資治通鑑唐紀 懿宗昭聖恭惠孝皇帝上 咸通四年 四年 743年
正月・交趾陥落と蔡襲戦死
- 正月庚午、懿宗は円丘を祀って大赦を行った。
- その同日、南詔軍は交趾を陥落させた。蔡襲は側近をほぼ失いながら徒歩で力戦し、身に十本の矢を受けつつ監軍の船へ向かったが、船はすでに岸を離れており、そのまま海に溺れて死んだ。
- 幕僚の樊綽は印を携えて江を浮渡し、辛うじて脱出した。
- 荆南・江西・鄂岳・襄州の兵四百余人は城東の水辺まで逃れたが、船がないため死を覚悟し、荆南虞候元惟徳らの提案で引き返して東羅門から突入した。
- 南詔側が不意を突かれたため二千余を斬ったが、夜になると楊思縉が子城から救援に出て、惟徳らは全滅した。
- 南詔はこれまで二度の交趾陥落で十五万人近くを殺掠したとされ、二万人を残して楊思縉に交趾城を守らせた。谿洞の夷獠は遠近なくこれに降った。
- 朝廷は安南救援に向かっていた諸道兵を呼び戻し、嶺南西道の上流地域の防備に振り向けた。
懿宗の遊宴と劉蜕の諫言
- この時期、朝廷は西南の危機に直面していたが、懿宗はなお遊宴を節せず、左拾遺劉蜕が上疏した。
- 劉蜕は、西涼の築城問題や南蛮の侵軼など、国事は多端であるのに、懿宗が憂色を見せず遠近の士民に死力を尽くさせる姿勢がないと諫め、安泰を得るまでは娯楽を慎むべきだと訴えた。
- 懿宗はこれを聞かなかった。
二月・十六陵巡拝と天雄軍設置
- 二月朔日、懿宗は歴代の十六陵を巡拝した。
- また秦州に天雄軍を置き、成州・河州・渭州をこれに属させ、王晏実を観察使とした。
三月・張義潮の涼州回復
- 帰義節度使張義潮は、自ら蕃漢兵七千を率いて涼州を回復した。
- これにより河西方面での唐の威信は一時的に回復した。
邕州防衛の危機と康承訓起用
- 南蛮は左右江を侵して邕州へ迫り、鄭愚は儒臣で将略に乏しいとして、自ら辞して武臣の起用を求めた。
- 朝廷は義武節度使康承訓を召して、その後任にする方針を立て、自軍から将校・兵卒を選んで随行させた。
宰相更迭と徐州小乱
- 宰相畢諴は、同列が私情に徇って法を乱すことが多いとして病を称し辞職し、四月に兵部尚書へ退いた。
- 同月、徐州にはなお余燼があり、群盗が侵入して官吏を殺したが、刺史曹慶がこれを平定した。
康承訓の嶺南赴任と楊收入相
- 康承訓は京師に到着すると、嶺南西道節度使に任じられ、さらに荆襄・洪州・鄂州の兵一万を率いて赴任した。
- 五月、楊収が同平章事となった。彼は楊発の弟で、左軍中尉楊玄价と同族関係を結んでいたため昇進したとみられた。
- 同月、容管は廃されて嶺南西道へ統合され、龔・象二州は桂管へ戻された。
- 杜審権は鎮海節度使へ出た。
六月・安南都護府の海門移転
- 六月、安南都護府は一時廃され、海門鎮に「行交州」が置かれ、宋戎が行交州刺史となった。
- 康承訓には安南および諸軍行営の統轄が兼ねて委ねられた。
閏月・宰相交替
- 杜悰は鳳翔節度使に出され、判度支の曹確が宰相となった。
七月・安南都護府復置と海運策
- 七月朔日、日食があった。
- 海門の行交州に改めて安南都護府が復置され、宋戎が経略使となり、山東の兵一万が発せられて駐屯にあてられた。
- だが嶺南へ向かう諸軍の食糧輸送は、湘江から澪渠・灕水を経る険難な水路に依存しており、労費が甚だしかった。
- 潤州人陳磻石は、福建から千斛積みの大舟で海路輸送すれば一か月足らずで広州に至れると上言し、採用された。
- これにより軍糧事情は改善したが、官が和雇の名目で商人の舟を奪い、積荷を岸に積み捨て、沈没時には舟人に弁償させたため、民間の苦情は大きかった。
八月・邕州前衛強化と館驛使問題
- 韋宙は、蛮軍は必ず邕州に向かうので、容州・藤州に兵を分屯させるべきだと奏した。
- 夔王滋が薨去した。
- また、宦官の呉徳応らが館驛使に任じられると、台諫は、館驛監察はもともと御史の職掌であり、内臣が代行すべきではないと抗議した。
- 懿宗は、詔命をすでに出した以上は変えられないと答えた。
- 左拾遺劉蜕はさらに、楚王が陳を県とした時に申叔時の諫めで封建を復したこと、太宗が乾元殿修造を張玄素の諫めで中止したことを引き、勅は天子自身が改められるはずだと諫めたが、聞き入れられなかった。
黠戛斯の要請
- 黠戛斯は使臣合伊難支を送り、経籍の下賜、毎年の暦送付、さらに安西以西の回鶻を討って唐に帰属させたいと申し出たが、朝廷は許可しなかった。
十月・令狐滈抜擢への反発
- 十月、令狐滈が左拾遺に抜擢された。
- これに対し劉蜕は、滈は家法も整えぬまま布衣から宰相のようにふるまっていると批判した。
- 起居郎張雲も、滈の父令狐綯が李涿を安南に起用して南蛮の禍を長引かせたのに、滈が賄賂によって父を悪事に追い込んだとまで攻撃した。
- 十一月、張雲はさらに、令狐綯が執政時「白衣宰相」と呼ばれたと上奏した。滈は自ら退避を願い出て、詹事府司直に改められた。
十一月・徐州観察府復活
- 宿泗観察使は廃され、徐州が再び観察府となり、濠州・泗州が属州とされた。
十二月・昭義の乱
- 南詔は西川に侵攻した。
- 同月、昭義節度使沈詢の奴僕・帰秦が、沈詢の侍婢と通じていた件から主君に殺されることを恐れ、牙将を結んで乱を起こし、府第を攻めて沈詢を殺した。