資治通鑑唐紀 懿宗昭聖恭惠孝皇帝上 咸通元年 一年 740年
春正月・浙東で裘甫の乱が拡大
- 正月、浙東軍は台州唐興県の天台山にある桐柏観前で裘甫と戦ったが、范居植が戦死し、劉勍も辛うじて逃れた。
- その後、裘甫は千余人を率いて剡県を陥落させ、府庫を開いて壮士を募ったため、たちまち数千人規模に膨れ上がった。
- 当時の二浙は長く平穏で、住民も兵も戦いに不慣れであり、武器も老朽化していた。越州の守備兵は三百人にも満たず、観察使鄭祗徳は新兵を募ったが、軍吏が賄賂を受けて虚弱な者ばかりを採用した。
二月・三渓の敗戦と賊軍の膨張
- 鄭祗徳は子将・沈君縦、副将・張公署、望海鎮将・李珪らに新募兵五百を与えて討伐に向かわせた。
- 二月、官軍は剡西の三渓で裘甫軍と戦ったが、賊は南岸に伏兵を置き、上流をせき止めて徒渉できるように見せかけた。官軍が追撃して半ば川を渡ったところで堰を切ったため、大水に呑まれて大敗し、三将は戦死、軍も壊滅に近い損害を受けた。
- これを機に山海の盗賊や他道の無頼・亡命者が四方から集まり、裘甫の軍は三万人、三十二隊にまで増えた。
- その内部では、謀略に長けた者として劉暀、武勇の士として劉慶・劉從簡らが頭角を現した。
- 裘甫は「天下都知兵馬使」を称し、年号を「羅平」と改め、印を鋳造し、資糧を集積して武器を整えたため、その声勢は中原にまで響いた。
宣宗の葬送と越州の動揺
- 宣宗は貞陵に葬られ、廟号を宣宗とされた。
- 白敏中は入朝の際に階段から落ちて腰を傷め、肩輿で帰宅した。
- 鄭祗徳はたびたび救援を求め、浙西から凌茂貞、宣歙から白琮が兵を率いて赴いたが、越州の守備は動揺したままだった。
- 鄭祗徳は一度は郭門や東小江に兵を置いたものの、やがてこれを城内へ引き戻して自衛に専念した。
- 救援軍への給養は通常の十三倍にも膨らんだが、将士はなお不足を訴え、出撃には職や勲級を先に要求し、実際には戦おうとしなかった。
- 賊の遊騎が平水東の小江にまで現れると、越州の士民は舟と食糧を備えて夜を明かし、逃亡の準備を始めた。
王式の起用
- 朝廷は鄭祗徳の怯懦を知り、代将の選定を議した。夏侯孜は、浙東は山海の険阻ゆえに力攻めより計略向きであり、前安南都護の王式なら任せられると推した。
- 王式は召されて入対し、兵さえ与えれば必ず平定できると述べた。
- 側近の宦官が軍費を惜しむと、王式は「兵が多ければ早く賊を破れてむしろ出費は少なくて済む。少兵で手間取れば江淮全体の治安と国家財政が危うくなる」と論じ、懿宗を納得させた。
- そこで忠武・義成・淮南など諸道の兵が王式に与えられ、王式は浙東観察使に任命され、鄭祗徳は太子賓客へ移された。
三月・諸州への掠奪
- 裘甫は兵を分けて衢州・婺州を襲ったが、婺州の房郅・楼曾、衢州の方景深らが険阻を守ったため、侵入は阻まれた。
- また明州方面にも兵を送ったが、明州の住民は自ら資財を出し合って勇士を募り、兵器を整え、柵・溝・橋の破壊など防備を固めた。
- さらに台州を襲って唐興を破り、裘甫自身は一万人余りを率いて上虞を焼き、餘姚に入って丞・尉を殺し、慈溪・奉化を破って寧海に至り、県令を殺して拠点とした。
- 象山も包囲し、通過地では壮年を虜にし、老弱は踏みにじって殺した。
- しかし王式の任命が布告されると、浙東の人心はやや落ち着いた。
劉暀の大戦略と裘甫の逡巡
- 裘甫が酒宴の最中に王式着任の報を聞いて不快を示すと、劉暀は大軍を擁しながら方針が定まらないことを惜しみ、ただちに越州を奪うべきだと進言した。
- 具体的には、越州に拠って府庫を押さえ、西陵に五千を置いて浙江線を守り、舟艦を集めて浙西へ進出し、さらに揚州を掠めて財貨を得、石頭城を修復して守る構想だった。福建攻略と江西・宣歙の呼応まで見込んでいた。
- 裘甫は「酔っている、明日また議そう」と退け、劉暀は怒って席を去った。
