資治通鑑唐紀七十五 昭宗聖穆景文孝皇帝上之中 乾寧元年 元年 894年

正月・改元と李茂貞の入朝

  • 正月乙丑朔、朝廷は大赦を行い、元号を乾寧に改めた。
  • 李茂貞は入朝したが、大軍を並べて自衛しつつ数日滞在したのち、鎮地へ帰った。
  • また李匡籌は盧龍節度使に任じられた。

二月・魚山の戦い

  • 二月、朱全忠はみずから朱瑄を魚山で攻めた。朱瑄は朱瑾と兵を合わせて反撃したが、兗州・鄆州軍は大敗し、死者は万余に及んだ。

二月・鄭綮の宰相就任

  • 右散騎常侍の鄭綮が礼部侍郎・同平章事に抜擢された。
  • 鄭綮は詩と諧謔で知られ、時事を皮肉る歇後詩で有名だったが、本人には宰相の望みは薄かった。
  • 昭宗は、何か深い見識があるはずだと見込んで自ら班簿に書き込み、宰相に任じた。
  • 使者が知らせると、鄭綮は「天下に人がいなくなったわけでもないのに、なぜ自分なのか」と笑い、就任後も「歇後の鄭五が宰相になるのだから、世の中のありさまも知れる」と嘆いた。

武安節度使の交替

  • 鄧處訥が武安節度使に任じられた。
  • 彰義節度使の張鈞が死去し、兄の張鐇が留後を願い出た。

三月・黄州の帰順

  • 黄州刺史の呉討は州ごと楊行密に降った。

三月・李存孝の最期

  • 邢州城内で食糧が尽きると、甲申、李存孝は城上から李克用に向かい、讒言に陥れられただけであり、父子の恩を忘れて敵に従いたかったわけではないと訴え、一目会えれば死んでも悔いはないと言った。
  • 李克用は劉夫人を遣わして引き出させ、李存孝は泥にまみれて謝罪し、自分には多少の功もあったのに、李存信に追い込まれてここに至ったと訴えた。
  • しかし李克用は、朱全忠・王鎔への書で自分を激しく罵ったことを責め、許さず、晋陽へ連行して牙門で車裂きに処した。
  • 李存孝は軍中随一の勇将で、重鎧を着て弓・槊・鉄撾を振るい、二頭の馬を使い分けて敵陣を縦横に駆けたため万人も近寄れなかった。
  • 李克用は本心ではその才能を惜しみ、諸将が助命を願うのを期待していたが、皆がその勇名をねたみ、結局だれ一人として口を開かなかった。
  • 処刑後、李克用は十日間政務を見ず、諸将を恨んだが、李存信には何の咎めもしなかった。
  • また、勇名が李存孝に匹敵した薛阿檀も諸将に憎まれ、李存孝と通じていたことの発覚を恐れて自殺した。
  • これ以後、李克用の軍勢はしだいに弱まり、対する朱全忠だけが強大になっていった。

張從晦事件

  • 朱全忠は張從晦を寿州へ遣わして慰撫に当たらせたが、張從晦は刺史の江彦温を侮辱しつつ諸将と夜飲した。
  • 江彦温は謀反を疑い、翌日、宴席にいた諸将を皆殺しにしたうえで朱全忠に謝罪の書を送り、自身も自殺した。
  • 軍中はその子の張從頊を推して州を預からせたが、朱全忠は張從晦に責任ありとして腰斬に処した。

五月・湖南の再編

  • 五月、錢鏐に同平章事が加えられた。
  • 劉建鋒・馬殷は兵を率いて醴陵に達し、鄧處訥は蔣勛・鄧繼崇に三千を与えて龍回関を守らせた。
  • 馬殷は使者を送って、劉建鋒こそ楚地で興るべき人物だと説き、郷兵数千でこれに抗するのは難しい、先に降って富貴を取るべきだと勧めた。
  • 蔣勛らがこれを受け入れると、兵は喜んで旗や武器を捨てて逃散した。
  • 劉建鋒はその装備を使って邵州軍の帰還を装い、潭州は油断したまま迎えたため、建鋒はそのまま府に突入し、宴中の鄧處訥を捕えて斬った。
  • 戊辰、劉建鋒は潭州に入り、留後を称した。

