資治通鑑唐紀六十八 懿宗 咸通 十四年 753年

三月〜四月 法門寺の仏骨迎奉

  • 三月癸巳、懿宗は法門寺へ勅使を送り、仏骨を迎えさせた。
  • 群臣の多くが諫め、中には憲宗が仏骨を迎えた後まもなく崩じた前例を引く者もいたが、懿宗は「生きてこの仏骨を見られるなら、死んでも恨みはない」と言った。
  • 巨大な仏塔・宝帳・香輿・幡花・幢蓋が、金玉・錦繡・珠翠で豪奢に飾られ、京城から寺まで三百里の道は昼夜車馬が絶えなかった。
  • 四月壬寅、仏骨は京師に到着した。禁軍の兵仗、公私の音楽がこれを導き、その盛儀は郊祀をしのぐほどだった。
  • 懿宗は安福門に出て楼下へ降り、胡礼式でひれ伏して涙を流した。僧や、元和年間の迎仏を見た耆老たちにも金帛を賜った。
  • 仏骨は三日間禁中に置かれ、その後安国寺・崇化寺へ移された。宰相以下が競って布施し、記しきれないほどの財貨が費やされた。
  • その機会に恩赦が出され、内外の囚人が減免された。

路巖昇進と南詔の黔中侵攻

  • 五月丁亥、路巖は西川節度使のまま中書令を兼ねた。
  • 南詔は再び西川を侵したうえ、黔南にも入った。黔中経略使の秦匡謀は兵少なく抗しきれず、城を捨てて荊南に逃れた。
  • 荊南節度使杜悰はこれを捕えて朝廷に奏し、六月乙未、秦匡謀は斬罪・家産没収となり、連座親族の捜索まで命じられた。

韋保衡の専横

  • 王鐸は宣武節度使として外任に出された。
  • 韋保衡は恩寵をかさに着て権勢をふるい、以前相位にあって自分を礼遇しなかった劉瞻・于琮だけでなく、自分の科挙試験の座主だった王鐸や、同年進士の蕭遘に対しても私怨を抱き、次々に排斥した。

七月〜八月 懿宗崩御と僖宗即位

  • 秋七月戊寅、懿宗は病が重くなった。
  • 左軍中尉劉行深と右軍中尉韓文約は、少子の普王儼を立てた。
  • 庚辰、儼は皇太子となり、しばらく軍国政事を代行することになった。
  • 辛巳、懿宗は咸寧殿で崩じた。四十一歳であった。遺詔により韋保衡が冢宰を代行し、僖宗が即位した。
  • 八月丁未、母の王貴妃を皇太后と追尊し、劉行深・韓文約はともに国公に封じられた。
  • 関東・河南では大水害が起こった。

九月〜冬 韋保衡失脚、路巖なお昇進

  • 九月、先太后に恵安の諡号が贈られた。
  • 同月、韋保衡の仇敵がその陰事を告発したため、韋保衡は賀州刺史に左遷された。
  • 樂工の李可及も嶺南へ流された。懿宗の寵臣で、贈物を官車で運ばせるほどであったが、没落後はその家財を同じく官車で運び去られたという。
  • 路巖は西川節度使のまま侍中を兼ね、王景崇・韓君雄・張公素・高駢にも同平章事が加えられ、韓君雄は名を允中と賜った。
  • 冬十月乙未、蕭倣が宰相となった。
  • 韋保衡はさらに崖州澄邁令に再左遷され、まもなく自尽を命じられた。弟の保乂、側近の劉承雍らも処罰された。

十一月〜十二月 路巖失脚

  • 癸卯、天下に大赦が出た。
  • 西川節度使路巖は、音楽や酒宴を好み、軍府の政務を腹心の辺咸・郭籌に任せきりにしていた。二人は正式手続きを経ずに事を先行させることが多く、上下がこれを恐れていた。
  • 大閲の際に二人が紙に書いて相談し、すぐ焼き捨てたことから、軍中では異図があるのではないかと動揺が走った。
  • 朝廷はこれを聞き、十一月戊辰、路巖を荊南節度使へ移した。辺咸・郭籌は事情を察して逃亡した。
  • 蕭鄴は河東節度使として外任に出された。
  • 十二月己亥、仏骨は法門寺へ送り返された。
  • 路巖はさらに新州刺史に落とされた。