資治通鑑唐紀 宣宗 大中十三年 739年

春正月・三月 大同軍の設置

  • 正月朔、天下に大赦が行われた。
  • 三月、河東から雲州・蔚州・朔州の三州を割いて大同軍に属させた。

夏四月 于琮尚主と康季榮追放

  • 四月、校書郎の于琮が左拾遺・内供奉となった。
  • もとは永福公主を降嫁させるつもりだったが、宣宗は食事の際に公主が箸を折るのを見て、こうした気性では士大夫の妻には向かないと考え、中止した。
  • 代わって広徳公主を于琮に降嫁させた。二人とも宣宗の娘であり、于琮は于敖の子である。
  • 武寧節度使の康季榮は士卒をいたわらず、ついに兵の騒擾で追放された。
  • 宣宗は、かつて徐州鎮撫で名声のあった田牟を再び武寧節度使に起用し、その地方は安定した。
  • 康季榮は嶺南へ流された。

六月・八月 彭王封建と宣宗の病

  • 六月、憲宗の子の惕が彭王に封ぜられた。
  • 宣宗の長子・鄆王温は寵愛がなく十六宅に住まわされ、他の皇子は皆禁中にいた。
  • 第三子の夔王滋は特に愛されていたが、年次が正統の継承順ではないため、宣宗は長く太子を立てなかった。
  • そのころ、医官の李玄伯、道士の虞紫芝、山人の王楽らの薬を服していた宣宗は、背中に癰ができ、八月には悪化した。
  • 宰相や朝士も拝見できなくなった。

後継をめぐる宦官の策動

  • 宣宗はひそかに夔王を、樞密使の王歸長・馬公儒、宣徽南院使の王居方に託し、立てさせようとした。
  • この三人と右軍中尉の王茂玄はいずれも平生から厚遇されていたが、左軍中尉の王宗実だけは心を同じくしていなかった。
  • そこで三人は王宗実を淮南監軍として外に出そうとした。
  • 王宗実はすでに勅を受け、宣化門から出て銀台門を通ろうとしていたが、副使の亓元実に、天子の病が月を越え、ただ隔門で起居するだけで出てよいのかと諫められた。
  • 王宗実は悟って引き返し、増員された守備を越えて寝殿に入り、すでに崩御して東首している宣宗を見た。
  • 王宗実は王歸長らを叱責し、矯詔を責め立てると、彼らは命乞いした。
  • そして宣徽北院使の斉元簡を遣わし、鄆王を迎えさせた。

八月壬辰・癸巳 懿宗即位

  • 壬辰、鄆王を皇太子とし、暫定的に軍国政事を句当させる詔が下され、名を漼と改めた。
  • 王歸長・馬公儒・王居方は捕えられて殺された。
  • 癸巳、遺制が宣布され、令狐綯が冢宰を摂した。
  • 宣宗は明察・沈断で、法の運用に私なく、諫言を受け入れ、官爵や賞賜を慎み、恭倹で民を愛したため、大中の政治は唐末まで慕われ、「小太宗」と称された。
  • 丙申、懿宗が即位した。
  • 癸卯、皇太后は太皇太后に尊ばれ、王宗実は驃騎上将軍となった。
  • 李玄伯・虞紫芝・王楽はみな誅殺された。

秋九月・冬十月・十一月・十二月 新帝期の人事と裘甫の乱

  • 九月、宣宗の生母・晁昭容は元昭皇太后と追尊された。
  • 魏博節度使の何弘敬は中書令を兼ね、幽州節度使の張允伸も同平章事となった。
  • 十月、天下に大赦があった。
  • 十一月、門下侍郎・同平章事の蕭鄴は荆南節度使に出された。
  • 十二月、翰林学士承旨・兵部侍郎の杜審権が同平章事となった。杜元穎の弟の子である。
  • 浙東では賊帥の裘甫が象山を陥落させ、官軍はたびたび敗れ、明州城門は昼でも閉ざされたままとなり、さらに剡県へ迫った。兵力は百人ほどから始まったが、浙東全体が騒然となった。
  • 観察使の鄭祇徳は、討撃副使の劉勍と副将の范居植に三百兵を与え、さらに台州軍を合わせて討たせた。
  • 一方、令狐綯は長年政権を握ってきたが、勝る者を忌み、内外に恐れられ、子の令狐滈も権勢を借りて賄賂を受けていた。宣宗の死後、言事者が競ってその欠点を攻撃した。
  • 丁酉、令狐綯は河中節度使へ出され、白敏中が司徒・門下侍郎・同平章事として政権に復した。

南詔との関係悪化

  • かつて韋皋は西川で青溪道を開き、群蛮の子弟を成都に集めて教育し、五十年にわたって懐柔と羈縻を進めていた。
  • しかし時がたつと、軍府はその供給負担を嫌い、また蛮使の従者も増えすぎたため、西川節度使の杜悰がその人数削減を願い出て、朝廷も認めた。
  • 南詔王の豊祐はこれに怒り、賀冬の使者は表文だけ嶲州に残して帰り、人質同然に成都で学んでいた子弟の返還を横柄に要求した。
  • その後、朝貢は不定期となり、辺境への圧迫も強まった。
  • ちょうど宣宗が崩じて告哀使が遣わされたとき、南詔でも豊祐が死に、子の酋龍が立っていた。
  • 酋龍は、自国の喪には朝廷から弔祭がなく、しかも送られてきた詔書は故王に与える内容だと怒り、使者を外館に留めて礼遇を著しく薄くした。
  • 使者が帰って報告すると、懿宗は酋龍が自ら告喪しなかったこと、またその名が玄宗の諱に近いことを理由に冊封を行わなかった。
  • そこで酋龍は自ら皇帝を称し、国号を大礼とし、建極と改元して、播州を陥れた。