資治通鑑唐紀六十八 僖宗 乾符 二年 755年

正月 高駢の西川赴任

  • 正月丙戌、高駢は西川節度使に任ぜられた。
  • 辛巳、僖宗は円丘で祭祀を行い、大赦した。
  • 高駢は剣州に到着すると、まず早馬の使者を成都に出し、城門を開いて城内に避難していた民を帰らせるよう命じた。
  • 周囲は、南詔軍が近いのに節度使自身はまだ遠い、もし敵が突進してきたらどうするのかと危ぶんだが、高駢は「交趾で南詔二十万を破った自分が来ると聞けば、敵は逃げるばかりだ。むしろ多数の民を狭い城内に閉じ込めて疫病を起こす方が危険だ」と言った。
  • 使者が成都で城門を開くと、民はそれぞれの生業に戻り、守城兵も城を下りて鎧を解いたため、大いに喜んだ。
  • 南詔は雅州を攻めていたが、この報を聞くと使者を送って講和を求め、兵を退いた。
  • 高駢は、もはや長武・鄜坊・河東の援軍は無用で費用ばかりかかるとして返還を求め、河東兵だけが引き留められた。

田令孜の台頭と僖宗の遊興

  • 僖宗が普王だった頃から寵愛されていた小馬坊使田令孜は、即位後に枢密を知り、やがて中尉へ昇進した。
  • 僖宗はまだ十四歳で遊戯にふけり、政事はほぼすべて田令孜に委ね、「阿父」と呼んだ。
  • 田令孜は書物を少し読み、権謀にも長け、賄賂を受けて官職や緋紫の賜与を取り扱い、皇帝にすら報告しないことがあった。
  • 日常でも果物を持参して皇帝と向かい合って飲食し、長く語ってから退くほど親密だった。
  • 僖宗は内園の少年らと遊び、楽工や伎人への賞賜に巨額を費やしたため、内庫は枯渇した。
  • 田令孜は両市の商人の財貨を籍没して内庫に入れるよう勧め、訴える者が出れば京兆府に渡して杖殺させた。宰相以下は口を閉ざして何も言えなかった。

高駢の対南詔作戦と黄景復の処刑

  • 高駢は成都到着の翌日、歩騎五千を率いて南詔を追い、大度河まで追撃して多数を斬獲し、酋長数十人を捕えて成都で斬った。
  • さらに邛崍関や大度河沿いの諸城柵を修復し、戎州の馬湖鎮に平夷軍を置き、沐源川にも城を築いて、蜀へ入る要路にそれぞれ数千を駐屯させた。これ以後、南詔は蜀へ深く入ってこなくなった。
  • だが高駢は、大度河を守りきれなかったとして黄景復を召し出し、腰斬に処した。
  • また、自ら六万を率いて南詔を討ちたいと願ったが、朝廷は許さなかった。

南詔との文書往復

  • これ以前、南詔の督爽はたびたび中書省へ恨みがましい書状を送ってきたが、中書は返答していなかった。
  • 盧攜は、このままでは南詔が唐に返答能力がないと思ってさらに驕るとして、南詔が十代にわたり唐の恩を受けたことを数え上げ、その背恩を責める文書を送るべきだと主張した。
  • ただし中書自身の牒では対等外交に見えるので、高駢と嶺南節度使辛讜に勅意を書き付けた白牒で返答させる形式が採られた。

三月 感化軍の不服と突将への不満

  • 三月、魏博留後の韓簡は正式に節度使となった。
  • 前年、感化軍は防秋のため霊武へ向かう途中、南詔西川侵攻を受けて救援に転用され、戦後再び霊武へ行かされそうになった。しかし鳳翔まで来ると徐州へ勝手に帰ろうとした。
  • 宦官の王裕と都将の劉逢搜は、首謀者の胡雄ら八人を捕えて斬り、ようやく鎮めた。

突将の失職と蜀人の不満

  • 成都防衛の功を立てた突将は、高駢が着任すると全員に職名を返上させられたうえ、蜀はたびたび南詔に荒らされ復興していないという口実で禄給も止められた。
  • 突将たちは激しく恨んだ。
  • 高駢は妖術を好み、出兵のたびに夜中に旗を並べて紙の人馬を焼き、小豆を散らし、「蜀兵は弱いので玄女の神兵を先に遣わす」と言ったため、軍中の壮士は深く恥じた。
  • さらに、蜀の官吏で元が胥吏出身の者を一斉に罷免し、民間の銭は不足銭を認めずすべて足陌で使わせ、不足すれば賄賂と同罪で死刑にするなど、苛酷な統制を行ったため、蜀人はみな不満を抱いた。