- 賊中にいた進士王輅は、劉暀の策は孫権のような乱世の覇業であり、今の天下では成就し難いとして、険阻に拠って自守し、海島に逃げ込める態勢を取るのが得策だと説いた。
- 裘甫は王式を恐れつつも決断できず、進退窮まることになる。
四月・王式の越州着任と軍政刷新
- 王式が柿口に至ると、義成軍の規律の乱れを見て将を斬ろうとしたほどで、その威圧により軍の進発先では人影もないほど静まり返った。
- 裘甫は使者を出して降伏を申し入れたが、王式はこれを時間稼ぎと見抜き、本人が縛されて来るなら死罪を免じるとだけ答えた。
- 王式は越州に入ると、前任の鄭祗徳の送別宴をあえて盛大に開き、「自分がいるかぎり賊が宴を妨げることはない」と公然と言って将士を安心させた。
- その後ただちに軍令を整備し、食糧不足を訴える者、病を装う者、官職を先に求める者を一掃し、軍の空気を一変させた。
内通者の粛清と軍制の立て直し
- 賊将の洪師簡・許会能が部下を率いて降ると、王式は前線で功績を立てれば官を奏請すると告げ、これを前鋒に用いた。
- それ以前、越州には賊の間者が潜入し、軍吏がこれを匿っていた。文武の将吏の中にも賊と密通し、城破の日の助命や妻子保全を求める者、降伏を装って城内の虚実を探らせる者が多く、密談はすべて賊に漏れていた。
- 王式はこれを密かに探知して徹底的に捕らえ、特に横暴で狡猾な者を処刑した。
- 城門の出入りを厳格にし、夜警も密にして、以後は賊が官軍の動きを把握できなくなった。
- また諸県に命じて倉廩を開き、貧民を救済した。兵糧不足を懸念する声もあったが、王式は「飢民が賊の糧食に引かれて盗賊化するのを防ぎ、賊が倉を奪って補給するのも防ぐためだ」と考えた。
騎兵・土団の編成
- 官軍には騎兵が少なかったため、王式は府内に配属されていた吐蕃・回鶻系の者から、険阻や騎馬戦に慣れた者を百余人選び出した。彼らは長く羈旅の身で遇し方も悪く困窮していたが、王式は手厚く労い、その家族にも施したため、皆涙して奮戦を誓った。
- これを石宗本に率いさせ、さらに龍陂監の馬二百匹を得て騎兵戦力を補った。
- のろし台の設置を求める声もあったが、王式は応じず、代わりに臆病な兵に健馬と少数の武器だけを与えて候騎とした。敵に遭えば無理に戦わず、確実に報告を持ち帰らせるためだった。
- 各営と土団の子弟を点検し、四千人を選び出して案内兵とし、府内の守備には別に土団千人を補った。
官軍の反攻開始
- 王式は宣歙の白琮、浙西の凌茂貞、土団の韓宗政、騎兵の石宗本らを東路軍として上虞から奉化へ進ませ、象山の囲みを解かせた。
- また義成の白宗建、忠武の游君楚、淮南の万璘らを南路軍として台州・唐興方面に進ませた。
- その際、王式は「険地を争うな、民家を焼くな、平民を首級稼ぎで殺すな、脅迫されて従う者は降伏を募れ、財物は官が問わない、虜は越人なのだから放て」と命じた。
- 南路軍は沃洲寨・新昌寨を落とし、毛応天を破って唐興を奪回した。
白敏中辞位問題と王譜の左遷
- 白敏中は重病を理由に三度にわたり辞職を願った。
- 右補闕王譜は、懿宗の治世が始まったばかりの時期に宰相が長く病臥していては国政に支障があるとして、敏中の退任を認めて有徳者を登用すべきだと上疏した。
- 懿宗はこれを嫌って王譜を陽翟令に左遷した。王譜は名臣王珪の六世孫である。
五月・官軍優勢へ
- 給事中鄭公輿は王譜左遷の詔書を差し戻したが、宰相たちは王譜が白敏中を侵したとして結局左遷を認めた。
- 東路軍は寧海で孫馬騎を破り、南路軍は唐興南谷で劉暀・毛応天を大破し、毛応天を斬った。
- 王式は兵力不足を訴えてさらに忠武・義成・昭義の兵を請い、朝廷はこれを許した。
- 増援到着後、張茵を唐興に置いて賊の南走を断ち、高羅鋭には台州土軍を加えて寧海へ直進させ、昭義の奚跌戣には東路軍を増強して明州方面への通路を断たせた。
海遊鎮・甬溪洞での連戦
- 南路軍は海遊鎮で賊を大破し、賊が甬溪洞へ退くと、洞口まで追撃して再び打ち破った。
- 高羅鋭は別働の劉平天の寨を襲って破り、以後も官軍は十九戦して連勝した。
