資治通鑑唐紀七十一 僖宗惠聖恭定孝皇帝 中和 三年 883年

正月 李克用の進軍と都統更迭

  • 正月、李克用の将である李存貞が沙苑で黄揆を破り、李克用自身もそこへ進軍した。黄揆は黄巣の弟である。
  • 王鐸は承制して李克用を東北面行営都統に、楊復光を東面都統監軍使に、陳景思を北面都統監軍使に任じた。
  • さらに朝廷は、中書令で諸道行営都統だった王鐸を解き、王鐸を義成節度使に移そうとした。これは田令孜が、黄巣討伐の実功を楊復光と李克用側に帰し、北司の勢威を回復させようとしたためである。
  • 副都統の崔安潜は東都留守に、西門思恭は右神策中尉兼諸道租庸・進軍催促使となった。
  • 田令孜は、蜀への行幸を進言し、伝国宝や列聖の真容を確保し、自費で軍を犒うなどしたことを自功として、宰相や藩鎮に賞典を請わせ、自ら十軍兼十二衛観軍容使の大権を得た。

成徳・天平の継承

  • 成徳節度使の王景崇が亡くなり、軍中はその子の王鎔を立てて留後とした。王鎔はまだ十歳だった。
  • 朱瑄は正式に天平節度使となった。

二月 乾阬・梁田陂の大戦

  • 二月、李克用は乾阬に進み、河中・義定・忠武の諸軍と合流した。尚讓らは十五万を率いて梁田陂に陣した。
  • 翌日、昼から夕方まで激戦となり、賊軍は大敗して数万が斬首・捕虜となり、死体は三十里にわたって横たわった。
  • その一方で、黄巣方の王璠・黄揆は華州を襲って占拠し、王遇は逃げた。

諸葛爽、河陽を奪回

  • 以前、光州刺史の李罕之は秦宗権に攻められて州を棄て、諸葛爽のもとに身を寄せていた。爽は彼を懐州刺史にしていた。
  • 韓簡が半年攻めても鄆州を落とせない間に、諸葛爽は河陽を奪回した。
  • 韓簡が引き返して攻めると、李罕之は武陟でこれを迎え撃ち、魏軍を大破した。韓簡軍の大将・楽行達は先に魏州へ帰り、軍中は彼を留後に推した。韓簡は部下に殺された。
  • 朝廷は楽行達を魏博留後とした。

華州包囲と各地の留後

  • 李克用は華州を包囲し、黄思鄴・黄揆が籠城した。
  • 王鎔は成徳留後とされ、鄭紹業は太子賓客の分司に退けられた。
  • 荊南では陳儒が留後とされた。

峡路の敗戦と塩路遮断

  • 峡路では、荘夢蝶が韓秀昇・屈行従に敗れて忠州に退き、胡弘略の応援も振るわなかった。
  • これにより江淮から蜀へ入る貢賦は賊に遮られ、百官の俸給も滞った。また雲安・淯井方面の塩路も通じなくなり、民間で塩が欠乏した。
  • 陳敬瑄は眉州防禦使の高仁厚に三千を与えて討たせ、西川行軍司馬にもした。

黄巣、華州救援を試みる

  • 黄巣はたび重なる敗戦で糧食も尽き、ひそかに逃走を計画した。その一環として三万を派遣し、藍田道を押さえて退路を確保した。
  • 三月、尚讓が華州救援に向かったが、零口で李克用・王重栄軍に敗れた。李克用はさらに渭橋へ進軍した。
  • 李克用は夜ごと薛志勤・康君立らを潜入させ、長安城中の積み荷を焼き、敵を斬って帰らせたため、賊軍は大いに恐れた。

淮南の楊行愍

  • 淮南押牙の楊行愍はもと廬州の牙将で、勇敢で戦功も多かったが、都将に疎まれていた。廬州刺史の郎幼復は高駢に願い出て、自らに代えて彼を立てたため、楊行愍が廬州を預かることになった。朝廷もこれを追認した。
  • 楊行愍は州人の王勗を賢人として招こうとしたが辞退され、代わりにその子の王潜を幕下に置き、また王稔や季章を将として用いた。

