正月〜三月 乱軍の続出と人事
- 正月、天平軍の張晏らは沂州救援から帰る途中、義橋で北境に再び盗賊が起こったと聞かされて留守防衛を命じられたが従わず、鄆州へ向かって騒ぎ立てた。
- 都将張思泰・李承祐が出迎え、俸銭で酒食を用意してなだめ、ようやく鎮まった。朝廷も本軍を慰撫し、深く追及しないよう命じた。藩鎮と乱軍へのこの姑息が、末期唐をさらに弱らせていく。
- 朝廷は福建・江西・湖南の観察使や刺史に士卒訓練を命じ、また天下の郷村に弓・刀・鼓・板を備えさせて群盗に備えさせた。
- 兗海軍には泰寧軍の号が与えられた。
- 三月、李茂勲は引退を求め、子の李可挙に留後を譲りたいと願ったので、朝廷は李茂勲を左僕射致仕とし、李可挙を盧龍留後とした。
- 宰相の崔彦昭は罷められて太子太傅となり、王鐸が門下侍郎を兼ねて同平章事となった。
南詔との関係悪化
- 南詔は使者を高駢のもとへ送って講和を求めたが、辺境では略奪が止まらなかったため、高駢はその使者を斬った。
- 交趾陥落の際に南詔へ虜にされていた杜驤の妻・李瑶が南詔から帰され、高駢へ木夾の文書を届けた。
- その書では南詔側が高慢な口調で交渉してきたため、高駢はこれを京師へ送り、四月甲辰には南詔の累代の恩忘れ・辺境侵犯・欺詐・安南と大度河での敗戦を列挙して強く詰問する返牒を出した。
四月〜六月 各地の動揺
- 原州刺史史懐操は貪暴であったため、夏四月に軍が乱を起こして追放した。
- 朝廷は、宣武・感化・泗州の節度使・防禦使に密勅を出し、各地の綱船を護衛する遊撃兵を選ばせた。群盗横行により、東南から京師へ向かう漕運が脅かされていたためである。
- 五月、昭王汭が死去した。
- 李可挙は正式に盧龍節度使となった。
- 六月、撫王紘が死去した。
- 雄州で地震が起こり、地が裂けて水が湧き、州城も官民の家屋もことごとく壊れた。
七月 王郢討伐と王仙芝敗走
- 七月、前巖州刺史高傑が沿海水軍都知兵馬使となり、王郢討伐を担当した。
- 鄂王潤が死去した。
- 魏博節度使韓簡に同平章事が加えられた。
- 宋威は沂州城下で王仙芝を大破した。王仙芝は逃走したが、宋威はこれを仙芝討死として奏上し、諸道兵を帰還させて自身も青州へ戻った。
- 百官は賀したが、三日もたたぬうちに州県から仙芝がなお健在で攻掠しているとの報告が相次ぎ、朝廷は再び諸軍を徴発しなければならなくなった。兵士たちはこの失策に不満を募らせた。
八月〜九月 王仙芝の中原進出
- 八月、王仙芝は陽翟・郟城を陥れた。朝廷は忠武節度使崔安潜に討伐を命じた。
- また昭義節度使曹翔に歩騎五千と義成軍を率いさせて東都を守らせ、曽元裕を招討副使として東都守備に当たらせた。
- 山南東道節度使李福には汝州・鄧州の要路防衛を、邠寧節度使李侃と鳳翔節度使令狐綯には陝州・潼関防衛を命じた。
- 王景崇には中書令が加えられた。
- 九月乙亥朔、日食があった。
- 丙子、王仙芝は汝州を陥れ、刺史王鐐を捕えた。王鐐は王鐸の従兄弟にあたる。東都は大いに震え、人々は家族を連れて城外へ逃げ出した。
- 乙酉、朝廷は王仙芝と尚君長を赦し、官を与えて招き寄せようとした。
- しかし王仙芝は陽武を陥れ、鄭州に迫った。昭義監軍判官雷殷符が中牟でこれを撃ち破って退かせた。
十月〜十一月 成都羅城築造
- 十月、王仙芝は南下して唐州・鄧州を攻めた。
- 一方、高駢は成都の外郭、いわゆる羅城を築き始めた。僧景仙に設計をさせ、周囲二十五里に及ぶ大工事であった。
