六月 東川の平定と楊師立の最期
- 東川留後の高仁厚は、梓州を長く包囲しても落とせなかったため、城中へ書状を射込み、将兵に対して「狙いは楊師立という首悪のみであり、十日だけ攻撃を緩める。その間に自ら手柄を立てて楊師立の首を差し出せ。さもなくば昼夜交代で総攻撃する」と説いた。
- 数日ののち、都将の鄭君雄が城内で呼びかけると、兵は一斉に府中へ突入した。楊師立は自殺し、鄭君雄はその首を持って高仁厚に降った。
- 高仁厚は楊師立の首と妻子を行在へ送った。陳敬瑄はその子を城北で磔にし、見物に来た自分の三子に向かって「次はお前たちだ」と叫ぶ者がおり、三子は恐れて逃げ帰った。
- この功により、高仁厚は東川節度使に任じられた。
黄巢の滅亡
- 武寧の将李師悦は尚讓とともに黄巢を瑕丘まで追撃し、これを破った。黄巢の残兵はほとんど尽き、狼虎谷まで落ち延びた。
- 黄巢の甥の林言は黄巢とその兄弟・妻子を斬って時溥のもとへ送ろうとしたが、途中で沙陀・博野軍に奪われ、林言自身も殺されて、その首もあわせて時溥へ送られた。黄巢の乱は乾符三年の蜂起以来、およそ十年で終息した。
秦宗權の侵掠と朱氏の提携
- 蔡州節度使の秦宗權は兵を放って四方を荒らし、周辺諸道を食い荒らした。
- 天平節度使の朱瑄は三万の兵を持ち、従弟の朱瑾は軍中随一の勇将であった。宣武節度使の朱全忠が秦宗權に攻められて窮地に陥ると、朱瑄は朱瑾を派遣して救援し、合郷で秦宗權を破った。
- 朱全忠はこの恩を喜び、朱瑄と兄弟の約を結んだ。
七月 黄巢の首級献上
- 時溥は黄巢とその家族、姬妾たちの首を朝廷に献じた。皇帝は大玄楼に出てこれを受け取った。
- 皇帝が姬妾たちに、なぜ賊に従ったのかと問うと、その中の代表の女は「国家が大軍を擁しながら宗廟を守れず、君主を蜀へ流浪させたのに、一女子だけを責めて公卿将帥をどこに置くのか」と言い返した。
- 皇帝はそれ以上問わず、姬妾たちは市で処刑された。人々は酒を与えたが、多くは恐怖と悲しみで酔い潰れた中、先頭の女だけは酒も飲まず泣きもせず、処刑に臨んでも顔色を変えなかった。
朱全忠・李克用・朝廷の対立
- 朱全忠は秦宗權を溵水で破った。
- 李克用は晋陽に帰ると兵甲を大いに整え、榆次鎮将の李承嗣に表を持たせて行在へ遣わした。その内容は、黄巢討伐の大功がありながら朱全忠に謀られ、辛うじて逃れたこと、従者三百余人と牌印を失ったこと、さらに朱全忠が自分を死んだと触れ回って各地に残兵狩りを命じたことへの訴えであった。
- 李克用は、朝廷が公正に裁いてくれると信じて兵を抑え、本鎮に戻ったうえで調査と討伐を求めたが、朝廷は大乱平定直後で宥和を優先し、中使を送って慰撫するにとどめた。
- 李克用は前後八度も上表し、朱全忠は功を妬み、いずれ国の大患になると訴え、自費で討つから官爵を削れと求めたが、皇帝は楊復恭らをたびたび遣わして、大局のため我慢せよと諭した。
- このころには、藩鎮同士が争っても朝廷はもはや是非を裁けず、諸鎮は力のみを頼み、朝廷を畏れなくなっていた。
八月―九月 李克用の権勢拡大、朱全忠の昇進
- 李克用は麟州を河東に属させること、弟の李克修を昭義節度使にすることを求め、いずれも許された。これにより昭義は二鎮に分かれた。
- さらに李克用は隴西郡王に進封され、雲・蔚防禦使を廃して旧来通り河東に属させることも認められた。
- 九月、朱全忠は同平章事に任じられた。
- 右僕射・大明宮留守の王徽は京兆尹事を兼ね、長安の流民を招き戻し、焼けた宮室を修理して、官司の機能をようやく整えつつあった。
冬十月 王鐸の転出と王建らの離反
- 関東の藩鎮はそろって車駕の還京を請うた。
- かつて義成節度使の王鐸は都統として朱全忠に官を授ける立場にあり、朱全忠が大梁に入った当初は礼を尽くして王鐸を後ろ盾とした。だが、兵力が増すにつれ慢心し、王鐸はもはや頼れないと見て帰朝を願い出た。
- そこで王鐸は義昌節度使へ移された。