呂用之の讒言と高澞の死

  • 呂用之は高駢のもとで神仙術を唱えて権勢を振るい、俞公楚や姚帰礼らはこれを嫌った。姚帰礼は面前でたびたびその罪を数え、手を下そうとまでしていた。
  • 呂用之は逆にこれを恨み、ある夜、党与のいる妓楼に火を放たせた犯人を姚帰礼らの配下に帰し、日夜二人を高駢に讒言した。
  • やがて高駢は俞公楚・姚帰礼に驍雄軍三千を率いて慎県の賊を襲わせたが、呂用之はひそかに楊行愍へ、彼らが廬州を襲うつもりだと告げた。楊行愍は不意をついて二将を襲い、軍を皆殺しにした。高駢は呂用之の策とは知らず、楊行愍に褒賞を与えた。

朱全忠、宣武節度使となる

  • 三月、朱全忠は宣武節度使に任じられ、長安回復後に赴任せよと命じられた。
  • 同月、李克用らは華州を奪回し、黄揆は城を棄てて逃げた。

浙東・浙西の戦い続く

  • 劉漢宏は黄嶺・巌下・貞女の三鎮に兵を分けて置いた。銭鏐は富春から八都兵を率いて討ち、黄嶺を破り、巌下・貞女の将も捕えた。さらに諸暨の劉漢宏本隊も破り、漢宏を敗走させた。

高仁厚、峡路の乱を平定

  • 荘夢蝶の敗残兵は各地で動揺し、慰撫も効かなかったが、高仁厚が会うと一喝しただけで鎮まった。彼は都虞候一人を斬って軍律を正し、土地の長老から地理・要害を詳しく聞いた。
  • その結果、賊の精鋭は舟にあり、寨を守るのは老弱で、食糧も寨に集中していることを見抜いた。そこで表向きは江を渡る構えを見せて賊を川辺に引きつける一方、夜間に別働隊を間道から進めて寨を焼かせた。
  • 糧秣を失ったうえ、舟も鑿で沈められたため、賊は往来も救援もできなくなり、兵は次々に降った。韓秀昇と屈行従も部下に捕えられて高仁厚に引き渡された。
  • 高仁厚が反乱の理由を問うと、韓秀昇は宣宗崩御後、天下に公道がなくなったからだと答えた。高仁厚はこれを聞いても感情的にはならず、まず食事を与えて拘束し、四月、行在所に送って斬った。

四月 長安回復

  • 李克用は龐従・白志遷らとともに先鋒となり、渭南方面で黄巣軍と一日に三度戦ってすべて勝ち、義成・義武などの諸軍も続いて進んだ。
  • 甲辰、李克用らは光泰門から長安へ入った。黄巣は力戦して敗れ、宮室に火を放って遁走した。
  • しかし官軍もまた掠奪をほしいままにし、長安の家屋や住民の残った財物はほとんど失われた。黄巣は藍田から商山へ入り、途中に珍宝を捨てたため、官軍はそれを拾うことに夢中になって追撃を怠り、黄巣は逃げ延びた。
  • 楊復光が捷報を送ると、百官は入朝して賀した。朝廷は忠武など二万の兵を長安守備として残し、王徽と田従異に防衛を委ねた。

五月 論功行賞

  • 朱玫・李克用・東方逵には同平章事が加えられた。
  • 陜州は節度使の治所に昇格し、王重盈がその節度使となった。
  • 延州も保塞軍として独立し、李孝恭が節度使となった。
  • 李克用はこのとき二十八歳で、諸将の中で最も若かったが、黄巣討伐と長安回復の功は第一で、兵勢も最強だった。片目がわずかに不自由だったため、当時の人は「独眼竜」と呼んだ。

