため、同じく族誅とされた。
  • 山陰令張遜も、浙東は海隅の僻地であり、配下の六州も必ずしも従わないから、帝号を称えても空城を守って天下の笑いものになるだけだと述べ、これも殺された。

二月 董昌、越で帝位を僭称

  • 辛卯、董昌は冕服を着て城楼に登り、帝位を称した。庭には瑞祥と称する品々を並べて民に示した。
  • もともと呉越の地には、山中に四つ目三本足の大鳥が現れるという流言があり、董昌はそれを自らに現れた鳳凰の類だと称した。
  • 国号を「大越羅平国」とし、年号を「順天」と改め、城楼を「天冊之楼」と名づけ、臣下には自分を「聖人」と呼ばせた。
  • さらに李邈・蔣瓌・杜郢・李瑜らを宰相に、呉瑶らを翰林学士に任じた。

錢鏐、董昌を諫めて一度退兵

  • 董昌は錢鏐に対して、自らが羅平国の帝位に就いたと告げ、錢鏐を両浙都指揮使に任じた。
  • 錢鏐は返書で、門を閉ざして天子を名乗り一族と百姓を塗炭に陥れるより、節度使として富貴を全うすべきだと諫めた。
  • そのうえで兵三万を率いて越州城下に至り、迎恩門で董昌に面会し、なおも改悛を促した。董昌は恐れて犒軍銭二百万を出し、首謀者の呉瑶と巫覡数人を差し出し、天子に謝罪したいと申し出た。
  • 錢鏐は兵を引き、朝廷に経過を報告した。

朝廷の政争と李谿の再罷免

  • 崔昭緯は李茂貞・王行瑜と深く結び、天子の過失や朝廷の機密をことごとく漏らしていた。
  • 李谿が再び宰相になると、崔昭緯は一族の崔鋋を通じて王行瑜を煽り、韋昭度や李谿を失脚させようとした。
  • 王行瑜・李茂貞は上表して李谿と韋昭度を非難し、相職から退けるよう求めた。
  • 昭宗は宰相任命は自分の権限だと突っぱねたが、圧力はやまず、三月に李谿は再び罷免され、太子少師となった。

楊行密、濠州・寿州を奪う

  • 楊行密は淮水を下って泗州に至った。防禦使台濛は華美な設営でもてなしたが、行密はむしろ、泗州を去った後に寝所で見つかった継ぎ当てだらけの衣を返送させ、自分が貧賤の出を忘れないことを示した。台濛は深く恥じた。
  • 行密は濠州を攻め落とし、刺史張璲を捕えた。
  • そのとき徐州出身の幼子を軍中で得て養子とし、のちに徐温へ与えた。徐温はこれを徐知誥と名づけた。知誥は孝心と才識に優れ、のちに大きな存在となる。
  • 丁亥、行密は寿州を囲んだが、いったんは攻略できず引き揚げようとした。ところが将の朱延寿が再攻を願い出て、一挙に陥落させ、刺史江従勗を捕えた。
  • その後、汴軍数万が寿州に迫ると、朱延寿は少数兵で防戦した。黒雲隊長李厚がいったん敗れたが、柴再用が助命を嘆願し、兵を増やして再戦すると、延寿も全軍で続き、汴軍を敗走させた。
  • 行密はさらに漣水も奪い、淮南の版図を広げた。

夏四月 宮中警備構想と董昌討伐の正式化

  • 昭宗は近ごろ京畿で盗賊が多く、宮中や陵寝にまで危害が及ぶため、宗室諸王に兵を持たせて巡警や藩鎮慰撫に当たらせようとした。
  • しかし南司・北司の権臣は宗室の伸張を恐れて一斉に反対し、やむなく詔を下してその案を撤回した。
  • 朝廷はなお董昌を狂疾に類するものとみて、いったんは罪を赦し田里に帰す方針を示した。
  • だが錢鏐は、董昌の僭逆は赦せないとして、本軍をもって討伐することを請うた。楊行密は逆に、董昌は改悛しており赦すべきだと上表し、錢鏐にもそう書き送った。
  • 五月、朝廷はついに董昌の官爵を削って、錢鏐に討伐を委ねた。

