資治通鑑唐紀 懿宗昭聖恭惠孝皇帝上 咸通五年 五年 744年
正月・昭義節度使の交替
- 正月、京兆尹李蠙が昭義節度使に任じられた。
- 彼は到着後、沈詢を殺した帰秦の心肝を取って祭りに供え、乱の鎮圧にあたった。
- 淮南節度使令狐綯は、子の令狐滈に関わる張雲・劉蜕の弾劾を冤罪として訴え、張雲は興元少尹、劉蜕は華陰令に左遷された。
- 詔では、二人の忠諫は評価しつつも、事実の疎略があったとされた。
西川方面への備え
- 丙午、西川から、南詔が嶲州に侵入したが、刺史喻士珍が破って千余人を捕えたと報告があった。
- 朝廷は右神策兵五千と諸道兵を発して駐屯させ、忠武大将顔慶復の請願どおり、新安・遏戎の二城を築くことも認めた。
安南回復準備
- 張茵は容管経略使となり、あわせて交州経営を担当した。
- 海門鎮の兵は二万五千人に増強され、張茵に安南奪回が命じられた。
二月・宰相更動
- 李福が同平章事を帯びて西川節度使に任じられた。
- 前西川節度使蕭鄴は山南西道観察使へ左遷された。
三月・彗星出現と不吉の隠蔽
- 三月、彗星が婁宿に現れ、長さ三尺に及んだ。
- 司天監はこれを凶兆とせず、「舎誉」という瑞星だと奏し、懿宗は大いに喜んで史策への編入まで命じた。
- 当時の天文官が天象を正しく解さず、妖異を祥瑞に変えて上意に迎合したことがうかがえる。
康承訓の敗戦
- 康承訓が邕州に着くと、南蛮の侵攻はさらに激しくなった。
- 朝廷は許・滑・青・汴・兗・鄆・宣・潤など八道の兵を加えて与えた。
- しかし康承訓は斥候を置かず、南詔が六万近い兵で邕州に迫るまで十分な備えを取らなかった。
- 侵入直前になって六道の兵約一万を出したが、獠を案内役に使って偽導され、不意を突かれて五道兵八千人が全滅し、天平軍だけが一日遅れて到着したため免れた。
- 康承訓は大いに狼狽し、どう対処すべきか分からなかった。
- 節度副使李行素が壕と柵を急造してようやく包囲に備えたが、南詔軍はすでに四日間攻城具を整えていた。
- 諸将が夜襲を求めても康承訓は許さず、天平軍の小校が再三争ってようやく認められた。
- 小校は勇士三百を率いて夜、城外へ降下し、敵営を焼いて五百余の首級を挙げたため、蛮軍は驚いて一日後に解囲した。
- その後の追撃は成果が薄く、康承訓が奏した「大破」は実際には誇大報告だった。
四月・康承訓への論功
- 四月、蕭寘が宰相となった。彼は蕭復の孫である。
- 康承訓には右僕射が加えられ、その破蛮の功が賞された。
- しかし実際の戦功受賞者の多くは康承訓の子弟や近親であり、決定的な夜襲を成功させた将校には一級の昇進もなかった。
- そのため軍中の怨嗟は広がり、道路にまで聞こえるほどになった。
五月・徐州兵の嶺南派遣
- 朝廷は、徐州の風土は剛毅で兵も強いが、節度使罷免後に逃散者が多いとして、徐泗団練使に三千人を募らせ、邕州守備に向かわせることにした。
- 嶺外の事が静まれば交代で帰還させる方針だった。
七月・西川戦線と康承訓の更迭
- 西川から、両林の鬼主が南詔軍を邀撃して大勝し、多くを殺獲したとの報が届いた。
- また保塞城使杜守連は南詔に従わず、黎州に率衆して降った。
- 韋宙は康承訓の実情を詳細に把握して宰相に報告していた。康承訓自身も虚報が露見するのを恐れてたびたび病を理由に辞職を求めた。
- そのため朝廷は康承訓を右武衛大将軍分司とし、嶺南西道節度使から退かせた。
張茵の昇任と高駢抜擢
- 容管経略使張茵が嶺南西道節度使に昇進し、容管四州は再び別の経略使の管轄に分けられた。
- しかし張茵は勇将ではあっても大局の遠略に乏しく、長く安南回復へ進軍できなかった。
- そこで夏侯孜は驍衛将軍高駢を推挙し、朝廷はこれを安南都護・本管経略招討使とした。張茵の配下兵もすべて高駢に委ねられた。
- 高駢は高崇文の孫で、禁軍の家に生まれたが読書を好み、今古を談じた。党項討伐や秦州防禦でも功績があり、左右神策の宦官たちからも高く評価されていた。
十一月・宰相人事
- 夏侯孜は河東節度使へ出され、十一月、路巖が宰相となった。路巖はこの時三十六歳であった。