資治通鑑唐紀 宣宗 大中十二年 738年

春正月 王式の安南赴任

  • 正月、康王傅・分司の王式が安南都護・経略使に任じられた。
  • 王式は才略のある人物で、交趾に着くと芀木で長持ちする柵を築き、その外側に深い濠をめぐらせ、さらに竹を植えて防備を固めた。
  • 兵卒も選抜・訓練して鋭兵とした。
  • ほどなく南蛮が交趾近くまで来たが、王式は落ち着いて使者に説得させ、その利害を突いたため、蛮兵は一夜で退いた。彼らは、自分たちは叛獠を捕えるだけで、唐に侵入するつもりはないと謝した。

羅行恭・杜守澄の排除

  • 安南では都校の羅行恭が長年府政を専断し、精兵二千を握っていたのに対し、都護中軍は疲弊兵数百にすぎなかった。
  • 王式は着任すると羅行恭を杖打ちし、辺境へ追放した。
  • また、代々溪洞に勢力を持つ杜守澄については、その親党を離間させて追い詰め、ついに敗死させた。

二月 劉瑑の入相と崔慎由との議論

  • 劉瑑はもとは翰林学士として宣宗に重んじられ、当時は河東節度使であったが、手詔で召し返され、外部には奏発されるまで極秘にされた。
  • 戊午、同平章事となった。劉仁軌の五世孫である。
  • 上前で政務を論じた際、崔慎由はまず品流の甄別をすべきだと述べたが、劉瑑は、昔の王衍のように虚華に流れて門地ばかりを論じれば国を誤る、盛世には名実を責め、各官がその職に称うかを先にすべきだと反論した。
  • 崔慎由は答えに窮した。

軒轅集の進言

  • 軒轅集が長安に着くと、宣宗は禁中に召して長生の術を学べるかと問うた。
  • 軒轅集は、王者が欲望を退け徳を崇べば自然に長寿の福を受けるのであって、ほかに長生を求める必要はないと答えた。
  • 数か月滞在した後、強く山へ帰ることを求め、ようやく帰山を許された。

二月 諸陵礼の変更

  • 二月朔、光陵への公卿朝拝や忌日の行香は廃され、諸陵にいた宮人も他陵へ移された。
  • これは穆宗系の諸帝に対する宣宗の複雑な姿勢を示すものでもある。

戊辰 崔慎由の外転

  • 戊辰、崔慎由は東川節度使へ出された。
  • 宣宗が御楼して大赦を行いたいと述べたとき、令狐綯は費用も名分も必要であり、赦はたびたび行うべきでないと答えた。
  • 宣宗が、では何を名目にすればよいのかと不満を示すと、崔慎由は、まだ太子が立っておらず天下が期待しているのだから、その礼を行うなら郊祀にも匹敵する名分になると述べた。
  • このころ宣宗は方士の薬を服していて、煩躁と口渇を覚え始めていたが、外部にはまだ知られていなかった。太子の話に強い疑忌を抱き、黙してそれ以上言わなかった。
  • 十日ほどして崔慎由は罷められた。

勃海と嶺南・宰相人事

  • 勃海王の彞震が死去し、その弟の䖍晃が勃海王に立てられた。
  • 四月、右街使・駙馬都尉の劉異が邠寧節度使となった。安平公主の夫で、宣宗の妹婿にあたる。
  • 同月、嶺南都将の王令寰が乱を起こして節度使の楊発を幽閉した。楊発は蘇州の人である。
  • 五月、兵部侍郎・塩鉄転運使の夏侯孜が同平章事となった。
  • 劉瑑は重病の中でも手ずから上疏して政務を論じ、宣宗はその死を深く惜しんだ。

嶺南・湖南・江西の軍乱

  • 当初、李燧が嶺南節度使に任じられ、中使が節を届けるところまで進んだが、給事中の蕭倣が制書を封還したため、節は門前で引き返した。
  • 辛巳、涇原節度使の李承勛が改めて嶺南節度使となり、近隣諸道の兵を発して乱を平定した。
  • 同じ日に湖南でも軍乱が起こり、都将の石載順らが観察使の韓悰を追放し、都押牙の王桂直を殺した。韓悰は将士への礼を欠いていたため禍を招いた。
  • 六月には江西でも都将の毛鶴が観察使の鄭憲を追放した。

