春正月 日食と長慶初年党禁の終結
- 正月朔、日食が起こり、元会は取りやめとなった。
- 宣宗は即位以来、憲宗弑逆に連なる勢力や宦官・外戚、さらに東宮旧属にまで及ぶ厳しい誅罰を行ってきたが、人心の動揺も案じていた。
- そこで丙申、長慶初年の乱臣賊子については、すでに残党追及と流罪を尽くしたので、それ以外の疎遠な親族には今後一切追及しないと詔した。
二月 諫官増員問題と牛叢
- 中書門下は、拾遺・補闕に欠員があるので補充を増やしたいと奏上した。
- 宣宗は、諫官は人数より職務遂行が重要であり、張道符・牛叢・趙璘のような者が数人いれば十分だと答えた。
- 牛叢は牛僧孺の子である。宣宗は李徳裕を嫌ったため、牛僧孺の子をむしろ近づけていた。
- その後、牛叢は司勲員外郎から睦州刺史に出された。
牛叢への紫衣下賜
- 牛叢が入謝した際、宣宗は紫衣を賜った。
- 牛叢は、いま身につけている緋衣は刺史職のために借りたものだと率直に申し出たため、宣宗はただちに緋衣を賜うよう命じた。
- 宣宗は服色の授与を非常に重んじ、賞賜のために緋・紫の衣を備えながらも、むやみに使わず、当時はそれが大きな栄誉とみなされた。
- また翰林学士を重んじたが、近臣だからといって軽々しく昇進させず、年月や資格を厳格に見ていた。
秋九月・十月 硤石の勅使処分と三王封建
- 右散騎常侍の高少逸が陜虢観察使となった。
- 硤石を通過した勅使が、餅の焼け具合に怒って駅吏を鞭打ち流血させたため、高少逸はその黒い餅を封じて奏上した。
- 勅使が戻ると、宣宗は山中でその程度の食物を得るのがどれほど難しいかと責め、恭陵に流して処罰した。
- また皇子の洽を懷王、汭を昭王、汶を康王に立てた。
北苑での樵夫との対話と李行言の抜擢
- 宣宗が苑の北で狩りをした際、ある樵夫にどこの人かを尋ねると、涇陽の人で、県令は李行言だと答えた。
- その人物は、李行言は気性が厳しいが、軍家に匿われた強盗数人を引き渡させ、結局は皆殺したと語った。
- 宣宗は帰ってその名を寝殿の柱に書き留めた。
- 冬十月、李行言が海州刺史に任じられて入謝すると、皇帝はなぜ紫衣を賜うか知るかと問うて、その柱書きを見せた。
甘露の変の再評価
- 宣宗は、甘露の変について、本当に死罪に当たるのは李訓・鄭注だけであり、王涯・賈餗らは無罪だとして、彼らの冤を雪ぐ詔を出した。
宦官問題をめぐる韋澳・令狐綯との対話
- 宣宗は翰林学士の韋澳を呼び、左右を退けて、内侍の権勢は近ごろどうかとひそかに問うた。
- 韋澳は、陛下の威断は前代とは比べられないと答えたが、宣宗はまだ全然だめで、依然として恐れているのだと首を振った。
- 韋澳は、外廷と相談すれば甘露の変のような禍を再び招く恐れがあるので、宦官の中から見識ある者を選んで対処を図るしかないと答えた。
- 宣宗は、それは下策であり、黄衣・緑衣・緋衣のうちはまだ恩を感じていても、紫衣を着るほどになると互いに結束してしまう、と宦官集団の一体化を憂えた。
- また令狐綯と宦官一掃を相談したこともあったが、令狐綯は罪ある者だけを罰し、欠員を補わず自然減に任せるべきだと密奏した。
- 宦官側はその奏を知り、以後は朝士と宦官がますます反目し、南司と北司は水火のような関係になった。