河東の救援で兗州包囲いったん解く

  • 河東は史儼・李承嗣を一万騎で鄆州方面へ急派した。
  • これを受けて朱友恭は汴へ引き揚げた。遠征軍の再派遣は、結果的に長期化して帰還困難を招くことになる。

王行瑜・李茂貞・韓建、兵を率いて入朝

  • 王行瑜はかつて尚書令を求めてかなわず、朝廷を恨んでいた。さらに郃陽鎮・良原鎮などの禁軍系鎮兵を欲しながら得られず、不満を深めた。
  • 王珙は、王珂が河東と婚姻関係にある以上、三帥に不利になると説いて王行瑜らを煽った。
  • 五月、王行瑜・李茂貞・韓建は各数千の精兵を率いて入朝し、甲子に京師へ到着した。坊市の民はみな逃げ隠れした。
  • 昭宗が安福門に出て問いただすと、三者は南北司の朋党、韋昭度の西川用兵、李谿の任相などを口実に、韋昭度・李谿の誅殺を求めた。
  • その日、彼らはついに都亭駅で韋昭度・李谿を殺し、樞密使康尚弼や宦官数人も殺した。さらに王珂を同州へ、王行約を陝州へ、王珙を河中へ移すよう迫り、昭宗はこれを認めた。
  • 当初は昭宗を廃して吉王保を立てる密議まであったが、李克用が挙兵した報に接し、行瑜・茂貞はそれぞれ二千兵を宿衛として残し、韓建とともに帰鎮した。

李克用、三帥討伐を名目に南下

  • 李克用は三鎮の兵が闕に迫ったと聞くと、ただちに代北諸部にも命を飛ばし、翌月には黄河を渡って関中へ入る構えを見せた。
  • 六月、孔緯と張濬が召し戻され、孔緯は吏部尚書、張濬は兵部尚書・諸道租庸使となった。昭宗は藩鎮と結ぶ朋党を嫌い、骨のある人材として二人を用いようとした。
  • 李克用は蕃漢の大軍を率いて南下し、王行瑜・李茂貞・韓建の罪を数えて討伐を請うた。
  • まず絳州を攻め、刺史王瑶が籠る城を十日ほどで落とし、軍門で王瑶を斬ったうえ、抗戦した者千余人を殺した。
  • 七月、克用は河中に至り、王珂が道で出迎えた。王行約は朝邑で敗れ、逃げて京師に戻った。

七月 京師で兵乱、昭宗は南山へ避難

  • 王行実は左軍指揮使として兄の王行約とともに西市を大掠奪し、沙陀が来るから車駕は邠州へ避難すべきだと奏した。
  • 樞密使駱全瓘と李継鵬は鳳翔への幸を画策し、劉景宣と王行実は邠州への幸を望んだ。孔緯は軽々しく宮闕を離れるべきでないと強く反対した。
  • しかし夕刻、左軍と右軍が衝突し、王行約が左軍を率いて右軍を攻め、李継鵬も鳳翔兵で禁軍を攻撃した。昭宗が承天楼に登って鎮めようとしたところ、矢が御衣をかすめ楼の桷に当たるほどの危機となった。
  • 宮門にも放火され、火煙が天を覆った。昭宗は塩州六都兵を呼び寄せて護衛させ、両軍は退いたが、京中は大混乱となり、略奪が横行した。
  • 昭宗は諸王や近臣とともに李筠の営へ移り、さらに辛酉、啓夏門を出て南山の莎城鎮に避難した。従う士民は数十万に上り、谷口へ至るまでに酷暑で三分の一が死に、夜には盗賊の掠奪にも遭った。
  • 百官の多くは従えず、薛王知柔だけが先着して仮に中書事を掌った。

石門鎮行在と李克用への督促

  • 壬戌、李克用は同州へ入った。
  • 昭宗は甲子に石門鎮へ移り、薛王知柔と劉光裕を京城へ戻して宮禁の守衛に当たらせた。
  • 李克用は判官王瓌を遣わして起居を問わせ、昭宗も郗廷昱を派遣して、李克用と王珂に各一万騎を出させ、新平へ進ませるよう命じた。
  • また彰義節度使張鐇には、涇原兵で鳳翔を牽制させた。
  • 李克用軍は華州も攻めたが、郗廷昱から李茂貞が盩厔、王行瑜が興平に現れ、車駕を迎えようとしていると聞くと、華州包囲を解いて渭橋へ移った。
  • 昭宗は延王戒丕を河中へ送り、李克用に早く進兵するよう催促した。壬午には張承業を克用軍へ派遣し、承業はそのまま軍監として留まった。

