資治通鑑唐紀六十九 僖宗 乾符四年 四年 877年
春正月・江浙の海賊王郢が魯寔を捕える
- 王郢は降伏交渉に来た魯寔を舟の中に誘い入れて捕らえ、その配下の兵は総崩れとなった。
- 朝廷は右龍武大将軍の宋皓を江南諸道招討使に任じ、諸道の兵に加えて忠武・宣武・感化三道と宣州・泗州の兵を動員し、新旧合わせて一万五千余を宋皓の指揮下に置いた。
二月・王郢の掠奪と討伐
- 王郢は望海鎮を落として明州を荒らし、さらに台州を陥落させた。台州刺史の王葆は唐興へ退いて守った。
- 朝廷は浙東・浙西と福建に舟師を出させて王郢討伐に当たらせた。
- 一方、王仙芝は鄂州を、黄巢は鄆州を落として節度使薛崇を殺した。
南詔の世代交代と和議
- 長年にわたり辺境を苦しめてきた南詔王の酋龍が死に、子の法が立って貞明・承智・大同と改元した。国号は鶴拓、また大封人とも称した。
- 新王は狩猟と酒宴を好み、政務を大臣に任せがちであった。
- 閏月、嶺南西道節度使の辛讜は、南詔が和議を求めてきたと奏上した。長年の邕州防衛で中国側の兵糧輸送も疲弊しており、休戦が双方の負担を軽くすると述べた。朝廷はこれを認め、使節と贈物を送って返した。邕州には荆南・宣歙の一部兵だけを残し、その他の諸道兵は大幅に減らした。
浙西で王郢が孤立し滅ぶ
- 王郢が浙西でなお横行すると、鎮海節度使裴璩は正面衝突を避けつつ厳重な備えを行い、ひそかに王郢の部下朱実を帰順させた。これにより六、七千人が離反し、武器二十余万と大量の舟・食糧・布帛が官軍に渡った。朝廷は朱実を金吾将軍に任じた。
- こうして王郢軍は瓦解し、本人は残兵を率いて東の明州へ逃れたが、甬橋鎮遏使の劉巨容が筒箭で射殺した。残党もことごとく平定された。
- 裴璩は裴諝の一族である。
三月~四月・黄巢の北方進出
- 三月、黄巢は沂州を落とした。
- 四月朔日には日食があった。
- 江西では柳彦璋が掠奪を行った。
- 陜州では軍が反乱し、観察使崔碣を追放した。朝廷は崔碣を懐州司馬に左遷した。
- 黄巢は尚讓と合流して查牙山に拠った。胡注は諸史の記述が錯綜していることを指摘し、この時点で黄巢が查牙山に保ったとみるべきだと整理している。
五月~六月・地方の乱と懐柔策
- 給事中楊損が陜虢観察使となり、赴任後に首謀者を誅して秩序を立て直した。楊損は楊嗣復の子である。
- 桂管では前任の李瓉が失政で追放された後、支使薛堅石が留務を代行して近隣諸道へ通牒し、乱兵の侵入を防いで地方を安定させたため、朝廷は彼を国子博士に抜擢した。
- 六月、柳彦璋が江州を襲って刺史陶祥を捕え、自らも帰順の意を示したため、朝廷はいったん右監門将軍に任じて散兵入京を命じた。しかし柳彦璋は従わず、湓江に百余艘の戦艦を並べて水寨を築き、引き続き略奪した。
- 忠武軍の都将李可封は辺地から帰還途中、邠州で主帥を脅して未払いの糧塩を要求し、四日間にわたり州内を震え上がらせたが、のちに許州へ戻ると節度使崔安潜に処断された。
七月・宋州包囲と朝廷内部の対立
- 七月、王仙芝と黄巢が宋州を攻め、平盧・宣武・忠武の三道兵は敗れて、宋威が宋州で包囲された。
- 左威衛上将軍張自勉が忠武兵七千を率いて救援し、賊二千余を斬って包囲を解かせた。