四月 成都突将の乱

  • 四月、突将が反乱を起こして大騒ぎとなり、府廷へ乱入した。高駢は便所に隠れた。
  • 天平都将張傑が数百の甲兵を率いて救援したが、突将は牙前の儀仗兵器まで引き抜き、武器のない者も棒や拳で戦ったため、天平軍は敗れて営へ逃げた。
  • 突将は営門まで追ったが閉門されて入れず、監軍が説諭して、旧職旧給の回復を約束すると、ようやく営に戻った。
  • 天平軍はその後、城北の毬場普請に徴発されていた民夫数百人を斬って、その首級を節度府へ持ち込み、乱者を討ったと偽報した。
  • 高駢はそれを賞したが、翌日には榜文を出して突将に謝罪し、職名・衣糧をすべて戻した。
  • それ以後は、諸道から従ってきた将士を交代で府中警備に当たらせ、高駢は厳重な自衛を続けた。

東南沿海の大乱

  • 成徳節度使王景崇には侍中が加えられた。
  • 浙西の狼山鎮では、王郢ら六十九人が戦功を立てたのに、節度使趙隠が職名だけ与えて衣糧を与えなかった。王郢らは訴えても聞き入れられず、庫兵を劫奪して反乱を起こした。
  • 王郢は一万人近い徒党を集め、蘇州・常州を攻略し、舟で江海を往来して二浙から福建にまで掠奪を広げ、大患となった。

五月〜六月 宰相更迭

  • 五月、令狐綯が同平章事のまま鳳翔節度使となった。
  • 司空・同平章事の蕭倣が死去した。
  • 六月、御史大夫李蔚が同平章事となった。

辛未 高駢による大虐殺

  • 辛未、高駢はひそかに突将の名簿を作らせ、夜中に家々を襲って老幼・妊婦・病人までことごとく捕え、殺させた。
  • 乳児は階に叩きつけられ、柱に打ちつけられ、血が流れて溝となり、号哭が天を震わせた。死者は数千に及び、夜のうちに車で運んで江へ投げ捨てた。
  • 処刑される婦人の一人は、高駢が功ある将士の職名と衣糧を無理に奪って怒りを招いたのに、自らを省みず無辜を大量虐殺したと激しく罵り、天帝に訴えて高駢一族が自分同様の滅亡と苦痛を受けるよう祈って、堂々と死んだ。胡三省は、後年の高駢滅亡を見ると、この言葉はまさにその通りになったと評している。
  • その後、外地から帰った突将まで皆殺しにしようとしたが、古参の側近王殷が、これ以上殺せば皆が自危してしまうと諫め、高駢は思いとどまった。

王仙芝・黄巢の拡大

  • 王仙芝は尚君長らとともに鄆州・曹州を攻め、天平節度使薛崇の軍を破った。
  • 冤句の黄巢も数千を集めて王仙芝に呼応した。王仙芝と黄巢はいずれも塩の密売で身を立てていた。黄巢は騎射にすぐれ、任侠を好み、書伝にも少し通じていたが、進士に度々落ちて盗賊となった。
  • 重税に苦しむ山東の民は争ってこれに帰附し、数か月で兵は数万に膨れ上がった。

幽州の変と蝗害

  • 盧龍節度使張公素は暴戻で軍士に支持されず、大将李茂勲が宿将陳貢言を密かに殺して謀反を偽装し、張公素を出撃させて敗走させた。
  • 張公素は京師へ逃げ、李茂勲が軍に推されて留後となり、朝廷もこれを追認した。
  • 七月、蝗が東から西へ飛来して日を覆い、通過地は草木も穀物も食いつくして赤地となった。
  • しかし京兆尹楊知至は、蝗は京畿では稼を食わず荆棘を抱いて死んだと奏し、宰相たちはこれを賀した。胡三省は、こうした虚飾と粉飾は唐の臣下の悪習として久しいと嘆いている。

八月〜十二月 諫官処分と各地の乱

  • 八月、李茂勲は正式に盧龍節度使となった。
  • 九月、右補闕董禹は、僖宗が驢馬に乗って毬を打つ遊びをしていることを諫め、褒美を受けた。
  • ところが邠寧節度使李侃が養父である宦官道雅への贈官を求めると、董禹は宦官批判を含む上疏を出し、楊復恭らの訴えで冬十月に郴州司馬へ左遷された。
  • 昭義では大将劉広が高湜を逐って留後を称し、朝廷は曹翔を昭義節度使とした。
  • 西へ逃げていた回鶻が羅川まで戻り、同羅榆禄を使者として朝貢したため、朝廷は接待用の絹一万匹を賜った。
  • 群盗は十余州にひろがり、淮南にも及び、多いものは千余人、少ないものでも数百人の集団をなしたため、諸鎮に討捕と招懐が命じられた。
  • 十二月、王仙芝は沂州を侵し、平盧節度使宋威は、自ら歩騎五千を率いる特別軍を作って諸道討賊軍の指揮権を集めたいと願い、認められた。禁兵三千、甲騎五百も付属された。