資治通鑑唐紀七十一 僖宗惠聖恭定孝皇帝 中和 二年 882年
五月 朝廷の人事と江西・湖南の情勢
- 朝廷は湖南観察使の閔勗に、鎮南節度使の職を仮に兼ねさせた。これは本来洪州を本拠とする節度使職であり、潭州にいる閔勗に与えたのは、江西で勢力を張る鍾伝と争わせ、両者を相打ちにさせようという意図によるものだった。
- 閔勗は以前から湖南に節度使号を立てることを求めていたが、朝廷は他道の観察使も同様の要求をするのを恐れて認めていなかった。
- 鍾伝は高安の人で、もとは王仙芝の乱に際して蛮・獠を集めて山中に砦を築いた人物である。王仙芝が撫州を落としたのち守れなかったため、鍾伝がそこに入り刺史となり、さらに江西観察使の高茂卿を追って洪州を占拠していた。朝廷は閔勗がもと江西の牙将であったため、鎮南軍を復活させてこれを領させ、もし鍾伝が交代に応じなければそのまま討たせるつもりだった。
- しかし閔勗は、朝廷が自分と鍾伝を争わせて共倒れを狙っていると見抜き、赴任を辞退した。
高駢の失勢と不遜な上表
- 淮南節度使の高駢は、侍中を兼ねる栄誉を加えられた一方で、塩鉄転運使を解かれた。すでに兵権を失っていたうえに財利まで奪われたため、激怒した。
- 高駢は幕僚の顧雲に命じて自己弁護の上表を書かせ、朝廷の用兵や人事を厳しく罵り、王鐸・崔安潜らを無能とし、朝廷には奸臣が満ち、天子は亡国の君になろうとしているとまで言い放った。また、黄巣を捕えられなかった現状を挙げて、自分を用いないのが誤りだと主張した。
- これに対し、僖宗は鄭畋に詔を書かせて高駢を厳しく責めた。朝廷は、高駢が塩利も軍権も握り、官位も十分に与えられていたのに黄巣を討てなかったこと、むしろ長安陥落の大難に何ら有効な救援をしなかったことを指摘した。さらに、宗廟や陵墓が破壊された責任を他人に転嫁するのは筋違いであり、君臣の礼を失っていると断じた。
- この上表事件によって、高駢は臣下としての節義を失い、以後は朝廷への貢賦も絶えた。
各地の任命と軍事
- 天平では、曹全晸の死後に軍中の推戴を受けていた曹存実が正式に節度使となった。
- 黄巣が興平を攻めたため、興平にいた諸軍は奉天へ退いた。
- 河陽節度使の諸葛爽には同平章事が加えられた。
- 六月、涇原留後の張鈞が節度使となった。
六月 荊南で段彦謨が殺される
- 荊南節度使の段彦謨は、監軍の朱敬玫と不仲であった。朱敬玫は別に壮士三千を選んで忠勇軍と名づけ、自らこれを率いた。
- 段彦謨が朱敬玫を殺そうと図ると、朱敬玫は先手を打って兵を率い、段彦謨を攻め殺した。
- その後、少尹の李燧が留後とされた。
西川で阡能の乱が拡大
- 蜀では、羅渾擎・句胡僧・羅夫子らがそれぞれ数千の兵を集め、阡能に呼応した。
- 楊行遷ら官軍はたびたび彼らと戦ったが敗れ、増兵を求めた。陳敬瑄は倉庫や官府の守衛に至るまでかき集めて兵を補った。
- 乾谿での大戦でも官軍は大敗した。楊行遷らは戦功がないまま帰れば罪に問われるのを恐れ、村民を乱暴に捕えて俘虜に見せかけて府に送り、陳敬瑄は事情も確かめず次々に斬った。老人や女まで混じっており、無実の民が多く殺された。
七月 鍾伝の任命と江西の再編
- 七月、鍾伝は江西観察使に任じられた。これは高駢の請いによるものだった。
- 鍾伝が撫州を去ると、南城の危全諷が再びこれを占拠し、さらに弟の危仔倡に信州を取らせた。
各地の動揺
- 尚讓が宜君寨を攻めたが、大雪のため賊軍に凍死者が多く出た。
- 蜀人の韓求も数千人を集め、阡能に応じた。
- 鎮海節度使の周宝は、高駢が承制によって賊将の孫端を宣歙観察使に任じたことを奏上した。これに対し朝廷は、周宝と宣歙観察使の裴虔餘に出兵して孫端を防がせた。
- 南詔は、約束されていた公主の降嫁を早めるよう上書してきたが、朝廷はまず礼制を協議中だと返答した。
- 保大留後の東方逵は節度使となり、京城東面行営招討使も兼ねた。
- 閏月、魏博節度使の韓簡は侍中を兼ねた。
- 八月、鄭紹業が宰相となり、あわせて荊南節度使となった。
浙東・浙西の争い
- 浙東観察使の劉漢宏は、弟の劉漢宥と馬歩都虞候の辛約に二万の兵を与え、西陵に駐屯させて浙西併呑を図った。