李克用、邠寧を圧迫し車駕を帰京させる

  • 己丑、李克用は渭橋へ進み、前鋒の李存貞が永寿を陥落させた。史儼には三千騎で石門の車駕護衛に向かわせた。
  • 癸巳、李存信・李存審・李思孝らは王行瑜の梨園寨を攻め、その将王令陶らを捕えて行在へ送った。
  • 李茂貞は恐れて李継鵬を斬り、首を行在に送り、自らも謝罪して李克用との和を求めた。
  • 昭宗は延王戒丕と丹王允を李克用のもとへ再派遣し、ひとまず李茂貞を赦して王行瑜討伐に力を合わせるよう諭した。さらに二王に李克用を兄と呼ばせた。
  • 戊戌、王行瑜は官爵を削られた。癸卯、李克用は邠寧四面行営都招討使となり、各方面軍の編成も定められた。
  • 克用は十一歳の子李存勗を行在へ参上させた。昭宗はその容貌を見て、将来は国家の柱石になるだろうと撫でて励ました。
  • 昭宗は李克用の請いを入れて還京を決断し、克用に三千騎を三橋へ駐屯させて備えとした。
  • 辛亥、車駕は長安へ還り、翌日、崔昭緯は罷免され、王珂と劉仁恭には正式に節度使が与えられた。宮室は焼け落ちていたため、昭宗はしばらく尚書省に仮住まいした。

秋九月 邠州・鳳翔・兗州・越州の戦い

  • 癸亥、孔緯が死去した。
  • 辛未、朱全忠は自ら朱瑄を梁山で破り、朱瑄は鄆州へ退いた。
  • 李克用は梨園攻略を急ぎ、王行瑜は李茂貞に救援を求めた。茂貞は龍泉鎮に兵を置き、自らも咸陽付近に三万を屯させた。
  • 李克用は李茂貞の官爵剥奪と討伐を望んだが、昭宗はすでに赦した以上それはできないとして、帰鎮と和解だけを命じた。
  • 史儼は雲陽で邠寧兵を破ってその将王令誨らを捕え、王建もまた簡州刺史王宗瑶らを救援として送ったが、綿州に留まり前進しなかった。
  • 董昌は楊行密に救援を求め、行密は台濛に蘇州を攻めさせて錢鏐を牽制した。同時に董昌の官爵回復を請い、錢鏐にも再攻すべきでないと説いた。

冬十月 李克用、梨園を破る

  • 丙戌、河東将李存貞が梨園北で邠寧軍を破り、千余人を殺した。以後、梨園側は城を閉ざして出撃できなくなった。
  • 戊子、昭宗は寵妃の魏国夫人陳氏を李克用に賜った。
  • 李罕之・李存信らは梨園を猛攻し、城中の食糧が尽きると守兵は棄城して逃げた。河東軍は追撃して万余人を殺し、梨園など三寨を奪い、王行瑜の子王知進や大将李元福らを捕えた。
  • 庚寅、王行約・王行実は寧州を焼いて逃走した。李克用は蘇文建を静難節度使に任じるよう請い、寧州の統治と降人の招撫に当たらせようとした。
  • そのころ昭宗は大内へ戻った。

兗州再包囲と両浙・淮南の抗争

  • 癸卯、朱全忠は葛従周を派遣し、自らも大軍で続いて兗州を再び包囲した。
  • 楊行密は田頵・安仁義に杭州の諸鎮を攻めさせて董昌を救おうとし、董昌も湖州将徐淑を嘉興包囲に参加させた。
  • 錢鏐は顧全武を派遣して嘉興を救い、烏墩・光福の二寨を破った。柯厚は蘇州の水柵を破った。

十一月 龍泉陥落、王行瑜の滅亡

  • 義武では王処存が死去し、軍中は子の王郜を留後に推した。
  • 孫偓が兵部侍郎・同平章事となった。
  • 王行瑜は精鋭五千で龍泉寨を守り、李茂貞も五千で救援したが、李罕之が鳳翔兵を破った。
  • 丁巳、龍泉寨が陥落し、王行瑜は邠州へ逃げ込んだ。
  • 王行瑜は李克用に降伏を願ったが、克用は自分は朝命により三賊を討つのであり、一人だけを独断で処理はできないと答えた。
  • 丁卯、王行瑜は一族を連れて邠州を捨てて逃亡し、克用は邠州に入り、府庫を封じ住民を安撫した。行瑜は慶州境で部下に斬られ、その首が送られた。