五月・彭州陥落

  • 王建は彭州を長く攻め、城中ではついに人肉食まで起こった。
  • 内外都指揮使の趙章が降伏し、王先成は城外から女墻へ続く「龍尾道」を築くよう進言した。
  • 丙子、西川軍はその道から登城し、楊晟はなお兵を率いて奮戦したが、刀子都虞侯の王茂權に斬られた。
  • 馬歩使の安師建も捕えられたが、王建が将にしようとしても、楊司徒と生死をともにすると誓い、二君に仕えることを拒んだため、殺され、礼をもって葬られた。
  • 王建は趙章を王宗勉、王茂權を王宗訓、王釗を王宗謹、李綰を王宗綰と改名させ、一族化を進めた。

五月‐六月・朱瑄・朱瑾と河東の連携

  • 朱瑄・朱瑾は河東に救援を求め、李克用は安福順とその弟たちに精騎五百を与え、魏を通って黄河を渡らせて支援に向かわせた。
  • 一方、武昌節度使の杜洪は黄州を攻め、楊行密は朱延寿らに救援させた。

六月・徐州の再編

  • 甲午、張廷範は武寧節度使となった。これは朱全忠の要請によるもので、徐州の軍号も再び武寧に戻された。

六月・李谿宰相流産

  • 戊午、翰林学士承旨の李谿を同平章事とする制書が出た。
  • ところが制書を読む場で、知制誥の劉崇魯が進み出て詔書を奪い取り、号泣した。
  • 昭宗が理由を問うと、劉崇魯は、李谿は姦邪で楊復恭・西門君遂に依附してきた人物であり、宰相にふさわしくなく、国家を危うくすると述べた。
  • そのため李谿の任命は取り消され、太子少傅となった。
  • もっともこれは、崔昭緯が李谿に権力を分けられるのを恐れ、劉崇魯を使って妨害した面も大きかった。
  • 李谿は十度も上表して自らの正当性を訴え、劉崇魯の父や兄弟の瑕疵まであげつらって攻撃したが、かえってその狭量さをさらけ出した。

六月・李克用、赫連鐸を制圧

  • 李克用は吐谷渾を大破し、赫連鐸を討ち、白義誠を捕えたとされた。
  • ただし他史料では赫連鐸らが窮して自縛し、李克用のもとへ降ったとも伝えられ、胡注は史料差を示している。

七月・閬州陥落と楊氏の最期

  • 七月、李茂貞の兵が閬州を攻め落とし、楊復恭・楊守亮・楊守信らは一族とともに包囲を破って逃れた。

七月・宰相交替

  • 鄭綮は、自身が人望にかなわぬとたびたび辞表を出していたため、太子少保として致仕した。
  • 徐彦若が中書侍郎兼吏部尚書・同平章事となった。

綿州・東川方面

  • 綿州刺史の楊守厚が死に、その将の常再榮は城ごと王建に降った。

八月・楊復恭父子の処刑

  • 楊復恭・楊守亮・楊守信は商山から河東へ逃れようとしたが、乾元県で華州兵に捕えられた。
  • 八月、韓建が彼らを京師へ差し出し、独柳で斬首された。
  • 李茂貞は、楊復恭が楊守亮に送った書を献じた。そこには、自分が寿王を荊棘の中から立てて天子にしたのに、策立の功臣たる自分を退かせた恩知らずの「門生天子」だと昭宗をなじり、承天門は隋家以来の旧業なのだから、楊守亮はひたすら兵糧を蓄えて貢献などするな、といった趣旨が記されていた。

八月‐九月・康君立の死

  • 昭義節度使の康君立が晋陽へ来て李克用に拝謁した。
  • 己未、李克用は諸将と博打を交えた酒宴で、酔って李存孝のことを語り涙した。
  • 康君立はもと李存信と親しかったためか、ひと言が李克用の意に逆らい、李克用は剣で斬りつけて馬歩司に収監した。
  • 九月庚申朔に釈放されたが、すでに死んでいた。
  • 李克用は薛志誠を昭義留後に推した。

