資治通鑑唐紀 宣宗 大中十一年 737年

春正月・二月 夏侯孜・韋澳・魏謩の転出

  • 正月、御史中丞兼尚書右丞の夏侯孜が戸部侍郎・判戸部事となった。
  • これに先立ち、戸部の欠員を京兆尹の韋澳で補おうとする意向があったが、韋澳は心力が衰え、繁劇に堪えないとして辞退し、小鎮への転出を願った。
  • 甥の柳玭はそれを非難したが、韋澳は、皇帝が宰相の合議なしに自分を用いれば、人々は別の道で地位を得たと思うだろうし、いま時事は次第に危うく、自分たちが名位を貪ることがその原因だと語った。
  • 丙辰、韋澳は河陽節度使に出された。
  • 二月、門下侍郎・同平章事の魏謩は西川節度使へ転出した。
  • 魏謩は宰相として上前で正面から率直に述べ、宣宗は彼に魏徴の家風があるとして重んじていたが、結局はその剛直さゆえに令狐綯に忌まれて外に出された。

華清宮行幸中止

  • 宣宗は華清宮へ行幸しようとしたが、諫官たちが強く反対したため中止した。
  • 宣宗は諫言を好み、諫官の論事や門下の封駁が理にかなう場合には、たびたび自分の意を曲げて従った。大臣の章疏も香を焚き手を洗ってから読んだという。

嶺南・安南の人事

  • 嶺南の溪洞蛮がしばしば侵盗したため、四月、宋涯が安南・邕管宣慰使となり、五月には安南経略使、六月にはさらに容管経略使へ転じた。
  • 容州では軍が乱を起こして経略使の王球を追放していたためである。
  • 六月、皇子の灌を衛王、澭を広王に立てた。

秋七月 蕭鄴入相と祝漢貞失寵

  • 七月、兵部侍郎・判度支の蕭鄴が同平章事となり、引き続き度支を判じた。
  • 教坊の祝漢貞は、弁舌と機知に富み、皇帝が物を指すと即座に詩や賦を口占して、あたかも前もって作っていたように応じたため、俳優たちの中でも最も寵愛されていた。
  • しかし、ある日、皇帝の前で外事にまで話題を及ぼして戯れたため、宣宗は、汝らを養っているのは笑いを供するためであり、朝政に口を出すなと厳しく叱った。
  • その後、祝漢貞は疎んじられ、子が贓罪で杖殺されると、本人も天徳軍へ流された。

羅程の処刑

  • 楽工の羅程は琵琶の名手で、武宗のころから寵愛され、宣宗も音律に通じていたため特に重んじていた。
  • だが恩寵を恃んで凶暴となり、些細な恨みから人を殺したため京兆の獄に繋がれた。
  • 楽工たちは後苑での奏楽の場に、羅程の席だけ空けて琵琶を置き、庭で泣いて助命を願った。
  • しかし宣宗は、彼らは技巧を惜しむが、自分は高祖・太宗以来の法を惜しむのだと述べ、結局羅程を杖殺した。

八月・九月・十月 成徳の相続と李承勛

  • 八月、成徳節度使の王紹鼎が死去した。酒色に溺れ、楼に登って人を射るのを楽しむような人物で、もともと軍中でも不満が高かった。
  • 軍中は弟の王紹懿を立て、朝廷は留後に任じた。
  • 九月、盧鈞は同平章事のまま山南西道節度使へ移った。
  • 十月、秦成防禦使の李承勛が涇原節度使に任じられた。李光弼の孫である。

尚延心をめぐる辺将の私利

  • これ以前、吐蕃酋長の尚延心が河州・渭州の部落を率いて帰降し、武衛将軍に任じられていた。
  • 李承勛はその羊馬や財貨を欲し、鳳林関に誘い入れて誅殺と財貨没収を図ろうとした。
  • 尚延心はそれを察知し、軍宴の席で、河・渭二州は人口が少なく、吐蕃も遠く疊宕の西へ退いているから、自分が部衆を内地へ移して唐民とし、西辺を永く安定させたい、と申し出た。
  • しかし諸将は、もし西辺が安定すれば秦州の使府や駐兵は削減され、自分たちの利益が失われると考えた。
  • 李承勛もそれに同意し、尚延心を河渭都遊奕使に任じて、結局その部衆を辺地に留めた。

鄭朗の退任・軒轅集・王端章

  • 鄭朗は病を理由に辞職を願い、太子太師となった。
  • 晩年の宣宗はやや神仙を好み、羅浮山の道士・軒轅集を中使に迎えさせた。
  • 王端章は前年の冊命使として回鶻へ向かったが、道が黒車子に塞がれて到達できず、そのまま帰還したため、賀州司馬に左遷された。
  • 十一月、王紹懿は正式に成徳節度使となった。
  • 十二月、蕭鄴は判度支を解かれた。