資治通鑑唐紀 懿宗昭聖恭惠孝皇帝上 咸通六年 六年 745年

正月・懿安皇后の配享

  • 正月丁巳、はじめて懿安皇后が憲宗廟に配享された。
  • かつて異論のあった問題だが、この時、礼院検討官となっていた王皥が前説を重ねて奏し、朝廷は最終的にこれを採用した。

宦官と福建

  • 諸道が宮中に献ずる私白は福建産が多く、そのため宦官にも閩人が多かった。
  • 福建観察使杜宣猷は、寒食ごとに役人を派遣して宦官たちの祖先の墓を祭らせたため、彼らの感謝を得て宣歙観察使に昇った。
  • 当時の人はこれを皮肉って「勅使墓戸」と呼んだ。

三月から六月・宰相交替

  • 三月、蕭寘が死去した。
  • 四月、高璩が宰相となった。彼は高元裕の子である。
  • 楊収は、南蛮との戦が長引き、両河の兵が嶺南の瘴霧の地で多数死んでいることから、江西に粟を蓄え、強弩三万人を募って嶺南を後方支援する節鎮を設けるべきだと主張した。
  • 朝廷はこれを認め、五月、洪州に鎮南軍を置いた。
  • 六月には高璩が死に、徐商が宰相となった。

嶲州再失陥

  • 嶲州刺史喻士珍は貪欲で狡猾であり、両林蛮を掠めて黄金と交換していた。
  • そのため南詔が再び嶲州を攻めると、怨んでいた両林蛮が城門を開いて迎え入れた。
  • 南詔は戍卒を皆殺しにし、喻士珍は降伏した。
  • 五月のうちに、桂管観察使厳譔が鎮南節度使に任じられた。厳震の一族である。

七月以後・高駢の出陣準備

  • 七月、皇子の侃を郢王、儼を普王に封じた。
  • 高駢は海門で軍備を整えていたが、監軍の李維周は高駢を憎み、彼を排除しようとして、たびたび出兵を急がせた。
  • 高駢は五千人を率いてまず渡江し、李維周には後続を送るよう約して出発した。
  • しかし李維周は残兵を抱えたまま一兵も出さず、高駢に援軍を続けなかった。

九月・南定での勝利

  • 高駢は九月、南定に到着した。峯州の蛮兵は五万近くいて、ちょうど収穫中だった。
  • 高駢はこれを奇襲して大破し、敵の収穫した糧食を奪って自軍の食とした。
  • これにより長期戦を支える基盤を得た。

十二月・鄭太后崩御

  • 十二月、太皇太后鄭氏が崩じた。