朱全忠、賀瓌らを撃破し朱瓊を失う

  • 朱瑄は賀瓌・柳存、さらに河東の薛懐宝に兵一万余を与え、曹州を襲って兗州包囲を解こうとした。
  • 丁卯、朱全忠は中都から夜を徹して追撃し、明け方に鉅野南でこれに追いつき、ほぼ全滅させた。賀瓌・柳存・薛懐宝らを生け捕りにし、兵三千余を虜とした。
  • その日の夕方には大風で空が暗くなったが、全忠は殺戮がまだ足りぬ徴だとして、捕虜をすべて斬るよう命じた。
  • 庚午、賀瓌らを縛って兗州城下に示し、朱瑾に兄はすでに敗れたのだから降れと迫った。
  • 朱瑾は偽って降伏を申し出、城門で符印を渡すから兄の朱瓊をよこせと求めた。辛巳、朱瓊が赴くと、橋下に伏せていた董懐進がこれを捕えて城内へ引き入れ、まもなく首を城外へ投げ捨てた。
  • 朱全忠は兗州攻略が容易でないと見ていったん引き上げ、朱瓊の弟朱玭を斉州防禦使とし、柳存・薛懐宝を殺し、賀瓌だけはその名を惜しんで用いた。

李克用の退兵と湖南の新乱

  • 李克用は渭北へ軍を戻し、蘇文建に静難節度使・同平章事を加えた。
  • 湖南では蔣勛が邵州刺史を求めて許されず、鄧継崇や飛山・梅山の蛮と結び、湘潭を侵し、邵州を拠って定勝鎮に申徳昌を置き、潭州側を抑えた。

十二月 西川・東川・河東の動き

  • 甲申、閬州防禦使李継雍・蓬州刺史費存・渠州刺史陳璠がそろって王建に奔った。
  • 乙酉、李克用は雲陽に進軍した。
  • 王建は、東川節度使顧彦暉が勤王の兵を出さなかったうえ、輜重を掠めたと訴え、馬敬儒に峡路を断たせて討伐を請うた。実際には東川攻めの口実づくりであった。
  • 戊子、華洪は楸林で東川兵を大破し、寨を奪った。
  • 乙未、李克用は晋王に進封され、李罕之は侍中を加えられ、蓋寓は容管観察使を遥領した。
  • 蓋寓は機敏で克用の意をよく汲み、諫めるにも近例を引いて婉曲に述べるので、克用に深く信任された。朝廷や隣道の使者からの贈答も、克用の次には蓋寓の家へ届くほどで、朱全忠がしばしば離間を試みても成功しなかった。
  • 丙申、王建の別将王宗弼が東川兵に捕えられたが、顧彦暉はこれを養子として留めた。
  • 戊戌、通州刺史李彦昭も兵二千を率いて王建に降った。
  • 李克用は掌書記李襲吉を入朝させて恩に謝させた。襲吉は密かに、今の勢いなら鳳翔を取って関中を永く安定させられると進言したが、朝廷側はかえって李克用の勢力拡大を恐れた。
  • 昭宗は褒賞の詔を出しつつも、李茂貞と韓建はもう反省しており、兵を休めるべきだと告げた。克用は不満を抱いたが従った。
  • さらに入朝を免じる詔も出された。将佐の中にはこの近さなら拝謁すべきだとの声もあったが、蓋寓が、天子帰京直後に大軍で入れば都人をまた驚かせると諫めたため、克用はこれに従い、辛亥、東へ引き揚げた。
  • 克用退去後、李茂貞は再び驕横となり、河西諸州県を押さえて胡敬璋を河西節度使とした。
  • 葛従周は朱瑾に対し、救兵を迎え撃つと見せかけて夜半に潜帰し、城外へ誘い出してこれを撃ち、千余人を斬り、都将孫漢筠を捕えた。
  • 錢鏐には侍中が加えられ、張鐇が死ぬとその子張璉が留後となった。
  • 朱瑄・朱瑾が河東に救援を請うと、李克用は史儼・李承嗣を魏を経て派遣した。
  • 安州防禦使家晟は朱全忠の近臣蔣玄暉と不和で、禍を恐れて劉士政・陳可璠とともに桂州を奇襲し、経略使周元静を殺してその地を奪った。のち家晟は酔って陳可璠を侮り、可璠に殺され、劉士政が軍府を掌ることとなった。