資治通鑑唐紀七十 僖宗 中和 二年 一年 882年
正月:王鐸、天下都統となる
- 正月辛亥、王鐸は中書令を兼ね、諸道行営都都統に任じられた。義成節度使は兵が解ければ戻る前提で、当面は節度の職を保ったまま総司令となった。
- 高駢は塩鉄転運使だけを領し、都統その他の軍権を失った。王鐸には将佐を自由に選ぶ権限が与えられた。
- 崔安潜が副都統となり、周岌・王重榮が左右司馬、諸葛爽・康実が左右先鋒使、時溥が租税・綱運催促と防遏の担当となった。
- 西門思恭が諸道行営都都監に、王處存・李孝昌・拓跋思恭が京城東北西面都統に、楊復光が南面行営都監使に任じられた。
- 鄭昌図・鄭畯・王摶・裴贄ら文官も王鐸の幕府へ配された。
- さらに陜虢観察使の王重盈が東面都供軍使となった。王重盈は王重榮の兄である。
朱温、同州を得る
- 黄巢は朱温を同州刺史に任じ、自力で同州を奪えと命じた。
- 二月、同州刺史の米誠は河中へ逃れ、朱温はそのまま同州を手中に収めた。これは後に彼が唐へ帰順する地盤ともなった。
鄭畋再起・王鐸の権限強化
- 己卯、鄭畋が再び司空・同平章事に任じられ、行在所へ召されて軍務を一切諮問されることになった。
- 王鐸には戸部判事も兼ねさせ、軍政と財政の統合を図った。
河中の戦い
各方面の配置替え
- 李昌言が京城西面都統、朱玫が河南都統に任じられた。ここでいう河南は関東全域ではなく、龍門河東から蒲津にかけての黄河南岸方面を指すとみられる。
- 涇原節度使の胡公素が軍中で死去すると、その軍は王鐸へ命令を仰いだ。王鐸は大将の張鈞を留後とした。
李克用、蔚州を侵す
- 李克用は蔚州へ侵攻した。
- 三月、振武節度使の契苾璋は、天徳・大同と協力して李克用を討つと奏上し、朝廷は鄭從讜に連携して対処するよう命じた。
西川での酷政と盗賊の拡大
- 陳敬瑄は各県・鎮へ多数の使者を出して事情を探らせ、「尋事人」と呼ばせていたが、彼らは行く先々で種々の物を強要した。
- 資陽鎮では、二人の尋事人が何も要求しなかったため、鎮将の謝弘讓はかえって自分に罪があるのではと疑い、夜のうちに逃げて盗賊の中へ入ってしまった。
- のちに実は無罪だとわかり、捕盗使の楊遷が降伏を誘って拘束し、討伐捕獲の手柄と称して節度使府へ送ったが、陳敬瑄は事情を調べもせず、謝弘讓を杖打ちしたうえ城壁に釘で打ちつけ、二七日ものあいだ熱油を浴びせ、傷口を膠麻で引き裂くという苛酷な刑を加えた。見る者はみな冤罪だと感じた。
- また邛州の牙官である阡能も、公務で期日に遅れたため杖罰を恐れて逃亡し、盗賊となった。楊遷が再び降伏を勧めたが、阡能は謝弘讓の冤罪を知って楊遷を罵り、怒って本格的に叛いた。
- 彼は良民を駆り立て、従わぬ者は一家皆殺しにし、一か月ほどで一万人に膨れ上がり、部伍や官職まで整えて邛・雅二州の間を横行した。以前は蜀中に盗賊は少なかったが、以後は続々と群盗が起こるようになった。
- 陳敬瑄は牙将の楊行遷・胡洪略・莫匡時らに兵を与えて討たせた。
- あわせて齊克儉を左右神策内外八鎮兼博野奉天節度使にし、鄜坊軍には保大軍の号が与えられた。
四月:陳敬瑄に侍中加授
高駢と呂用之
- 赫連鐸・李可挙が李克用と戦って不利になったころ、淮南では高駢がますます神仙方術に傾倒していた。
- 方士の呂用之は妖党に連座して逃亡し、高駢のもとへ来た。高駢は厚遇し軍職を与えた。呂用之は鄱陽の茶商の子で、広陵の人情や政事の利害に詳しかったため、高駢は次第に珍重した。
