春正月・二月 成徳相続と李君奭の抜擢
- 正月、成徳軍から節度使の王元逵が死去したとの報があり、軍中ではその子で節度副使の王紹鼎を立てた。
- 朝廷は王紹鼎を成徳留後とした。
- 二月、醴泉県令の李君奭が懷州刺史に抜擢された。
- これは以前、宣宗が渭水で狩りをした際、佛祠に集まった十数人の老人から、李君奭の善政ゆえに任期満了後も留任を祈っていると聞いたことに基づくもので、宰相たちも意図を測れなかったが、入謝の際にその事情が語られて初めて知られた。
三月・閏四月 邠寧軍の復帰と差役簿制度
- 三月、邠寧節度使の畢諴は寧州から邠州へ本拠を戻すよう命じられた。
- もともと河湟回復直後で党項も未平定だったため、邠寧軍は寧州に移されていたが、南山・平夏とも安定し、威・塩・武三州の軍糧も足りるようになったためである。
- 閏四月、州県の差役が不均等であることを是正するため、各県ごとに民の貧富と役の軽重に応じた差科簿を作成し、刺史の検署を経て県庁に封じ保管し、以後の差役はその簿に基づいて決める制度が定められた。
五月 王紹鼎の正式任命と宣宗の記憶力
- 五月、王紹鼎は正式に成徳節度使に任じられた。
- 宣宗は記憶力がきわめて強く、宮中の掃除役に至るまで姓名と適性を覚え、罪獄の奏報に出る吏卒の名まで一目で記憶していた。
- 度支の奏文で「漬汚帛」の字を誤って「清」としたところ、枢密承旨の孫隠中が勝手に字を補った。中書で再審の過程で露見すると、宣宗は章奏を無断改変したとして厳しく調査し、処罰した。
地誌編纂と韋澳
- 宣宗は密かに翰林学士の韋澳へ、諸州の境域・風俗・産物・利害を整理した書を編ませ、自筆で上奏させた。子弟にも知らせず、『処分語』と名づけられた。
- のちに薛弘宗が鄧州刺史として入謝した際、皇帝の地方事情への具体的指示に驚いて韋澳に漏らし、内容が『処分語』に拠ることがわかった。
- 韋澳は翰林にあって、中使が口頭で勅旨草詔を求めても、不適当なことは必ず御札を求め、夜明けまで引き延ばした上で上疏し、多くを是正させていた。
秋七月・九月 浙東軍乱と杜悰更迭
- 七月、浙東で軍が乱を起こし、観察使の李訥を追放した。李訥は李遜の甥で、短気で将士に礼を欠いていた。
- 同じころ淮南は飢饉で流民が多かったが、節度使の杜悰は遊宴にふけり、政務を顧みなかった。
- 宣宗はこれを聞き、門下侍郎・同平章事の崔鉉を淮南節度使に出し、杜悰を太子太傅・分司とした。
- 九月、李訥は朗州刺史に左遷され、監軍の王宗景も杖四十の上、恭陵配流となった。
- 以後、武臣が軍律を失した場合、監軍も連坐させると詔した。
- 後任の浙東観察使には沈詢が任じられた。沈詢は沈伝師の子である。
冬十一月・十二月 柳仲郢と劉集・康季榮の処分
- 十一月、吏部侍郎の柳仲郢が兵部侍郎となり、塩鉄転運使を兼ねた。
- 閭里の医師・劉集が禁中と通じ、皇帝は塩鉄の場官に補そうとしたが、柳仲郢は、医術が優れるなら医官にすべきで、銅塩の実務にあてるのは不当であり、しかも場官は卑職で特勅を以て任ずべきではないと強く諫めた。
- 宣宗は即座に考えを改め、絹百匹だけ与えて返した。後日、柳仲郢の意見は適切だったとねぎらった。
- また、宣宗が食欲不振に悩んだ際、医工の梁新が治療して回復させたが、求官には応じず、毎月三十緡を塩鉄使から支給させるだけにとどめた。
- 右威衛大将軍の康季榮は、以前に涇原節度使として官銭二百万緡を勝手に用いていたことが露見し、家産で弁償したいと願った。
- 宣宗は河湟回復の功を考えて許そうとしたが、給事中が勅書を封還し、諫官も反対したため、十二月、康季榮は夔州長史へ左遷された。
江西・鄭祇徳の退居
- 江西観察使の鄭祇徳は、子の鄭顥が尚主していることもあり、顕官であり続けることを避け、閑職を求めた。
- 甲午、太子賓客・東都分司に移された。