資治通鑑唐紀六十九 僖宗 乾符五年 五年 878年
正月・荆南陥落
- 正月朔日、大雪の中で楊知温は賀礼を受けていたが、王仙芝軍はすでに江陵城下へ迫っていた。外城は陥落し、将佐たちは子城に立てこもった。
- 楊知温はようやく城内を巡ったが、甲冑も着けず、兵が戦っている最中にも詩を作って幕僚に見せる有様だった。
- 山南東道節度使李福は全軍を率いて救援に向かい、襄陽にいた沙陀兵五百も従った。荆門で賊と戦い、沙陀騎兵の突撃でこれを破ると、王仙芝は江陵を焼き掠めて去った。城下の三十万戸のうち三、四割が失われた。
正月・曾元裕が王仙芝を大破
- 壬寅、招討副使曾元裕は申州東で王仙芝を大破し、一万人を殺し、また一万人を降して解散させた。
- 朝廷は長く病んでいた宋威を罷免して平盧へ帰し、曾元裕を招討使、張自勉を副使に任じた。
- また、西川節度使高駢を荆南節度使兼塩鉄転運使とした。
正月~二月・沙陀の叛乱拡大
- 振武節度使李国昌の子李克用は蔚州守備にあった。河南で盗賊が蜂起する中、雲州の沙陀兵馬使李尽忠や康君立・薛志勤・程懐信・李存璋らは、李国昌父子の威望を利用して代北を掌握しようと相談した。
- 大同防禦使段文楚は連年の飢饉と輸送難の中で兵糧・衣服を削減し、法令も厳しかったため、兵の怨みを買っていた。李尽忠は康君立を蔚州へ送り、李克用に決起を勧めた。李克用は本来、父の指示を仰ごうとしたが、機を失えば破綻すると説かれ、これに応じた。
- 李尽忠は夜に牙城を襲って段文楚と判官柳漢璋らを捕え、軍政を掌握し、李克用を招いた。
- 二月、李克用は兵を集めて雲州に至り、李尽忠は符印を送って留後となるよう請い、さらに段文楚らを鬥雞臺で引き渡した。李克用は彼らを兵士に食わせ、遺骸を踏みつけさせて入城し、府に入って事務を執った。
- 胡注は、この反乱の年代について諸書の異同を詳しく比較し、唐末見聞録の記述に従ってこの年の事とする。
朝廷の懐柔と李国昌父子の拒命
- 将士は李克用に正式任命を求めて上表したが、朝廷は認めなかった。
- 李国昌は、正式な大同防禦使を急いで任命するよう上奏し、もし李克用が命に従わなければ自ら討つとまで述べた。朝廷はこれを受け、支詳を宣慰使とし、李国昌に李克用をなだめさせつつ、盧簡方を大同防禦使に任じた。
- しかし李国昌父子は大同・振武の両鎮を父子で分有したいと望んでおり、朝命を受け入れるつもりはなかった。
二月・楊知温左遷と王仙芝の最期
- 王仙芝に江陵を脅かされた責任で、楊知温は郴州司馬に左遷された。
- 曾元裕は黄梅で王仙芝をさらに破り、五万余を殺し、追撃の末に王仙芝を斬って首を献じた。
- 王仙芝の残党は四散し、尚讓はその兵を率いて、まだ亳州を攻めていた黄巢のもとへ合流した。
- その後、諸賊は黄巢を主と推して「衝天大将軍」と号させ、王覇と改元し、官属を置いた。胡注は、黄巢が会稽で建元したとする説などを退け、この時点での建元とみる。
黄巢の降伏申し入れ
- 黄巢は沂州・濮州を襲ったのち、たびたび官軍に敗れたため、天平節度使張裼に書を送り、朝廷への取り次ぎを求めた。
- 朝廷は黄巢を右衛将軍に任じ、鄆州に赴いて武装解除するよう命じたが、黄巢はついに応じなかった。
- 李福には荆南救援の功で同平章事を加えた。