安南蛮患の由来

  • 以前、安南都護の李涿は貪暴で、蛮中の馬牛を塩一斗という安値で強買いし、また蛮酋の杜存誠を殺したため、諸蛮は深く怨んだ。
  • 峯州西方の林西原にはもと六千の防冬兵が置かれ、周辺七綰洞の酋長・李由独が唐のために守備し租税も納めていた。
  • しかし州官が李涿に防冬兵の廃止を勧め、由独一人に防衛を任せたため、勢力を保てなくなった。
  • 南詔の拓東節度使はこれを誘い、外甥の娘をその子に娶わせて官職を与えたため、李由独は南詔に臣属した。
  • こうして安南の蛮患が本格化し、この月ついに蛮が安南へ侵攻した。

秋七月・八月 宣州乱と王式の鎮圧

  • 七月、宣州でも都将の康全泰が乱を起こし、観察使の鄭薰を追放した。
  • 右補闕・内供奉の張潜は、藩府交代の際に倉庫の余剰財貨が多いことを功績とする風潮が、過酷な徴斂や兵糧削減を生み、南方諸鎮の騒乱の原因になっていると論じた。
  • 皇帝はこれを嘉納し、今後は徴斂を増やさず糧賜も削らず、遊宴や浮費を節して余剰を出す者だけを賞すべきだとした。
  • 容管では都虞候の来正が謀叛したが、宋涯が捕えて斬った。
  • 李承勛は忠武軍の黄頭軍百人を率いて嶺南を平定し、宋涯もその服装を模倣させて容州を鎮めた。
  • 安南では悪民がこれを聞いて、黄頭軍が海を渡って来ると恐れ、交趾城を夜襲して都護を北へ送れと騒いだ。
  • 王式は食事中に逃げるなと勧められても動かず、食後に甲を着て城上に登り、大将旗を立てて座し、乱者を叱責した。彼らはたちまち退散し、翌日には全員が捕らえられて誅された。
  • 安南は飢饉と騒乱が続いて六年間上供が途絶えていたが、王式は貢賦を回復し、将士を饗応し、占城・真臘との往来も復活させた。

八月・十月・十一月・十二月 水害・人事・蔣伸入相

  • 八月、崔鉉は宣州平定の兵を出したとして、兼任していた宣歙観察使にも就いた。
  • 温璋が宣州団練使とされ、のちに観察使となった。温造の子である。
  • 河南・河北・淮南は大水害となり、徐州・泗州では水深五丈に達し、数万家が流失した。
  • 十月、建州刺史の于延陵が辞見した際、宣宗は、建州は遠くともその善悪はすべて自分が知っている、ここ殿前は万里につながっているのだと諭した。于延陵は震え上がり、後に不職で復州司馬に落とされた。
  • 宣宗は刺史を京師へ召して面接し、その能力を見てから任命することを制度化し、令狐綯が故人を隣州へ便宜で転任させたことを厳しく責めた。
  • 宣宗は日々の朝対で群臣を賓客のように遇したが、威厳はきわめて厳しく、奏事の後になると急に和らいで雑談し、最後にはまた厳粛に、朕に背くなと戒めて退いた。
  • 徐商は山南東道で精兵数百を別営に置き、捕盗将と称していたが、湖南の逐帥事件平定にその部隊二百を送り、平定に成功した。
  • 十一月、温璋が宣歙観察使となった。
  • 蔣伸は、近ごろ官位が得やすくなり、人々が幸運をあてにするようになったと上奏した。宣宗はそれでは乱になると警戒し、蔣伸の進言を高く評価した。
  • 十二月、蔣伸は同平章事となった。
  • 韋宙は江西で毛鶴を討ち、徐商の捕盗将・韓季友が襄州から従い、江州から陸路を夜行して明け方には洪州へ着いて、即日平定した。
  • 韋宙は韓季友の部隊二百を江西に留め、彼を都虞候とした。