黄巣、陳州を攻める

  • 朝廷は、黄巣に宰相として仕え続けた崔璆を、家柄も高く地位も顕著でありながら三年も賊に従った罪で処刑した。
  • 黄巣は驍将の孟楷に一万を率いさせ、蔡州節度使の秦宗権を攻めさせた。宗権は敗れ、その後黄巣に臣従して連兵した。
  • 陳州刺史の趙犨は、黄巣が長安を失えば必ず東へ走り、陳州がその要衝になると見抜いていた。また黄巣はもと忠武軍と仇敵であり、陳州も危ういと考え、早くから城塹を修理し、甲兵と食糧を蓄え、城外六十里以内の民の食糧まで城内に移して守りを固めていた。
  • 孟楷が蔡州を下したのち項城で陳州軍を攻めると、趙犨は初め弱く見せ、敵の油断を誘って逆襲し、ほぼ全軍を殲滅して孟楷を生け捕りにし、斬った。
  • 黄巣はこれに驚いて全軍を溵水に集め、六月、秦宗権軍とあわせて陳州を包囲し、堀を五重にめぐらして百方から攻めた。趙犨は「賊に臣従して生きるより、国に殉じて死ぬ方がましだ」と軍民を励まし、数度にわたり精兵を率いて出撃し、賊を撃破した。
  • 黄巣は城北に宮室と百司の設備まで設けて長期戦の構えをとったが、糧食が尽きると人をさらって食料とし、生きたまま碓や石臼にかけて骨ごと食べたという。人々はその場所を「舂磨寨」と呼んだ。さらに河南・許・汝・唐・鄧・孟・鄭・汴・曹・濮・徐・兗など数十州がその害を受けた。

嶺南の劉謙

  • 上蔡出身の劉謙は、嶺南で小校として頭角を現し、かつて節度使の韋宙がその器量を見込んで兄の娘を嫁がせていた。
  • 劉謙は群盗を討って功を重ね、六月、封州刺史となった。

七月 朱全忠、汴州へ

  • 朱全忠は数百人を率いて任地の汴州に着いた。汴州・宋州一帯は大飢饉のため公私ともに窮乏し、内には驕兵がいて統制しがたく、外では強敵に囲まれ、毎日戦いが続くという苦境だった。
  • それでも朱全忠は意気を失わず、黄巣がまだ平定されていないとして、さらに東北面都招討使も加えられた。

南詔使節、成都へ迫る

  • 南詔は楊奇肱を派遣して公主を迎えに来たが、朝廷は、天子が巡幸中で礼儀も整わないので、京城回復後に降嫁すると伝えた。
  • しかし楊奇肱は退かず、成都まで進んできた。

李克用、河東節度使となる

  • 李克用は長安から雁門へ帰還し、その後、正式に河東節度使に任じられた。鄭従讜は行在所に召された。
  • 李克用は東道から榆次を経て雁門へ向かい、父の李国昌を見舞ったのち、河東の軍民に対し、旧怨を捨て家業に安んじよと掲示した。

楊復光の死と田令孜の専権

  • 左驍衛上将軍の楊復光が河中で死んだ。忠義を好み、士卒をよく撫した人物だったので、軍中は数日間にわたって慟哭した。
  • 八都将の鹿晏弘らは、復光の死後それぞれ軍勢を率いて散り去った。
  • 田令孜はもとから楊復光を恐れていたため、その死を喜び、復光の兄で枢密使の楊復恭を飛龍使に左遷した。楊復恭はたびたび田令孜と政治を争っていたので、田令孜は彼を憎んでいた。楊復恭は病を称して藍田に引いた。

