資治通鑑唐紀六十九 僖宗 乾符六年 六年 879年

正月・高駢の反撃と黄巢の南走

  • 鎮海節度使高駢は張璘・梁纉を分道で進めて黄巢を討ち、たびたび破った。黄巢の将秦彦・畢師鐸・李罕之・許勍ら数十人が降った。
  • 黄巢はこれに押されて広南へ向かった。秦彦は徐州人、畢師鐸は冤句人、李罕之は項城人である。

南詔再使節の失敗と徐雲虔の使命

  • 前年に辛讜が派遣した賈宏らは南詔へ到達しないまま、相次いで道中で死に、従者も多く失われた。
  • 病床の辛讜は、国のためにこの任務を果たしてほしいと徐雲虔に頼み、徐はこれを引き受けた。胡注は、辛讜が臨終に近くとも国家を忘れなかったことを強調する。

二月・徐雲虔、南詔で論争

  • 丙寅、徐雲虔は善闡に着いた。南詔王は大使とは対等礼で会い、副使以下には拝礼させた。
  • その後、南詔側は、唐の牒文は南詔王に臣下として表を奉らせ朝貢させようとするが、すでに西川経由で兄弟あるいは甥舅の関係を求めているので、書状と贈物だけで足りると主張した。
  • 徐雲虔は、兄弟や甥舅を名乗るなら、なおさら上下の名分を正すべきであり、南詔の先祖が唐の命で六詔を統一できた恩義、祖先の旧例、戦争停止の利益を挙げて、称臣奉表こそ徳にかなうと説いた。
  • 南詔王は徐雲虔を厚遇し、彼は十七日滞在して帰国した。南詔は中書門下と嶺南西道への二通の木夾書を託したが、なお正式な奉表称貢には応じなかった。

二月・河東行営の内乱

  • 辛未、河東軍が静楽に至ると士卒が乱れ、孔目官石裕らを殺した。
  • 崔季康は晋陽へ逃げ帰ったが、甲戌、張鍇・郭昢らが東陽門から府城へ攻め入り、季康を殺した。
  • 朝廷は高潯を昭義節度使、李侃を河東節度使とした。胡注は任命日付の異同を正している。

三月・天平の変

  • 天平節度使張裼が死ぬと、牙将崔君裕が自ら州事を執ったが、淄州刺史曹全晸がこれを討って誅した。

四月・崔安潜の蜀での盗賊対策

  • 西川に赴任した崔安潜は、到着してもただちに盗賊摘発を行わなかったため、蜀人は怪しんだ。
  • 安潜は、盗賊は官吏の内通なしには成り立たないが、徹底捜査すれば関係者が広がり、かえって騒擾が増すと考えた。
  • そこで成都の三市に賞金を置き、盗賊を告発・捕縛した者には五百緡を与え、共犯者が告発した場合も罪を免じて同額を与えると布告した。まもなく共犯同士の疑心暗鬼が生まれ、一人が捕らえられると、安潜は「お前も先に仲間を売れば助かり褒賞も得られた」と諭し、賞金を告発者に見せてから罪人を市中で極刑に処した。
  • これにより盗賊たちは互いを信用できなくなり、一夜のうちに逃散し、蜀境から盗が消えた。
  • さらに安潜は、陳許で壮士を募って蜀兵に混ぜ、忠武軍にならって黄頭軍三千を編成し、また洪州の弩手を招いて千人の神機弩営を作った。蜀兵は次第に精強になった。胡注は、兵の強弱は土地でなく将に由来すると論じる。

四月・王鐸が都統を請う

  • 涼王侹が死去した。
  • 群盗の横行を憂えた王鐸は、自分は宰相の長として朝廷にいるだけでは皇帝の憂いを分かち得ないとして、みずから諸将を督して討伐に当たりたいと願った。
  • 朝廷はこれを認め、王鐸を守司徒・兼侍中・荆南節度使・南面行営招討都統とした。

五月・河東軍の再乱

  • 河東軍士に銀が下賜されたころ、牙将賀公雅配下の兵が反乱し、晋陽三城を焼き掠め、孔目官王敬を捕えて馬歩司へ送りつけた。
  • 李侃と監軍が出て宥め、王敬を牙門で斬ることで一度は鎮まった。
  • このころ、王鐸は名門出身で口才のある李係を行営副都統兼湖南観察使に推し、精兵五万と土団を潭州に置いて黄巢を防がせた。胡注は、家柄だけで人を用い才能を見ないのは古今の通弊だと評する。
  • しかし河東では夜ごとに賀公雅配下の兵が密かに捕えられて族滅されていたため、丁巳、残党百人近くが「報冤将」を名乗って再び大掠奪を行った。
  • 李侃は軍情に従うふりをして張鍇・郭昢を斬り、賀公雅を都虞候にしたが、張・郭は処刑直前に、自分たちが殺したのは捕盗司の密告によるだけだと群衆に訴えたため、兵はまた騒ぎ、二人を奪い返して職に復帰させた。
  • 結局、捕盗司の元義宗ら三十余家を誅滅し、さらに朱玫らに命じて報冤将を悉く斬らせて、ようやく軍城は安定した。

