資治通鑑唐紀七十一 僖宗惠聖恭定孝皇帝 中和 四年 884年

正月 鹿晏弘・楽彦禎

  • 鹿晏弘は興元留後とされた。
  • 魏博節度使の楽行達は、名を彦禎と改めることを許された。

東川の楊師立、挙兵を決意

  • 東川節度使の楊師立は、田令孜・陳敬瑄兄弟の権勢があまりに盛んなことに不満を抱いていた。とくに陳敬瑄が高仁厚を峡路討伐に送る際、「成功して帰れば東川を褒賞に奏請する」と言ったと知って激怒した。自分と同格の藩鎮である東川を勝手に他人への恩賞のように扱ったのは、天地をも無視する暴挙だと受け取ったのである。
  • 田令孜は彼が乱を起こすのを恐れ、防備の出兵命令に従わなかったことを理由に、右僕射への転任という形で召還しようとした。楊師立はこれに従わず、官告を持ってきた使者や監軍を殺した。
  • そして「陳敬瑄討伐」を名分に掲げて挙兵し、諫めた大将はことごとく殺し、涪城へ進んだ。将の郝蠲に綿州を襲わせたが落とせなかった。
  • 朝廷は陳敬瑄に、西川・東川・山南西道の都指揮招討安撫処置等使を兼ねさせた。

二月 李克用、陳州救援へ向かう

  • 黄巣軍はなお強く、周岌・時溥・朱全忠だけでは支えきれなかったため、そろって李克用に救援を求めた。
  • 李克用は蕃漢の兵五万を率いて天井関から出ようとしたが、河陽節度使の諸葛爽が橋の修理未了を理由に万善に兵を屯して道を塞いだため、進路を変え、陜州・河中方面から河を渡って東へ向かった。

三月 楊師立の檄文と高仁厚の出陣

  • 三月、楊師立は行在所の百官や諸道の将吏・士庶に檄を飛ばし、陳敬瑄の十罪を数え上げ、自らは本道八州の壇丁十五万を率いて問罪すると称した。
  • 朝廷は楊師立の官爵を削り、高仁厚を東川留後として五千兵で討たせ、西川押牙の楊茂言を副将とした。

朱全忠・銭鏐・高駢配下の動き

  • 朱全忠は黄巣軍の瓦子寨を破り、黄巣方の李唐賓・王虔裕が降った。
  • 婺州では王鎮が刺史の黄碣を捕えて銭鏐に降ったが、劉漢宏の将の婁賚が王鎮を殺して代わった。これに対して浦陽鎮将の蒋瓌が銭鏐軍を呼び込み、婺州を攻めて婁賚を捕えた。黄碣は閩の人である。
  • 高駢の従子の高澞は、呂用之の罪状を二十余幅にわたって密かに高駢へ提出し、放置すれば高氏の勲業が滅ぶと泣いて訴えた。だが高駢はかえってこれを呂用之に見せた。
  • 呂用之は、高澞が金銭のことで恨みを抱いているのだと言い逃れ、高駢はむしろ高澞を禁足させた。のちに舒州を任せたが、賊の陳儒に攻められた際、楊行愍配下の李神福が旗幟と偽装だけで賊を退却させて救った。
  • しかしその後、呉迥・李本が再び舒州を攻めると、高澞は守りきれず逃亡し、高駢は人をやって彼を殺した。
  • 楊行愍は陶雅・張訓らに命じて呉迥・李本を討ち取り、陶雅を舒州刺史代行とした。秦宗権の弟が舒城を奪うと、田頵がこれを撃退した。
  • 一方、前杭州刺史の路審中は黄州から兵三千を募って鄂州に入り、崔紹の死後の空白を突いてそこを奪った。武昌牙将の杜洪も岳州刺史を逐って代わった。

四月 陳州の包囲が解ける

  • 黄巣の陳州包囲は三百日近くに及んでいた。趙犨兄弟は大小数百戦を戦い、兵糧が尽きかけても士気は衰えなかった。
  • 李克用は許・汴・徐・兗の諸軍とともに陳州に会し、太康にいた尚讓を攻めてこれを奪った。ついで西華の黄思鄴も攻め、思鄴を敗走させた。黄巣はこれを恐れて故陽里まで退き、こうして陳州の包囲はようやく解けた。

