資治通鑑唐紀六十八 懿宗 咸通 十三年 752年

正月〜二月 幽州の張允伸死去と朝廷人事

  • 正月、幽州節度使張允伸が中風を患い、軍政を子の張簡会に委ねて療養したいと願い出た。朝廷はこれを許した。
  • 病が重くなると張允伸は旌節返上の表を送り、丙申に死去した。二十三年間幽州を治め、勤倹で慎み深く、辺境を安定させたことで上下から安んじられていた。
  • 二月丁巳、于琮は山南東道節度使として外任に出され、奉天の趙隠が同平章事となった。

幽州の政変

  • 平州刺史張公素は威望が厚く、幽州の人々に信服されていた。張允伸が死ぬと、州兵を率いて弔問に来た。
  • 張簡会はこれを恐れ、三月に京師へ逃れ、諸衛将軍とされた。
  • 夏四月、皇子の保を吉王、傑を寿王、倚を睦王に封じた。
  • 張公素は平盧留後とされたが、実際には盧龍留後の意である。

五月 韋殷裕獄と韋保衡の粛清

  • 国子司業韋殷裕が閤門で、郭淑妃の弟で内作坊使の郭敬述の陰事を告発した。
  • 懿宗は激怒し、韋殷裕を杖殺して家産を没収した。
  • 閤門使田献銛も、訴状を取り次いだために官位を奪われた。
  • 韋殷裕と姻戚関係にある崔元応・崔沆・韋君卿らも嶺南へ左遷され、杜裔休も親しかったとして端州司戸へ落とされた。
  • 丙子、于琮も韋保衡の讒言で普王傅分司に落とされた。
  • さらに李当・王渢・李都・張裼・封彦卿・楊塾、続いて厳祁・李貺・張鐸・李敬仲・蕭遘・李瀆・鄭彦特・李藻らまで、みな于琮と親しかったとして湖嶺以南に配流された。
  • 甲申、于琄・于瓌も左遷され、于琮はまもなく韶州刺史に再左遷された。
  • 于琮の妻の広徳公主は懿宗の妹で、夫とともに韶州へ下り、常に礼法を守って一族にも敬意を尽くしたため、内外で称賛された。

六月以後 張公素の昇任と李璋左遷

  • 六月、張公素は盧龍節度使となった。
  • 韋保衡は党与の裴条を郎官にしようとしたが、左丞の李璋と方巖が阻むのを恐れ、事前に働きかけた。
  • 李璋は、朝廷の任命を自分に事前相談する道理はないと退けたため、秋七月乙未、宣歙観察使へ外任に出された。

八月〜冬 河西・振武方面と追諡

  • 八月、帰義節度使張義潮が死去し、沙州長史曹義金が代行の後、正式に節度使となった。以後、中原の混乱で朝廷の命令は届きにくくなり、回鶻に甘州を奪われ、その他の州も多く羌胡に奪われていった。
  • 冬十二月、宣宗に長い諡号が贈られた。
  • 振武節度使李国昌は功を恃んで勝手な振る舞いをし、長吏を専断で殺した。朝廷は抑えきれず、大同軍防禦使に転じようとしたが、李国昌は病と称して赴任しなかった。