三月・黄巢の河南侵攻と東都防衛
- 群盗が朗州・岳州を落とした。
- 曾元裕は荆襄方面に駐屯し、黄巢は滑州から宋州・汴州へ掠めた。これに対し副使張自勉を東南面行営招討使にした。
- 黄巢は衛南から葉県・陽翟へ向かい、朝廷は河陽・宣武・昭義の兵三千で東都を守らせ、劉景仁に東都応援防遏使を兼ねさせて、さらに現地徴募を認めた。
- また、曾元裕には東都への急還を命じ、義成兵三千を轘轅・伊闕・河陰・武牢の要地に置いた。
江西・湖南の混乱
- 王仙芝の残党王重隠は洪州を落とし、江西観察使高湘を湖口へ逃がした。
- 賊はさらに湖南を荒らし、別将曹師雄は宣州・潤州を掠めた。朝廷は曾元裕と楊復光に宣・潤救援を命じた。
- 湖南では軍が乱れ、都将高傑が観察使崔瑾を追放した。崔瑾は崔郾の子である。
- 黄巢は長江を渡って虔州・吉州・饒州・信州などを攻略した。
四月・大同人事と財政窮乏
- 朝廷は、李克用が父の李国昌には逆らえまいと見込み、盧簡方を振武節度使、李国昌を大同節度使に任じた。胡注は、この人事の実際や発令時期について諸書を比較し、父子ともに受命しなかったため結局実現しなかったとみる。
- 東都では軍糧が不足し、商人や富民から金穀を借り上げ、相応の寄進者には空名の御史官告を与える措置を取った。
- 連年の旱魃・蝗害・盗賊で農桑は衰え、租税は入らず、内蔵も空で、国家財政は行き詰まっていた。
- 判度支の楊厳は、自分の才能では処理しきれないと三度辞意を述べたが許されなかった。胡注は、こうした官職が本来なら望まれるはずなのに、辞しても免れないこと自体が世の乱れを示すという。
浙西・江西の戦い
- 曹師雄が湖州へ侵入したが、裴璩が撃退した。
- 王重隠は死んだが、その将徐唐莒が洪州を保った。
- 饒州の将彭幼璋は義勇兵を合わせて饒州を回復した。
南詔使節と和親論争
- 南詔は酋望趙宗政を遣わして和親を求めたが、正式な表ではなく督爽の牒文を中書に送り、唐に臣従せず「弟」として遇してほしいと言った。
- 朝廷の議論では、礼部侍郎崔澹らが、これは驕慢で無礼であり、高駢が一僧の言を信じて低姿勢で使者を誘致したのは不見識だと論じた。高駢はこれに反論したが、朝廷は双方をなだめるに留めた。
五月・鄭畋と盧攜の罷免
- 五月、鄭畋と盧攜は南詔との和親をめぐって激しく争い、盧攜は怒って席を立ち、そのはずみで硯を落として割った。
- 皇帝は大臣同士が面前で争うのを非難し、翌日、二人とも太子賓客分司とした。
- 胡注は、黄巢への節度使授与問題での対立とする諸書もあるが、この年五月の南詔問題による罷免とみるのが妥当だと整理している。
- 代わって豆盧瑑と崔沆がともに同平章事となった。
- なお、ある宰相が施し好きで布袋に銭を入れて持ち歩き乞食に配っていたのに対し、朝士が、小恵ではなく賢者登用と政務刷新こそ急務だと書で諫め、宰相は激怒した。
五月・南詔への再使節と李国昌父子の反抗
- 杜弘は前年に南詔へ送った段瑳宝を伴って一年余りの後に帰還した。
- 辛讜は改めて賈宏・左瑜・曹朗らを南詔へ派遣した。
- 李国昌は大同の制書を破り、監軍を殺して交代を拒否し、李克用と兵を合わせて遮虜軍を落とし、寧武軍・岢嵐軍を攻撃した。
- 盧簡方は振武赴任の途上、嵐州で死んだ。