黄巢の官職要求

  • 黄巢は浙東観察使崔璆と嶺南東道節度使李迢に書を送り、天平節度使への推薦を求めた。二人はこれを朝廷に奏聞した。
  • 朝廷は認めず、黄巢はさらに広州節度使を求めた。左僕射于琮は、広州には市舶の富が集まるため賊に与えるべきでないと反対した。
  • そこで六月、宰相たちは妥協案として率府率を授けるよう請い、これが認められた。

李侃の離任と李蔚の河東赴任

  • 河東節度使李侃は軍府でたびたび乱が起こるため、病を理由に医師を求めて退任を願い出た。
  • 朝廷は代州刺史康伝圭を河東行軍司馬にして李侃を帰京させ、まもなく東都留守李蔚を河東節度使とした。

高駢の広南討伐計画

  • 高駢は、郎幼復を留後にして浙西を守らせ、張璘に五千を率いさせて郴州で要害を固め、王重任に八千を与えて循州・潮州で賊を邀撃させ、自身は一万で大庾嶺から広州へ向かう計画を奏上した。
  • さらに王鐸には梧州・桂州・昭州・永州を守らせたいと述べたが、朝廷は許可しなかった。

九月・広州陥落と李迢の死

  • 黄巢は率府率の告身を受け取ると、侮辱と感じて激怒し、執政を罵って急攻し、その日のうちに広州を落とした。節度使李迢は捕えられた。
  • 黄巢は嶺南の州県を掠め、李迢に自らの心情を述べる表文を書かせようとしたが、李迢は、代々国恩を受け、親戚も朝廷に満ちているので、腕は斬られても表は書けぬと拒み、殺された。

十月・高駢の淮南移鎮

  • 朝廷は高駢を淮南節度使兼塩鉄転運使に移し、周宝を鎮海節度使、劉巨容を山南東道節度使とした。
  • 高駢と周宝の後日の対立の伏線となる人事でもあった。

十月・黄巢、北帰して潭州を落とす

  • 嶺南では瘴疫で兵の三、四割が死んだため、黄巢は部下の勧めに従って北上を決断した。
  • 桂州で大筏を数十組作り、増水に乗って湘江を下り、衡州・永州を経て、癸未、潭州城下に着いた。
  • 李係は城に閉じこもって出撃せず、黄巢は一日で潭州を落とした。李係は朗州へ逃げた。
  • 黄巢は駐留兵を皆殺しにし、死体で川が塞がるほどだった。尚讓は勝勢に乗じて江陵へ迫り、その兵は五十万と号した。

王鐸の撤退と江陵の荒廃

  • この時、諸道兵はまだ集まらず、江陵守備兵は一万に満たなかった。王鐸は将の劉漢宏に江陵を守らせ、自らは劉巨容と合流する名目で襄陽へ向かった。
  • 王鐸が去ると、劉漢宏は江陵を大いに掠めて焼き払い尽くし、士民は山谷へ逃げ、大雪の中で野に凍死者が満ちた。
  • その後しばらくして賊が到着し、劉漢宏はそのまま北へ去って群盗となった。胡注は、劉漢宏の経歴について諸説あるが、王鐸の配下に一時属したとみるのが自然だと論じる。

閏月~十一月・河東の混乱再燃

  • 閏月、河東節度使李蔚が病み、李邵を観察留後、監軍李奉臯を兵馬留後としたが、張鍇・郭昢が奏状を書き換えて李邵を退け、丁球に留後をさせた。
  • 十一月、王処存が義武節度使となり、康伝圭が河東節度使となった。

十一月・荆門で黄巢大敗

  • 黄巢は北へ進んで襄陽を狙ったが、劉巨容と江西招討使曹全晸が荆門に屯してこれを拒んだ。
  • 劉巨容は林中に伏兵を置き、曹全晸は軽騎でわざと負けて退いた。賊が追ってくると伏兵が出て大破し、そのまま江陵まで追撃して、黄巢軍の七、八割を討ち取るか捕えた。
  • 黄巢と尚讓は残兵を率いて長江を渡り東へ走った。
  • 配下は徹底追撃を望んだが、劉巨容は、国家は危急の時だけ将士をいたわり、事が済めば見捨てたり罪に問うたりするので、むしろ賊を残して自分の富貴の資とした方がよいと述べ、追撃を止めた。胡注は末唐の政治の病をよく表す言とする。
  • 曹全晸はさらに追ったが、朝廷が段彦謩を後任の招討使にしたので進軍を止めた。これにより黄巢勢力は再び盛り返した。

年末・黄巢の再膨張と河東節度使の死

  • 黄巢は鄂州を攻めて外郭を落とし、饒州・信州・池州・宣州・歙州・杭州など十五州を転掠し、兵は二十万に達した。
  • 康伝圭が代州から晋陽へ向かう途中、烏城駅で張鍇・郭昢に迎えられ、その場で乱刀で殺され、家族も皆殺しにされた。
  • 十二月、江陵敗北の責任で王鐸は太子賓客分司に左遷された。
  • かつて高駢を都統に推した盧攜は、張璘らの戦勝を頼みとして再び宰相に返り咲いた。そして王鐸や鄭畋が任命した関東諸鎮の人事を多く改めた。胡注は、これが後に高駢依存によって国を誤る伏線だと見る。
  • この年、桂陽の賊陳彦謙が柳州を落とし、刺史董岳を殺した。