十月・諸王封建

  • 十月、皇子の祤を棣王、禊を虔王、禋を沂王、禕を遂王に封じた。

劉仁恭の幽州奪取構想

  • 劉仁恭はたびたび李克用に策を献じ、一万の兵を与えれば幽州を奪えると請うた。
  • 李克用は邢州攻囲の途中から数千を割いて仁恭を幽州に入れようとしたが、この段階では成功しなかった。
  • その一方で、李匡籌はますます驕って河東の境をしばしば侵した。

十一月‐十二月・李克用の幽州攻略

  • 十一月、李克用は大軍で李匡籌を討ち、武州を落として新州を包囲した。
  • 十二月、李匡籌は数万の援軍を送ったが、李克用は段荘でこれを大破し、多数を斬首、生け捕りの将校三百人を縛って城下に見せつけた。その夜、新州は降伏した。
  • 辛亥には媯州へ進み、翌日、居庸関から再び出てきた幽州軍を、前面で騎兵が疲れさせ、別路を進んだ李存審の歩兵で背後からはさんで大敗させた。
  • 甲寅、李匡籌は一族を率いて滄州へ逃れたが、義昌節度使の盧彦威はその輜重と妓妾を欲し、景城で襲って李匡籌を殺し、その衆をことごとく奪った。
  • 李存審は本姓を苻といい、宛丘の人で、李克用の養子となっていた。

幽州陥落後

  • 丙辰、李克用は幽州へ進軍すると、城中の大将たちはみな降伏を願い出た。
  • 李匡威がかつて「弟は才が短く、二年保てれば幸い」と言った通り、李匡籌の支配は短く終わった。

年末の諸動向

  • 王行約は検校侍中となった。
  • 呉討は杜洪の圧迫を恐れ、印綬を返上して黄州の交代を楊行密に願い出たため、楊行密は瞿章に黄州を預からせた。
  • 黄連洞の蛮二万が汀州を囲んだが、福建観察使の王潮は李承勲に一万を与えて討たせ、漿水口で破った。こうして閩地はおおむね平定された。
  • 王潮は僚佐に州県巡察をさせ、農桑を勧め、租税を定め、近隣とも和好して、境内を安定させた。閩人はこれを喜んだ。

嶺南・劉隠の登場

  • 封州刺史の劉謙が死に、子の劉隠は賀江で喪に服していた。
  • その間に土民百余人が乱を企てたが、劉隠は一夜でこれを皆殺しにした。
  • 嶺南節度使の劉崇龜は、劉隠を右都押牙兼賀水鎮使に任じ、ほどなく封州刺史に推挙した。
  • これが後の南漢建国につながる劉氏政権の始まりである。

浙東・董昌の専横と僭望

  • 威勝節度使の董昌は苛酷で、通常の租税のほかに数倍の徴発を課し、それを朝廷への貢献や中外への贈賄にあてた。
  • 十日ごとに金一万両、銀五千鋌、越綾一万五千匹などを送らせ、五百人の輸送兵が風雨や水難で日程を遅らせれば死罪に処した。
  • そのため朝廷は董昌を忠臣とみなし、司徒・同平章事、隴西郡王へと昇進させた。
  • 董昌は越州に自らの生祠を禹廟そっくりに造り、百姓の祈祷や報賽も禹廟ではなくこちらに参るよう命じた。
  • やがて越王への封建を求めたが許されず、「朝廷は自分を裏切るつもりだ」と不満を漏らした。
  • これに阿る者たちは、越王よりむしろ越帝になるべきだとそそのかし、民間にも世が変わるとの流言が広まり、人々が門に群がって帝位を勧める騒ぎとなった。
  • 董昌は大いに喜び、時が来れば自ら帝を称するとほのめかした。謡言・図讖・符瑞の類は日々山のように集まり、最初は献じた者に数百緡を与えていたが、数が増えるにつれて褒賞は減っていった。
  • そして「兔子上金牀」という讖を、自分が卯年生まれで、来年また卯年が巡ることに結びつけ、翌年二月の卯日卯時こそ帝位に就く時だと思い込んだ。