- 王鐸・盧攜は張自勉の兵を宋威の節制下に入れようとしたが、鄭畋は両者に遺恨があり、従わせれば張自勉が殺されると判断して奏案への署名を拒んだ。
- 八月、王鐸と盧攜は自らの罷免を願い、鄭畋も病を理由に退きたいと願ったが、皇帝はいずれも許さなかった。これは国是を決められない朝廷の弱さを示している。
八月・各地の失陥と人事の混乱
- 王仙芝は安州を落とした。
- 塩州でも軍が乱れ、刺史王承顔を追放した。朝廷は高品の牛從珪を派遣して慰撫させ、王承顔を象州司戸に左遷した。
- 王承顔や崔碣は本来は厳格な善政で知られていたのに、貪暴で乱を招いた者と同じ処分を受けたため、時人は惜しんだ。末唐では賞罰が適切でなく、能吏も罪を免れないと胡注は評する。
- 牛從珪は軍中から王宗誠を刺史に立てるよう求めたが、朝廷は王宗誠を入朝させ、兵士たちには罪を許して厚く慰撫した。
- 乙卯、王仙芝は隨州を落とし、刺史崔休徵を捕えた。山南東道節度使李福の子が救援に向かったが戦死したため、李福は援軍を求め、鳳翔兵五百騎が派遣された。王仙芝はその後、復州・郢州方面へ移った。
- 忠武軍の張貫ら四千人は宣武兵とともに襄州援軍に向かったが、申州・蔡州の間から抜け道で逃げ帰ったため、朝廷は忠武・宣武の両節度使に兵を呼び戻させた。
冬十月・用兵をめぐる鄭畋の上奏
- 邠寧節度使李侃は、塩州で王承顔を逐った王宗誠を討って斬り、残党も平定した。
- 鄭畋は王鐸・盧攜と皇帝の前で軍事方針を論じたが敗れ、あらためて上奏した。崔安潜が早くから兵を出して賊を防ぎ、宋州包囲も張自勉で救って江淮の漕運を守ったのに、その精兵七千を取り上げて宋威の下に付けたのは不当だと主張した。
- 鄭畋は、忠武兵四千だけを宋威に渡し、残る三千を張自勉に率いさせて本鎮を守らせるべきだと述べたが、盧攜は同意せず、皇帝も決断できなかった。
- さらに鄭畋は、宋威が朝廷を欺き、敗戦を重ねたうえに、王仙芝からの七度に及ぶ降伏願いも握り潰したと弾劾し、内大臣らと協議して罷免すべきだと求めたが、容れられなかった。
河中の乱と黄巢への一時的打撃
- 河中でも軍が反乱して節度使劉侔を追放し、兵は放火と掠奪を行った。朝廷は竇璟を宣慰制置使に任じ、のちそのまま節度使に据えた。
- 黄巢は蘄州・黄州を略奪したが、曾元裕がこれを破り、四千級を斬ったため、黄巢は退いた。
十一月~十二月・王仙芝の降伏交渉と尚君長の処刑
- 招討副都監楊復光は人を遣わして王仙芝を説得し、王仙芝は尚君長らを復光のもとへ送り降伏を願い出た。
- ところが宋威は途中で彼らを奪い取り、十二月には潁州西南で捕虜にしたと偽って奏上した。
- 楊復光は、彼らは本当に降伏してきたのであって宋威の捕虜ではないと反論し、朝廷は侍御史帰仁紹らに取り調べさせたが、真相は明らかにならないまま、尚君長らは狗脊嶺で斬られた。
年末・各地の戦闘と江州の収復
- 黄巢は匡城を落とし、さらに濮州を陥した。朝廷は潁州刺史張自勉に諸道兵を率いて討たせた。
- 江州に赴任した刺史劉秉仁は、単身の舟で柳彦璋の水寨に乗り込み、不意を突いて歓迎に出た柳彦璋を斬り、その配下を散らした。
- 王仙芝は荆南へ向かったが、節度使楊知温は文人で軍事に疎く、賊来襲の報を信じず備えを怠った。賊は漢水が浅いのに乗じて賈塹から渡った。