- 成都府下の諸県令をすべて動員して人夫を割り当てたが、役夫は十日ごとに交代させ、賄賂を取る役人は百銭以上で死刑としたため、民は均等さを喜び、鞭撻せずとも工事は進んだ。
- 土地はやせていたので煉瓦で積み、城外十里以内から土を取った跡も、耕地に害が出ないよう平らにならした。
- 八月癸丑に着工し、十一月戊子に完成した。
- 工事中、高駢は南詔が来襲を吹聴すれば民夫が恐れて動揺すると考え、僧景仙を南詔へ潜入させて帰順を説かせ、公主降嫁までほのめかしつつ外交交渉を長引かせた。さらに自ら巡辺に出ると見せかけて大度河まで烽火連絡を張り、実際には動かなかった。
- 南詔側はこれを恐れて様子見に終始し、羅城完成まで辺境に大きな動きはなかった。
- しかも南詔は仏教を尊び、景仙が僧であったため、南詔王は大臣を率いて迎拝し、その言を信用した。
王郢招降と王仙芝の南進
- 王仙芝は郢州・復州を攻め落とした。
- いっぽう王郢は温州刺史魯寔の求降勧告を受け、帰順を願った。魯寔がたびたび奏請したため、朝廷は王郢に入朝を命じた。
- 王郢は兵を保ったまま半年も上京せず、望海鎮使を求めたが許されなかった。最終的に右率府率に任じ、さらに左神策軍で重い職を与えること、略奪した財も給付扱いにすることで懐柔を図った。
十二月 王仙芝・黄巢の分裂
- 十二月、王仙芝は申州・光州・蘄州・寿州・舒州などを攻めた。淮南節度使劉鄴は増兵を求め、朝廷は感化節度使薛能に精兵数千を選んで援助させた。
- 鄭畋は自分の献策が用いられないとして病を理由に辞任を願ったが許されず、宋威は老病で進撃する気がなく、曽元裕も蘄州・黄州付近で風を見て退こうとするだけで、このままでは揚州すら失いかねないと再度訴えた。崔安潜・李瑑・張自勉の起用を提言したが、この段階では全面採用されなかった。
- 青州・滄州の安南帰還兵は桂州に至って観察使李瓚を追放した。桂管監軍李維周が驕横で、兵の大半を握り、李瓚はこれに従属していて制御できなかった。維周は追放にも関与し、官印まで奪い、州官の補任や昭州の送使銭まで横取りした。朝廷は新任の張禹謨に調査を命じた。
- 招討副使楊復光は、尚君長の弟・尚譲が査牙山に拠ったため、官軍が鄧州へ退いていると奏した。
蘄州での招安失敗
- 王仙芝が蘄州を攻めた際、刺史裴偓は王鐸が科挙で取った進士であり、捕らえられていた王鐐の書もあって、王仙芝に城を開いて迎え、酒宴と贈物でもてなした。
- 宰相の多くは、龐勛のような大賊でさえ赦されずに翌年討たれたのだから、王仙芝ごとき小賊に官を与えれば奸心を長ずるだけだと反対したが、王鐸が強く主張し、ついに王仙芝に左神策軍押牙兼監察御史の官を授けることが決まった。
- 中使が蘄州でこれを授けると、王仙芝は大いに喜び、王鐐・裴偓も祝賀した。
- しかし黄巢は自分に官が及ばないことに激怒し、「はじめ天下を横行しようと誓ったのに、あなただけが左軍へ仕えたら、この五千余の衆はどこへ行くのか」と叫び、王仙芝を殴って頭に傷を負わせた。
- 軍中は大騒ぎとなり、王仙芝は群衆の怒りを恐れて任官を受けず、蘄州を大掠奪した。城中の人々は半ば連れ去られ、半ば殺され、家屋も焼かれた。裴偓は鄂州へ逃げ、中使は襄州へ逃れ、王鐐はなお賊中に拘束された。
- こうして賊軍は分裂し、三千余が王仙芝・尚君長に従い、二千余が黄巢に従って、それぞれ別方向へ去った。