- 鹿晏弘が河中を去ると、王建・韓建・張造・晋暉・李師泰らはその軍を率いて同行し、興元に拠った鹿晏弘は彼らを巡内刺史に任じて、実際の赴任は許さなかった。
- 鹿晏弘は猜疑心が強く、特に親しい王建・韓建を警戒してしばしば寝所に招き厚遇したが、二人はかえって危機を悟った。
- 田令孜がひそかに厚利で誘うと、十一月に王建・韓建らは数千人を率いて行在へ逃れた。田令孜は彼らをみな養子とし、巨万の賜与を与え、諸衛将軍に任じて旧兵をそのまま統率させ、「随駕五都」と号した。
- また禁兵を派遣して鹿晏弘を討たせ、鹿晏弘は興元を棄てて逃亡した。
曹知慤の誅殺
- 宦官の曹知慤はもとは華原の富家の子で、黄巢が長安を陥れた際には郷里で壮士を集め、嵯峨山南に砦を築いて自衛していた。
- 彼はしばしば兵に賊の装いをさせて夜に長安へ潜入し、賊営を襲わせたため、賊側は鬼神の仕業と疑い、あるいは内通者の存在を疑って動揺した。
- 朝廷はこれを嘉して内常侍に任じ、金紫を賜った。
- その後、車駕還京が近づくと、知慤は「自分の小細工のおかげで諸軍が大功を立てられた」と語り、大散関まで進めば従駕の群臣を選別できるとも言った。
- 行在ではこれを変事の兆しとして恐れ、なかでも田令孜は知慤を憎み、邠寧の王行瑜に密勅して誅殺させた。王行瑜は不意討ちをかけ、知慤の砦を全滅させた。
- 田令孜はますます驕横となり、天子の裁可を妨げ、皇帝はその専横を苦しんで、側近に涙ながらに訴えた。
襄州・許州の動乱
- 鹿晏弘は東に進んで襄州へ向かい、秦宗權は部将の秦誥・趙徳諲を派遣してこれに合流させた。両軍は襄州を攻め落とし、山南東道節度使の劉巨容は成都へ逃れた。
- 趙徳諲は蔡州の人で、鹿晏弘はさらに襄・鄧・均・房・廬・寿などを掠めたのち、再び許州へ戻った。
- 忠武節度使の周岌は鹿晏弘の到来を聞いて鎮を棄てて逃げ、鹿晏弘は許州を占拠して自ら留後と称した。朝廷は討つことができず、そのまま忠武節度使に任じた。
十二月 福建・義昌・均州・鳳翔
- 陳敬瑄は、前年に楊師立の反乱鎮圧のため兼帯していた三川都指揮招討制置安撫等使を辞した。
- かつて黄巢が福建を荒らしたころ、建州の陳巖は数千人を集めて郷里を守り、九龍軍と号した。福建観察使の鄭鎰は彼を団練副使とした。泉州刺史左廂都虞候の李連が罪を犯して溪洞に逃れると、陳巖はこれを破った。鄭鎰は陳巖を恐れて、自らの後任に推挙し、朝廷は陳巖を福建観察使に任じた。陳巖の統治は威厳と恩恵を兼ね、閩人は安堵した。
- 義昌節度使兼中書令の王鐸は、乱世にもかかわらず華美な供奉を整え、魏州を通る際には侍妾や装束も盛大で、あたかも太平の世のようであった。魏博節度使の楽彦禎の子・楽従訓は、漳南の高鶏泊に伏兵を置いて王鐸一行を襲い、王鐸以下三百余人を殺して財物と侍妾を奪った。
- 楽彦禎は盗賊の仕業だと奏上したが、朝廷は問いただせず、邠寧軍に静難の軍号を賜った。
- 余杭鎮使の陳晟は睦州刺史の柳超を追放し、潁州都知兵馬使の王敬蕘も刺史を逐ってそれぞれ州を支配したが、朝廷は追認して刺史に任じた。
- 均州では賊帥の孫喜が数千人を率いて州城を狙った。刺史の吕曄は対処できず、都将の馮行襲が江南に伏兵を置き、小舟で孫喜を迎え、「兵が多すぎて州人が怖れている。江北に兵を置き、腹心だけで入城した方がよい」と説いた。孫喜がこれに従って渡江すると、伏兵が起ち、馮行襲自ら孫喜を斬った。江北の兵も潰走した。
- 朝廷は馮行襲を均州刺史に任じ、州西の長山に拠る群盗を討って、襄鄧から蜀への道を再び開いた。
- 鳳翔節度使の李昌言が病に倒れ、従弟の李昌符に留後を委ねるよう願い出たのち死去し、朝廷は李昌符を鳳翔節度使に任じた。
- 黄巢は滅んだが、秦宗權の暴威はかえって強まり、部将たちが淮南・江南・襄唐鄧・洛陽・孟陝虢・汝鄭など各地を侵略して、屠殺と焼き討ちを繰り返した。食糧輸送もせず、塩漬けにした死体を載せて軍糧とするほど残虐で、その害は黄巢軍以上であった。