- 杭州刺史の董昌は都知兵馬使の銭鏐を派遣して迎撃させた。銭鏐は霧に乗じて夜に江を渡り、敵営を急襲して大勝し、劉漢宥・辛約を敗走させた。
魏博の韓簡、河陽・鄆州を侵す
- 韓簡は勢力拡大を狙い、自ら三万の兵を率いて河陽を攻め、修武で諸葛爽を破った。爽は城を捨てて逃げ、韓簡は兵を留めて守らせたのち、邢州・洺州を掠めて帰還した。
- その後、李国昌は達靼から一族を率いて代州へ移った。
九月 朱温の帰順
- 黄巣が任じた同州防禦使の朱温は、河中防衛のため増兵を求め続けたが、右軍事の孟楷に抑えられて聞き入れられなかった。朱温は黄巣軍の勢いが日ごとに衰えるのを見て、滅亡は近いと判断した。
- 側近の胡真・謝瞳に勧められ、朱温は監軍の厳実を殺し、州を挙げて王重栄に降った。朱温は王重栄を母方同姓の縁で「舅」として遇した。
- 王鐸は承制して朱温を同華節度使に任じ、謝瞳に表を持たせて行在所へ行かせた。
- 一方、李詳も王重栄が朱温を厚遇するのを見て帰順しようとしたが、監軍に密告され、黄巣に殺された。華州はその弟の李思鄴が継いだ。
桂州・青州・嵐州の変動
- 桂州では軍が乱を起こして節度使の張従訓を追い、前容管経略使の崔焯が嶺南西道節度使となった。
- 平盧では大将の王敬武が節度使の安師儒を追放し、自ら留後となった。
- もと龐勛の降将で嵐州刺史だった湯群は、沙陀と内通していると疑われ、懐州刺史へ転じる辞令を受けたが、十月朔日、使者を殺して嵐州に拠り、沙陀に付いた。
- 河東節度使の鄭従讜は張彦球に討たせた。
十月 峡路でも反乱
- 韓秀昇・屈行従らが峡江の交通路で蜂起し、荊州と蜀を結ぶ道を遮断した。これにより使者や命令、物資の往来が妨げられた。
- 陳敬瑄は押牙の荘夢蝶に二千を与えて討たせ、さらに胡弘略にも千人を率いさせて続かせた。
韓簡、天平を攻める
- 韓簡は再び兵を動かして鄆州を攻め、曹存実は迎え撃って戦死した。
- 天平都将の朱瑄が残兵を集めて城を守り、韓簡の攻撃をしのいだ。朝廷は朱瑄を天平留後とした。
- 同時に朱温は右金吾大将軍・河中行営招討副使となり、名を「全忠」と賜った。
李克用への対応
- 李克用は何度も降伏を願い出ていたが、なお忻州・代州を拠点とし、并州・汾州を侵し、楼煩監を争っていた。
- 朝廷は義武節度使の王処存に命じ、李克用へ誠意ある帰附ならひとまず朔州へ戻って命令を待て、なお暴横なら河東・大同とともに討つと伝えさせた。王処存は李家と姻戚関係があった。
平盧への説得
- 王敬武は正式に平盧留後とされた。
- この頃、諸道の兵は多く関中に集まり黄巣討伐に向かっていたが、平盧だけは応じていなかった。王鐸は張濬を派遣して王敬武を説得させた。
- 張濬は、黄巣はもとは塩の密売人にすぎず、これに従って天子に背くのは利も義もないと説いた。いま天下の勤王軍が京畿に集まるなか、淄青だけが来なければ、賊平定後に顔向けできないと諭した。
- 将士は心を動かされ、王敬武もついに兵を出して張濬に従い西へ向かった。
銭鏐、再び劉漢宏軍を破る
- 劉漢宏はさらに王鎮に七万を率いさせ西陵に駐屯させた。
- 銭鏐は再度江を渡って襲撃し、大勝して多数を斬り、劉漢宏が諸将に与えた偽の官職任命文書二百余通を押収した。王鎮は諸暨へ逃げた。
楊復光の献策と李克用召還
- 王重栄は黄巣の軍勢を恐れ、行営都監の楊復光に対策を問うた。楊復光は、雁門の李克用は勇猛で強兵を持ち、自分の先人とも旧交があり、国に尽くす志もあるが、河東との対立ゆえ来られないだけだと述べた。朝旨で鄭従讜に命じて召せば必ず来ると進言した。
- 東面慰使王徽も賛成し、王鐸は墨勅で李克用を召した。鄭従讜にもこれを伝えた。
- 十一月、李克用は沙陀軍一万七千を率いて嵐州・石州の道から河中へ向かった。太原の領内に深入りするのを避け、数百騎だけで晋陽城下を通って鄭従讜と別れた。鄭従讜は名馬や財貨を贈った。
華州の帰順と西川の転機
- 華州では、李詳の旧兵が黄思鄴を追い、華陰鎮使の王遇を主として王重栄に降った。王鐸は承制して王遇を刺史とした。
