資治通鑑唐紀 宣宗 大中十年 736年

春正月・二月・三月 鄭朗入相と回鶻可汗冊命方針

  • 正月、御史大夫の鄭朗が工部尚書・同平章事となった。
  • 宣宗は裴休に時事を率直に言わせたところ、裴休は早く太子を立てるよう勧めたが、宣宗は太子を立てれば自分は閑人になると言って退けた。裴休はそれ以上言えなかった。
  • 二月、裴休は病を理由に辞職を願い出たが許されなかった。
  • 三月、宣宗は、回鶻はかつて国家に功があり、代々婚姻関係もあって、臣属して朝貢していたと述べた。
  • 会昌年間に回鶻本国が内乱で崩れた際、奸臣が政権にあってこれを滅ぼしたが、近ごろ降者が語るところでは、已厖歴が今は可汗となって安西にとどまっているという。
  • もし牙帳へ帰り復興するなら、改めて冊命を与える方針を示した。

夏五月 韋澳の京兆尹就任

  • 京兆の政務が長く乱れているとして、五月、翰林学士・工部侍郎の韋澳が京兆尹に任じられた。
  • 韋澳は公平で剛直であり、就任すると豪貴たちも勝手ができなくなった。
  • 鄭光の荘園の吏が長年横暴を働き、租税を納めていなかったため、韋澳は逮捕して枷をはめた。
  • 延英殿で皇帝が事情を問うと、韋澳は法に照らして処断したいと答えた。宣宗は鄭光がその者を非常に愛していると述べたが、韋澳は、もし重罪を軽くすれば法は貧民にだけ行われることになるとして譲らなかった。
  • 宣宗は、自分が鄭光のために法を曲げるのは恥ずべきことだと認め、死罪だけは免じて重く笞打ちし、未納租税を完納するまで拘禁する案を受け入れた。
  • 韋澳は帰庁後ただちにそれを実施し、租数百斛を徴収してからその吏を鄭光へ返した。

六月・九月 裴休の出鎮と韋厪事件

  • 六月、裴休は宣武節度使に出された。
  • 司農卿の韋厪は夏州節度使を求めており、それを知った術士が現れて、星辰に祈って官を得させられると言った。
  • 韋厪が夜に庭で醮を行わせると、術士は韋厪に望む官名を書かせ、それを得るや天に向かって、韋厪に異志があり自分に祭天させたと大声で叫んだ。
  • 韋厪は家族ともども泣いて命乞いし、財宝を与えて口止めしようとしたが、夜警に捕えられた術士がこのことを白状したため、朝廷に知られた。
  • 九月、宣宗は韋厪を召して問いただし、冤罪であると理解した上で、獄吏に辱めさせないよう術士を即座に京兆へ引き渡して杖殺させた。
  • ただし韋厪についても、こうした厭勝まがいの行為を招いた責任を問われ、永州司馬へ左遷された。

秋九月・冬十月 鄭顥の相位工作と回鶻冊命

  • 戸部侍郎・判戸部で駙馬都尉の鄭顥は、宰相になろうと強く働きかけた。
  • 父の鄭祇徳は手紙で、戸部を判じたと聞いて自分の死期だと思い、さらに宰相を求めていると聞いて死の日だと思った、と諫めた。
  • 鄭顥はそれを恐れ、しきりに劇務を辞した。
  • 十月、祕書監に移された。
  • 宣宗は回鶻を慰撫する使者を安西に遣わしたが、霊武に至ったところで、回鶻可汗の使者が入貢してきた。
  • 十一月、嗢祿登里羅日没密施合俱録毗伽懷建可汗として冊立し、衛尉少卿の王端章を使者とした。

太廟問題と李景讓

  • 吏部尚書の李景讓は、穆宗は宣宗の兄であり、敬宗・文宗・武宗はその甥だから、兄を拝するのはともかく甥を拝するのは礼に合わず、これでは七廟に親しく仕えることができないと上言した。
  • そこで四宗の神主を太廟から移し、代宗以下を入れるべきだと主張した。
  • 朝廷は百官に議させたが、結論は出ずに終わった。
  • 当時の人々は、李景讓が君主の好む議論に迎合したとして軽んじた。

僧尼受戒制度の整備

  • 靈感寺と会善寺に戒壇を置き、僧尼の補充は長老僧に選ばせ、公憑をもって両京の戒壇で受戒させる制度が命じられた。
  • 両京から高徳の僧十人ずつを選んで管理にあたらせ、不適格なら罷め、適格なら牒を与えて本州に返し、戒壇の公文がない者を私に容れてはならないとした。
  • まず旧僧尼から選び、それで足りなければ外部から補うこととした。

崔慎由の入相と蕭鄴見送り

  • 壬辰、戸部侍郎・判戸部の崔慎由が工部尚書・同平章事となった。
  • 宣宗は宰相任命を直前まで左右にも漏らさないことが多かったが、今回は前日に学士院へ、兵部侍郎・判度支の蕭鄴を宰相とするつもりだと伝えた。
  • ところが枢密使の王歸長・馬公儒が、蕭鄴が判度支を辞める必要があるかを覆奏したため、宣宗は彼らが蕭鄴を助けていると疑い、直筆で崔慎由の名を書いて新命を出した上、戸部判事を解くことだけを命じた。
  • 蕭鄴は梁の蕭淵明の八世孫である。

李敬寔の不敬処分

  • 内園使の李敬寔は、外出の際に鄭朗の馬を避けなかった。
  • 鄭朗が訴えると、李敬寔は供奉官は避馬しないのが例だと弁明したが、宣宗は勅命を帯びて公務で通行するならともかく、私出で宰相に無礼を働くのは許されないと叱責した。
  • その官色を剥奪し、南牙に配流した。