資治通鑑唐紀 懿宗昭聖恭惠孝皇帝上 咸通三年 三年 742年

正月・尊号と宰相人事

  • 正月朔日、群臣は懿宗に「睿文明聖孝徳皇帝」の尊号を奉った。
  • 蔣伸は河中節度使に出され、宰相構成が改められた。

二月・南詔の再侵攻と蔡襲起用

  • 棣王惴が薨去した。
  • 南詔は再び安南を侵し、経略使王寛はたびたび危急を告げた。
  • 朝廷は前湖南観察使蔡襲をその後任に据え、さらに許・滑・徐・汴・荆襄・潭・鄂など諸道から兵を発してこれに授けた。
  • 唐の軍勢が増強されると、南詔軍はいったん退いた。

邕州失陥の責任追及

  • 邕管経略使段文楚は、旧制を変えて土軍募集へ切り替えたことが問題視され、威衛将軍分司に左遷された。

蔡京の登用

  • 左庶子蔡京は、貪虐で虚偽も多かったが、時の宰相たちは行政手腕があるとして重用した。
  • 三月、蔡京は上奏して意にかなったため、太僕卿を権知し、荆襄以南宣慰安撫使となった。

四月・懿宗の仏教偏重

  • 四月朔日、東西の二街にある四大寺に戒壇を設け、二十一日間にわたり得度を許す詔が出た。
  • 懿宗は仏教を過度に信奉し、咸泰殿に壇を築いて内寺尼に受戒させ、僧尼を禁中に招き、みずから経を唱え梵夾を筆写した。
  • 寺々への行幸と施与も度を越え、政治はおろそかになった。
  • 吏部侍郎蕭倣は上疏し、老子の教えは慈倹、孔子の道は仁義を本とするのであって、帝王が仏の出家や来世の果報を慕うのはふさわしくないと諫め、延英で臣下と政務を議し、賞罰の過失を慎み、講経をやめて政事に勤しむべきだと説いた。
  • しかし懿宗は賞しただけで実行しなかった。

嶺南の二道分割

  • 嶺南は本来、広・桂・邕・容・安南の五管を一つの嶺南節度使が統轄していた。
  • 蔡京はこれを東西二道に分割するよう請い、五月、広州を東道、邕州を西道とし、桂管の龔・象二州、容管の藤・巖二州を邕管に属させた。
  • さらに韋宙を東道節度使、蔡京を西道節度使とした。

安南防衛の弱体化

  • 蔡襲は諸道兵を率いて安南にあったが、蔡京はこれを妬み、南蛮は遠くへ退き国境の憂いはない、武人が功を求めて兵を留めているだけだと奏した。
  • 朝廷はこれを信じて戍兵を各道へ帰還させた。
  • 蔡襲は、蛮軍は隙を窺って久しく、交趾では兵糧も足りず、なお五千人は残すべきだと繰り返し願ったが聞き入れられなかった。
  • 追い詰められた蔡襲は「十必死状」を作って中書省へ送り、必敗を覚悟して警告したが、宰相たちは蔡京の言を信じ、省みなかった。

七月・徐州軍乱

  • 七月、徐州で軍が乱れ、節度使温璋を追放した。
  • 徐州では、王智興以来の精鋭二千人が銀刀・彫旗・門槍・挾馬など七軍として編成されていたが、後任の多くが文臣だったため、兵は次第に驕慢となっていた。
  • 先任の田牟は彼らにへつらい、飲酒し肩を抱くほどだったが、それでも要求は尽きなかった。
  • 温璋は性格が厳しいと知られていたため兵は恐れ、慰撫しても猜疑を解かず、ついに聚衆して逐った。
  • 朝廷は温璋に非がないとみて邠寧節度使に移し、浙東で裘甫を平定した王式を武寧節度使に任じた。
  • 王式に従って浙東に残っていた忠武・義成両軍も、徐州平定のため同行するよう命じられた。これを聞いた驕兵は大いに恐れた。

八月・王式による銀刀軍粛清

  • 王式が大彭館に到着し、徐州に入って三日後、両鎮の将士を饗応したのち、帰還の支度をしたところで甲冑を着せ兵器を執らせ、驕兵を包囲させた。
  • こうして銀刀軍の都将邵沢ら数千人はことごとく誅殺され、徐州の長年の乱源は一掃された。
  • 続いて詔が出され、徐州は従来の節度使額を改めて団練使に格下げされ、兗海節度の管下とされた。
  • 濠州は淮南へ戻され、宿州には新たに宿泗都団練観察使が置かれた。
  • 徐州には三千人だけを残し、その他の兵は兗州・宿州へ分配され、王式は将兵整理を終えたのち諸軍を帰還させ、自身は京師へ向かうことになった。
  • 銀刀軍の逃散者には、一か月以内に自首すれば不問とする措置も取られた。

嶺南西道の混乱と蔡京の最期

  • 蔡京は嶺南西道で苛酷な政治を行い、炮烙の刑まで設けたため、領内の怨みを一身に集めた。
  • ついに邕州の軍士に追われ、藤州へ逃れた。
  • 偽の敕書と討賊印を作って郷丁や土軍を募り邕州奪回を図ったが、寄せ集めのためたびたび敗北した。
  • 桂州へ逃れようとしたが、桂州側は、蔡京の二道分割で自らの管轄が削られたことを恨んで受け入れなかった。
  • 朝廷は崖州司戸へ左遷したが、蔡京は任地へ行かず、零陵まで戻ったところで自尽を命じられた。
  • その後、鄭愚が嶺南西道節度使となった。

十月以後・諸王の封建と安南危機再燃

  • 十月、皇子の佾を魏王、侹を凉王、佶を蜀王に封じた。
  • 十一月には順宗の子緝を蘄王、憲宗の子憤を榮王に封じた。
  • この冬、南詔は諸蛮五万を率いて安南を攻めた。
  • 都護蔡襲は急を告げ、朝廷は荆南・湖南から兵二千、桂管の義征子弟三千を邕州に集め、鄭愚の節制に付させた。
  • 韋宙は、蛮軍はまず邕州へ向かうはずなので、邕州の保護を先にしなければ補給路を断たれると警告した。
  • 朝廷は蔡襲に海門へ屯するよう命じたが、その命令が届いた時にはすでに交趾が包囲されており、救援は間に合わなかった。
  • 十二月、蔡襲はなお援兵を求め、山南東道から弩手千人を送らせたが、南詔はすでに交趾を囲んでいた。
  • またこの年、吐蕃の奴隷出身集団である嗢末が初めて入貢した。吐蕃の混乱で主を失った奴隷たちが各地に部落を作り、弱った吐蕃本体が逆に彼らに依存するようになっていた。