- 阡能の勢力はますます強まり、蜀州境にまで侵入した。陳敬瑄は、久しく功のない楊行遷らに代えて押牙の高仁厚を都招討指揮使とし、わずか五百兵で向かわせた。
高仁厚、阡能の党を次々に帰順させる
- 出発前日、高仁厚は軍営を何度も出入りする麺売りを怪しんで捕らえたところ、阡能の間者だった。高仁厚はこれを殺さず、むしろ家族を救うと約して返し、自分は五百しか率いていないこと、百姓は脅されて従っているだけだから投降すれば旧業に復せること、討つ相手は阡能ら首魁五人だけだと賊中へ伝えさせた。
- 高仁厚が双流に着くと、既存の防柵の厳重さを見て、官軍がこれを口実に寇を養い功を求めていたのだと怒り、責任者を斬ろうとした。さらに余分な防柵を撤去し、兵を集約した。
- 阡能は羅渾擎に五寨を築かせ、さらに伏兵を置いて待ち伏せたが、高仁厚は情勢を見抜き、包囲したうえで投降を勧めた。百姓らは歓声を上げて甲兵を捨て、次々に降った。羅渾擎は逃げたがその配下に捕えられた。
- 高仁厚は降兵の背に「帰順」の字を書いて前方の寨に送り込み、穿口・新津・延貢へと同じ方法で降伏を広げた。句胡僧は配下に石を投げられて捕えられ、韓求は深い壕に身を投げて死に、羅夫子も追い詰められて自刎した。
- 最後に阡能の本寨でも群衆が争って出降し、阡能は井に飛び込んだところを捕えられた。わずか六日で五人の首領はすべて平定され、多くの脅従者は赦された。
- 高仁厚は各地に鎮遏使を補して戸口の安定に当たらせた。陳敬瑄は韓求・羅夫子の首を市で晒し、阡能・羅渾擎を釘付けにして七日後に肢解した。
- 阡能の参謀で進士くずれの張栄も捕らえられ、檄文を作った罪で処刑されたが、その他の者はほとんど殺されなかった。
十二月 高仁厚の任官と陳敬瑄の処置
- 高仁厚は眉州防禦使に任じられた。
- 陳敬瑄は、阡能らの親党を問わないと掲示した。ところが間もなく卭州刺史が、阡能の叔父・行全の一家三十五人を捕え、反逆者の親族として処刑しようとした。
- 孔目官の唐溪は、すでに不問を公示している以上、今さら殺せば信義を失い、残党再蜂起の口実になると諫めた。陳敬瑄はこれに従い、押牙の牛暈を派遣して州門で鎖を解かせて釈放した。調べると、刺史が行全の良田を買い取れず恨んでいたための讒告だった。
- のちに行全は感謝のしるしとして唐溪に金百両を贈ったが、唐溪は「これは太師の仁政であり、自分の手柄ではない」と怒って返した。
河東・荊南・北方の任命
- 鄭従讜は嵐州を奪回し、湯群を捕えて斬ったと奏した。
- 李克用は忻・代等州留後から雁門節度使となった。
- 鄭紹業は荊南節度使に任じられていたが、段彦謨や朱敬玫を恐れて赴任できず、結局陳儒が軍中で府事を預かる形となった。
- 奉天節度使の斉克倹、河中節度使の王重栄にはともに同平章事が加えられた。
- 李克用は四万を率いて河中に到着し、従父弟の李克修に五百を率いさせて先に河を渡らせた。
黄巣、李克用に和を求める
- 李克用の弟の克譲は、以前に南山寺の僧に殺されていた。そのため黄巣は、李克用軍の到来を恐れると、克譲を害した僧十余人を捕えて使者に持たせ、重い賄賂と偽の詔書を添えて和睦を求めた。
- 李克用はその僧たちを殺して克譲を弔い、賄賂は諸将に分けたものの、詔書は焼き捨て、使者を送り返した。
- その後、李克用は夏陽から河を渡って同州に駐屯した。
昭義軍の混乱
- 孟方立は成麟を殺したあと邢州へ兵を引き、潞州の人々は監軍の呉全勗に留後を頼んだ。王鐸は墨制で孟方立に邢州の事を知させたが、孟方立は受けず、呉全勗を閉じ込めたうえで、潞州には文官を任じてほしいと願った。
- 王鐸は鄭昌図を昭義軍事にあて、ついで朝廷は王徽を昭義節度使にしようとしたが、車駕は西にあり、中原は乱れ、孟方立は邢・洺・磁三州を専拠していたため、王徽は朝廷の力では制しえないとして赴任を辞退した。
- 鄭昌図は潞州に着いたが三か月もしないうちに去り、孟方立はついに昭義軍の本拠を邢州へ移し、自ら留後を称し、将の李殷鋭を潞州刺史とした。
和州の秦彦、宣州を奪う
- 和州刺史の秦彦は、子に数千の兵を率いさせて宣州を急襲し、観察使の竇潏を追放してこれに取って代わった。