- 高駢に重用されていた旧将の梁纉・陳珙・馮綬・董瑾・俞公楚・姚帰礼らは、呂用之の策で次第に遠ざけられ、兵権を奪われたり、家を滅ぼされたりした。
- 呂用之は仲間の張守一・諸葛殷も引き入れた。張守一は滄景の村民、諸葛殷は鄱陽から来た者で、高駢にそれぞれ神仙や天上界の存在に見せかけて近づいた。
- 諸葛殷は病で膿血にまみれていたが、高駢は神仙が人を試しているのだとして気にせず同席し、犬がその臭いに寄ってくると、殷は天上で昔会った犬だからだと笑って見せた。
- また呂用之は、鄭畋が刺客を放ったと高駢を脅し、張守一が術でこれを防ぐと称して、高駢に女装して別室に隠れさせ、自ら寝台に入って銅器や獣血で格闘の痕跡を演出した。翌朝、張守一は危うく刺客の手に落ちるところだったと告げ、高駢は涙して感謝した。
- こうして呂用之らは金宝を受け、塩城監などの要地人事にまで介入した。ある人物の任官についても、井中にある宝剣を取るために必要だと称して高駢を説き伏せた。
- 呂用之は自分を磻溪真君、張守一を赤松子、諸葛殷を葛将軍、蕭勝を秦穆公の婿だと称し、青石に怪字を刻んで玉皇の授命文書に見せかけるなど、次々と神仙話を作り上げた。
- 高駢は道院に木製の鶴を置いて自ら羽衣を着てまたがり、日夜、斎醮・錬金・焼丹に巨万の費用を投じた。
- 呂用之はかつて江陽の后土廟に寄食していた縁から、その廟の再建も大規模に行わせたうえ、軍事の大事のたびに供犠をさせた。
- さらに高楼の迎仙楼、延和閣などを造らせ、空に向かって風雨を叱咤したり、神仙が雲中を通ると高駢に拝ませたりした。高駢の左右には多額の賄賂が配られ、共同で彼を欺いた。
- 呂用之は反対者を次々に陥れて殺し、高駢は気づかなかった。政事は呂用之に握られ、善良な者は退けられ、賞罰は乱れ、淮南の政道は大きく壊れた。
巡察使と左右莫邪都
- 呂用之は上下の怨みが自分に向いているのを恐れ、巡察使の設置を請うた。高駢はこれを許し、凶険な人物百余人を募って町々を徘徊させた。人々はこれを「察子」と呼んだ。
- 彼らは民間の家庭内のことまで探り、呂用之が財物や婦女を奪いたい相手には、叛逆の罪をでっち上げて拷問し、服罪させ、殺して奪った。滅ぼされた家は数百にのぼった。
- さらに呂用之は、諸将を兵力で抑えるため、諸軍の勇士二万人を左右莫邪都として編成させ、張守一と呂用之が左右の軍使になった。器械・服装を整え、出入りの従者は千人近く、呂用之の侍妾も百余人に達した。
- 公私の用度が足りなくなると、三司の綱運を途中で家へ回させることさえあった。
- それでもなお秘密漏洩を恐れた呂用之は、神仙は俗累を絶たねば来ないと高駢に説き、高駢は姫妾を去らせ、人事を絶って賓客や将吏ともほとんど会わなくなった。
- やむなく面会する者も、まず沐浴・斎戒を命じられた。こうして呂用之は威福を専らにし、境内では誰も高駢本人の存在を意識しないほどになった。
関中の戦況
- 王鐸は両川・興元の軍を率いて霊感寺に屯した。
- 涇原軍は京西、易定・河中は渭北、邠寧・鳳翔は興平、保大・定難は渭橋、忠武は武功に屯し、官軍は四方から長安を圧迫した。
- 黄巢の勢力はしだいに窮し、号令が実際に届くのは同州・華州の外には及ばなくなった。
- 民衆は戦乱を避けて深山に入り、柵を築いて自衛したため農業は荒廃し、長安では米一斗が三十緡にも高騰した。賊は人を官軍へ売って食糧にし、官軍もまた山寨の民を捕えて売ることがあり、値段は体格によって数百緡で決まった。