五月 黄巣、汴州へ退く

  • 大雨で平地が三尺も水に浸かり、黄巣の営も流された。そこへ李克用来援の報を聞き、黄巣は東北へ向かって汴州を目指し、途中で尉氏を屠った。
  • 尚讓は精鋭騎兵五千を率いて大梁に迫ったが、朱珍・龐師古に撃退された。
  • 朱全忠は再び李克用に急を告げ、李克用は田従異とともに許州を発して追撃した。中牟北の王満渡で黄巣軍が河を渡る半ばを衝き、大破して万余を斬った。尚讓は時溥に降った。
  • 黄巣配下の李讜・霍存・葛従周・張帰霸・張帰厚らは朱全忠に降った。彼らは後に朱全忠の勢力拡大を支える武将となる。
  • 黄巣は汴水を越えて北へ逃げ、封丘でも敗れた。夜半にはまた豪雨となり、黄巣軍は驚いて東へ走った。李克用は胙城・匡城を経て追い、黄巣は千人足らずの残兵とともに兗州へ逃げた。
  • 李克用軍は昼夜二百余里を行軍して極度に疲弊し、糧も尽きたため、いったん汴州へ戻って糧食を整えることにした。黄巣の幼子や車服・符印を得、さらわれていた男女一万人は解放した。

五月 上源駅の変

  • 李克用は甲戌、汴州に到着して城外に営した。朱全忠は入城を強く求め、上源駅に宿らせた。酒宴は盛大で礼も厚かったが、李克用は酒に乗じて驕り、言葉も朱全忠を侵すものだった。
  • 宴が終わると、朱全忠はひそかに楊彦洪と謀り、車や柵で街路をふさいで兵を出し、駅を包囲して火を放った。呼号が地を震わせたが、李克用は酔っていて最初は気づかなかった。側近の郭景銖が灯を消し、水で顔を冷やしてようやく知らせた。
  • 薛志勤・史敬思ら十余人が必死に戦って時間を稼ぎ、折しも雷雨で暗闇となったため、李克用は垣を越えて脱出できた。史敬思は殿軍を務めて戦死し、陳景思ら三百余人も汴軍に殺された。
  • 楊彦洪は「沙陀は急になると馬に乗るから、馬を見たら射よ」と言ったが、自ら馬に乗っていたため、朱全忠に誤って射殺された。
  • 李克用は怒って反撃しようとしたが、妻の劉氏が、今は国家のために賊を討って諸侯を救った直後であり、ここで私闘を起こせば曲直が曖昧になる、まず朝廷に訴えるべきだと諫めたため、兵を引いた。
  • 朱全忠は書簡で、あの夜の変は自分の知らぬところで、朝廷使者と楊彦洪の謀だと弁明した。

李克用軍の人物

  • この戦いのさなか、十七歳の養子・嗣源は矢石の中でも傷を負わなかった。彼はもと胡人で邈佶烈といい、克用に養われて李嗣源となった。
  • 李克用は軍中の驍勇な者を多く養子とし、回鶻出身の存信、孫重進の存進、王賢の存賢、安敬思の存孝らがいた。のちの「義児軍」である。

高仁厚、鹿頭関で勝利

  • 高仁厚は鹿頭関を包囲し、攻めれば敵に利があり、囲めばこちらが楽だとして、十二寨を並べて包囲戦に持ち込んだ。
  • 夜半、鄭君雄らが抜け出して北側の副将寨を襲うと、楊茂言は守れずに逃げた。ほかの寨もこれに動揺したが、高仁厚は寨門を大きく開き、炬火を焚いて敵を誘い入れず、左右に伏兵を置いて返り道を衝き、大勝した。
  • 翌朝、本来なら昨夜逃げた諸将を多数処刑すべきところだったが、高仁厚は密かに歩探子を出して、彼らに「僕射はまだ知らない、朝の牙参に戻れ」と伝えさせた。諸将は高仁厚が本当に知らないと思って戻ってきた。
  • そこで高仁厚は楊茂言だけを呼び出し、昨夜の逃亡と虚偽報告を咎めて処刑した。諸将は震え上がり、軍律の厳しさは賊にも伝わった。以後、東川兵は容易に出撃しなくなった。
  • さらに庚辰、時溥の将・李師悦が黄巣追撃に向かったころ、高仁厚は鹿頭関城下に陣し、陽動の敗走で鄭君雄らを誘い込み、伏兵を発して大破した。その夜、鄭君雄らは梓州へ逃げ帰った。
  • 陳敬瑄はさらに三千を送って高仁厚軍を増強し、梓州包囲に入らせた。