資治通鑑唐紀 懿宗昭聖恭惠孝皇帝上 咸通二年 二年 741年

正月・安南救援命令

  • 正月、朝廷は邕管および近隣諸道に命じて兵を発し、安南を救わせ、南蛮を討たせた。

二月・白敏中の外任と杜悰の対応

  • 白敏中は中書令のまま鳳翔節度使に出され、杜悰が門下侍郎同平章事を兼ねた。
  • この頃、枢密使と宣徽使楊公慶が中書に来て、宣宗が危篤時に鄆王監国を請うた旧文書を杜悰に示し、当時の宰相を反逆として論ずべきだとほのめかした。
  • 杜悰はこれを読み返したのち、「新帝即位で天下は喜んでいる今、臣下が軽々しく見るべき文書ではない。もし宰相を罪するなら延英で明旨を示して行うべきだ」と退けた。
  • さらに、宰相と枢密がともに国政を支えるのだから、即位直後から宰相誅殺を軽々しく賛成すべきではないと説いた。枢密使たちは黙して退き、その後この件は立ち消えとなった。

宦官忌避の風潮

  • 当時の士大夫は宦官を深く嫌っており、少しでも関わりがあれば激しく非難した。
  • 建州の進士葉京は、かつて宣武軍の宴で顔見知りとなった監軍に、長安の路上で馬上から挨拶しただけで物議を醸し、そのまま官途を閉ざされた。

福王の死

  • 福王綰が薨去した。

六月・安南の再奪回と李鄠処分

  • 王寛が安南経略使に任じられた。
  • 李鄠は武州から土軍を集めて諸蛮を攻め、安南を奪い返した。朝廷はそれでも失守の責任を問うて儋州司戸に左遷した。
  • 李鄠は赴任早々、蛮酋杜守澄を殺しており、その一族・党類が諸蛮を誘って交趾陥落を招いたとみなされた。
  • 朝廷は杜氏の勢力が強大であることを考え、かえって杜守澄の父・杜存誠に金吾将軍を追贈し、李鄠の責任を改めて論じて崖州への長流とした。

七月・邕州陥落

  • 南詔は邕州を攻め落とした。
  • もともと広州・桂州・容州の三道は共同で兵三千を邕州に派遣し、三年ごとに交代していた。ところが段文楚は三道の衣糧を利用して土軍を募れば足りると奏し、朝廷もこれを許した。
  • だが募集できたのは五百人ほどでしかなく、その後、李蒙が欠員分の衣糧を自らの利益に回すため三道の戍卒を全て罷免したため、左右江の守りは旧来より七、八割も減った。
  • そのため南詔軍は虚を突いて侵入し、赴任後わずか十日の経略使李弘源は防ぐ兵がなく、城陥落とともに監軍と巒州へ逃れた。
  • 二十日余りして南詔が去ると帰還したが、その失態により李弘源は建州司戸へ左遷された。
  • 段文楚はその時すでに殿中監だったが、再び邕管経略使として現地へ戻され、見れば城邑と民戸は壊滅的で、十のうち一も残っていなかった。彼は段秀実の孫である。

南詔への宥和策

  • 杜悰は、南詔は長年唐に服しており、蜀は長く戦乱なく保たれてきたのだから、今軽々しく断交すべきではないと主張した。
  • そして、新王の名が唐の廟諱に触れるため冊命を見合わせているだけだと説明し、改名・謝恩があれば正式に冊命する、という形で使者を送り慰諭すべきだと述べ、懿宗もこれに従った。
  • 左司郎中孟穆が弔祭使に命じられたが、その出発前に南詔が嶲州を寇し、邛崍関まで攻めたため、ついに派遣は実現しなかった。

十月以後・人事

  • 十月、鄭涯が山南東道節度使となった。
  • 十一月には同平章事を加えられた。

三年正月の尊号準備に向けた政治再編

  • 年末にかけて朝廷は引き続き西南防衛に追われつつ、中央では宰相・藩鎮の人事が続いた。