- 河東節度使竇澣は晋陽に壕を掘らせ、康伝圭を代州刺史にし、また太原・晋陽の土団千人を代州へ送ろうとしたが、兵は城北で止まって進まず、優賞を要求した。慰諭に赴いた鄧虔は殺され、竇澣は自ら出て宥め、銭と布を与えてようやく静めた。
- 田公鍔が賞与を配ると兵は彼を都将として代州へ引き立て、竇澣は商人から五万緡を借りて軍費に充てた。胡注はこの経過を『唐末見聞録』と実録の比較で補っている。
- 朝廷は竇澣を無能と見て、六月以前に昭義節度使曹翔へ河東を移させた。
六月~八月・高駢の移鎮と沙陀戦線
- 王仙芝残党が浙西を荒らしていたため、朝廷は、かつて天平で威名のあった高駢なら鄆州系の賊に効果があると見て、荆南から鎮海へ移した。
- 沙陀は唐林・崞県を焼いて忻州に入り込んだ。
- 七月、曹翔は晋陽に着くと、鄧虔殺害に関わった土団兵十三人を斬って軍紀を示した。さらに義武兵が晋陽で甲を解かず騒いで優賞を求めると、その十将一人を斬って静めた。
- 義成・忠武・昭義・河陽の兵を晋陽に集めて沙陀に備えた。
- 八月、曹翔は忻州救援に向かう一方、沙陀は岢嵐軍の外郭を落とし、洪谷で官軍を破った。晋陽では城門を閉ざして守勢に回った。
黄巢の江南転戦
- 黄巢は宣州を攻め、宣歙観察使王凝を南陵で破った。
- 宣州は落とせなかったので、今度は浙東へ向かい、山路七百里を切り開いて福建諸州へ侵攻した。
九月・宋威の死と朝廷人事
- 平盧軍から宋威の死が奏上された。胡注は、老病死は当然であり、賊を弄んで国家に報いなかった者の戒めとして史書に記されたのだと評する。
- 朝廷は曾元裕に平盧節度使を兼ねさせた。
- 曹翔が急死し、昭義兵は晋陽の市街を大いに掠めたが、住民が自衛して千人余を殺し、ようやく散った。
- 宰相李蔚を罷めて東都留守とし、鄭従讜を同平章事、李都を同平章事兼河中節度使に任じた。
十月~十一月・対沙陀包囲網
- 十月、朝廷は昭義の李鈞、幽州の李可挙に、吐谷渾の赫連鐸、白義成、沙陀の安慶、薩葛の米海万らを合わせ、蔚州の李国昌父子を討たせた。
- 十一月には岢嵐軍が内応して沙陀方に寝返った。
- 河東宣慰使崔季康が河東節度使・代北行営招討使となり、石州を攻める沙陀を救援した。
十二月・福州陥落と洪谷敗戦
- 甲戌、黄巢は福州を落とし、観察使韋岫は城を棄てて逃げた。
- 南詔使趙宗政は帰国したが、中書は督爽への牒文には直接答えず、西川節度使崔安潜の書面という形で返書した。これは南詔を正式な対等相手と認めない含みがあった。
- 崔季康と昭義節度使李鈞は李克用と洪谷で戦ったが、大敗し、李鈞は戦死した。昭義兵は代州まで退く間に掠奪を働き、代州の民がこれをほぼ皆殺しにし、残兵は鵶鳴谷を通って上党へ逃げ帰った。
杭州八都の成立と銭鏐
- 王郢の乱の際、臨安の董昌は郷兵を率いて功を立て、石鏡鎮将となった。
- この年、曹師雄が二浙を侵したので、杭州では諸県から郷兵各千人を募り、董昌・劉孟安・阮結・聞人宇・徐及・杜稜・凌文挙・曹信らを都将とする「杭州八都」を編成した。董昌がその長となった。
- のちに聞人宇が死ぬと、銭塘の人成及が代わった。
- 臨安の銭鏐は驍勇をもって董昌に仕え、功績によって石鏡都知兵馬使となった。胡注はここを銭鏐登場の始まりとする。