各地の節度使任命

  • 王鎔・楽行達・朱瑄はそれぞれ成徳・魏博・天平の正式な節度使となった。

宰相鄭畋の罷免

  • 宰相の鄭畋は、都を失って避難中であっても法度を守り続けた。だが田令孜の判官である呉円が郎官の任命を求めたのを許さず、また陳敬瑄が宰相の上席に立とうとしたのにも、節度使が宰相号を帯びていても真の宰相の下座であるのが旧例だとして強く争った。
  • そこで田令孜と陳敬瑄は、鳳翔節度使の李昌言に、鄭畋が扈従して北へ戻ることは軍情を不安にすると上言させた。鄭畋もたびたび辞表を出していたため、ついに宰相を罷めて太子太保とし、子の鄭凝績を彭州刺史にしてその養老にあたらせた。
  • 裴澈が新たに宰相となった。

八月 李克用、晋陽へ

  • 八月、李克用は晋陽に到着した。ここが以後、彼の天下争奪の根拠地となる。
  • 李国昌は代北節度使として代州に鎮し、湖南は欽化軍に昇格し、閔勗が節度使となった。

九月 陳敬瑄・時溥・陳儒

  • 陳敬瑄は中書令を兼ね、潁川郡王に進んだ。
  • 時溥は溵水に営していたため、東面兵馬都統となった。
  • 陳儒は荊南節度使となった。

十月 李克用、潞州を奪う

  • 孟方立は、潞州が地険しく人も強く、これまでたびたび主帥を逐ってきたことから、その力を削ぐため軍府を邢州へ移し、富家や将家も山東へ移していた。このため潞州の人々は大いに不満だった。
  • 監軍の祁審誨はこの不安を利用して、武郷鎮使の安居受に蠟丸の密書を持たせ、李克用に援軍を求め、軍府を潞州へ戻してほしいと訴えた。
  • 李克用はまず賀公雅らを派遣したが孟方立に敗れ、改めて李克修を送って攻めさせた。十月、潞州を取り、刺史の李殷鋭を殺した。
  • 以後、李克用は毎年のように兵を出して邢・洺・磁三州を争い、その住民の半ばは捕虜や戦死者となり、田畑も荒れた。

安化公主の降嫁

  • 宗室の娘を安化長公主として南詔王に嫁がせた。

劉漢宏、大敗する

  • 劉漢宏は十余万を率いて西陵から董昌を攻めようとした。
  • 銭鏐は江を渡って迎撃し、大勝した。劉漢宏は身分を隠すため、鱠刀を持って料理人のように装い逃げた。翌日あらためて残兵四万を集めて戦ったが、また敗れ、弟の劉漢容と将の辛約が斬られた。

十一月 秦宗権、許州を囲む

  • 秦宗権が許州を包囲した。
  • 忠武の大将で楊復光配下だった鹿晏弘は、河中から南へ向かい、襄州・鄧州・金州・洋州を掠めながら進み、興元へ至った。通過地では殺戮と破壊が著しかった。
  • 十二月、彼は興元節度使の牛勗を追い出し、自ら留後を称した。牛勗は龍州西山へ逃れた。

李凝古冤殺と蕭遘

  • 感化節度使の時溥は食中毒に遭い、判官の李凝古が毒を盛ったと疑って殺した。凝古の父・李損は成都にいたが、時溥は父子共謀だと奏上した。
  • 田令孜は時溥から賄賂を受け、御史台に李損を取り調べさせようとした。侍御史の王華は冤罪を主張して引き渡しを拒んだが、田令孜は偽詔で神策軍の獄へ移そうとした。
  • 宰相の蕭遘は、李損はすでに子と何年も離れて音信もないのに共謀と断ずるのは無理だ、もし功臣の横暴に屈して天子の侍臣を殺させれば朝廷は立たないと強く諫めた。そのため李損は死を免れた。
  • 当時、田令孜の専権に対して正面から争える者は少なく、蕭遘はその数少ない一人だった。

年末の人事と陳州救援

  • 浙東は義勝軍に昇格し、劉漢宏が節度使となった。
  • 趙犨は間道から近隣諸道へ救援を求め、周岌・時溥・朱全忠らが兵を引いて陳州を助けた。
  • 朱全忠は鹿邑で黄巣方と戦って二千余級を斬り、そのまま亳州に入ってこれを押さえた。