- 劉暀は「以前に自分の策を採って越州へ入っていれば、今の窮地はなかった」と裘甫を責めた。
- 賊中にいた王輅ら数人の進士は緑衣を着ていたため、劉暀は「自分の策を乱した青虫だ」と罵ってこれを皆殺しにした。
海路封鎖と裘甫の退路遮断
- 高羅鋭は寧海を回復し、散り散りになっていた住民七千余人を収容した。
- 王式は、賊は窮乏し飢えているため海へ逃げ込む可能性が高いと見て、高羅鋭を海口に配置し、水軍には雲思益・王克容を命じて海辺を巡らせた。
- 水軍は寧海東で劉簡の兵に遭遇し、賊が海上兵力を予想していなかったため、船十七艘を奪って焼き払った。
- 王式は、これで賊の逃げ道は黄罕嶺を経て剡へ入る道くらいだと判断した。
- まもなく裘甫は寧海を失い、万余の兵を率いて南陳館に屯した。
六月・南陳館敗北と裘甫の剡城帰還
- 東路軍は上疁村で孫馬騎を破り、賊将王臯は恐れて降伏した。
- 右拾遺薛調は、兵乱以後の過重な徴発で逃戸が盗賊化しているとして、討伐は必要でも民を憐れみ、税外の科率を禁じるべきだと述べ、朝廷はこれに従った。
- 東路軍は南陳館で裘甫軍を大破し、首級数千を挙げた。賊は繒帛を道に投げ捨てて追撃を鈍らせようとしたが、奚跌戣は拾う者を斬ると命じて追撃を貫徹した。
- 裘甫は黄罕嶺を越えて剡へ逃げ帰った。
剡城包囲と裘甫の捕縛
- 張茵は唐興で捕えた俘虜の案内で裘甫が剡へ入ったことを知り、一日遅れで追ってその東南に布陣した。越州では再び大恐慌が起きたが、王式は「賊が自ら捕らえられに来たようなものだ」と見て、東南両路軍に剡へ集結するよう命じた。
- 官軍は剡城を包囲したが、城は堅固で賊はよく守り、三日間で計八十三回もの戦闘になった。賊は敗れながらも官軍にも疲労が蓄積した。
- 賊が降伏を申し出ると、諸将は王式に報じたが、王式は単なる休息狙いと見て、いっそう備えを厳重にさせた。
- 予想どおり賊は再び出撃して三度戦ったのち、庚子の夜、裘甫・劉暀・劉慶らは百余人とともに出城し降伏を装った。官軍は急進してその後方を断ち、ついにこれを捕えた。
- 壬寅、裘甫らは越州に送られ、王式は劉暀・劉慶ら二十余人を腰斬し、裘甫には械をかけて長安へ送った。
劉從簡の脱出と乱の終息
- 剡城はなお落ちていなかったが、諸将は裘甫を捕えたことで油断した。その隙に劉從簡は壮士五百を率いて包囲を突破し、大蘭山へ退いて険阻に拠った。
- 七月、諸将は大蘭山を攻め落とした。台州刺史李師望は降人に、賊を捕らえ斬れば贖罪を認めると募り、劉從簡の首を得て献上した。
- 諸将が越州に帰ると、王式は盛大な酒宴を開いた。将士がその用兵を問うと、王式は、貧民救済・のろし不設置・臆病兵の候騎起用にはそれぞれ明確な意図があったと説明し、皆これに感服した。
八月以後・裘甫処刑と論功
- 八月、裘甫は長安に着くと東市で斬られた。
- 王式は検校右散騎常侍を加えられ、諸将にもそれぞれ賞が与えられた。
- 夏侯孜は以前から王式の才を信じ、必要な軍需は細大なく支援していたため、王式は十分な兵力と物資をもって功を成し遂げることができた。
九月・白敏中の退任と李徳裕の追復
- 白敏中は五度にわたり辞表を出し、ついに司徒・中書令となった。
- 右拾遺劉鄴は、かつて李徳裕父子が宰相として功績を立てたにもかかわらず、その一族が流罪ののち零落していることを哀れみ、せめて官を追贈すべきだと上言した。
- 十月、詔して李徳裕に太子少保・衛国公を復し、さらに左僕射を追贈した。
西川・安南情勢と改元
- 夏侯孜は同平章事のまま西川節度使に転じ、畢諴が宰相に加わった。
- 安南都護李鄠は播州を再び奪回したが、これは本来の管轄外に越境して功名を求めたもので、その間に南詔側は安南本体を窺っていた。
- 十一月、懿宗は円丘に祀り、大赦を行って年号を咸通と改めた。
- 十二月、安南の土蛮が南詔軍三万余とともに虚を突いて交趾を攻め落とし、都護李鄠と監軍は武州へ逃れた。