資治通鑑唐紀五十九 文宗元聖昭獻孝皇帝上之上 太和 二年 708年
李同捷征討の進展
- 春三月己卯、王智興は棣州を攻め、その三門を焼いた。
- 元和末以来、宦官の権勢はいよいよ盛んになり、天子の立廃すらその手中にあった。文宗もその上に立つことはできず、人々もあえて言わなかった。
劉蕡の策論
- 文宗は自ら制科の受験者を策した。昌平の劉蕡は、賢良方正の対策で、今もっとも憂うべきは宮中の変乱、社稷の危機、天下の傾覆だと論じた。
- 彼は、宦官が数人で天下の大政を総べ、忠賢は腹心に入れず、閽寺が廃立の権を持ち、先帝は正しく終われず、陛下もまた正しく始まれなかったと、きわめて鋭く批判した。
- さらに、藩臣が「安君」「逐悪」を名目に兵を挙げる危険、法が南司と北司で分裂していること、夏官は兵を知らず、六軍の将は勲階養いにすぎず、実際の軍政を中官が掌る弊害を詳しく述べた。
- そのうえで、国権を宰相に、兵柄を将に返し、宦官の掃除役・門戸管理を戒めるよう求めた。
- 考官の馮宿らはその策を絶賛したが、宦官を恐れて及第させなかった。詔が下ると物論は沸騰した。
- 諫官や御史は論奏しようとしたが、執政が抑えた。
- 同じく及第した李郃は、自分の答案は劉蕡に遠く及ばない、彼が落ちて我らが受かるのは恥だとして、自分に授けられた官を返上して劉蕡の直言を顕彰すべきだと上疏したが、聞き入れられなかった。
- 劉蕡はついに朝廷で仕えることなく、節度使の幕僚として終わった。
- 同時に及第した者の中には、裴休・李甘・杜牧・馬植・崔璵・王式・崔慎由らがいた。
史憲誠・亓志紹
- 閏月丙戌朔、史憲誠は子の史唐と都知兵馬使亓志紹に二万五千を率いさせ、徳州へ李同捷討伐に向かわせた。
- 実際には憲誠は同捷を助けたい気持ちがあり、史唐は泣いて諫め、しかも兵を出して本気で討つべきだと主張したため、憲誠も完全には拒めなかった。
蕭洪の偽舅事件
- 夏六月、晋王普が死去し、辛酉に悼懐太子と諡された。
- 蕭太后は幼くして郷里を離れ、弟一人の所在が分からなくなっていた。文宗即位後、福建観察使に探索を命じたが不明だった。
- そこへ茶綱の役人蕭洪が、自分こそ流落した太后の弟だと名乗り出た。商人趙縝がこれを引き合わせ、太后の近親呂璋の妻も判別できないまま、蕭洪は太后にも会わされた。
- 文宗は本物の舅だと信じ、甲子、太子洗馬に任じた。のちに詐りが発覚する伏線である。
安南・王庭湊
- 峯州刺史王升朝が叛くと、庚辰、安南都護韓約がこれを討ち斬った。
- 王庭湊はひそかに兵や塩糧を李同捷に与えていた。文宗は討伐を望み、秋七月甲辰、中書に百官を集めて議論させた。
- 宰相以下は誰も反対しなかったが、ただ一人、衛尉卿殷侑だけが、廷湊の関与はまだ明確ではないから、まずは同捷専討に集中すべきだと述べた。
- 己巳、王庭湊の罪状を詔で責め、近隣諸道に厳重警戒を命じたうえで、自新の機会を与えた。
棣州陥落と李寰更迭
- 九月丁亥、王智興は棣州を奪取した。
- 李寰は晋州から横海へ赴任する途上で士卒を抑えられず、通過地で略奪を重ねた。着任後も進軍せず、ただ供給を求めるだけだった。
- 庚寅、李寰を夏綏節度使に移した。
- 甲午、王庭湊の官爵を削り、四方の諸軍に進討を命じた。王智興には守司徒を加え、傅良弼を横海節度使とした。
- 岳王緄が薨じた。
- 庚戌、容管から安南軍が乱れて都護韓約を逐ったと奏上があった。
魏博の妨害と官軍の消耗
- 冬十月、魏博軍は平原で横海軍を破り、同地を奪った。
- 十一月癸未、易定節度使柳公済は、李同捷の堅固寨を奪い、その東でも破ったと奏した。
- しかし河南北の諸軍は久しく功が上がらず、小さな勝利も誇張して首級や捕虜を多く見せかけ、厚賞を求めた。朝廷はこれを支えるため国力を傾け、江淮は疲弊した。
- 傅良弼は陜に至って死去した。
- 乙酉、左金吾大将軍李祐を横海節度使に任じた。
禁中火災
- 甲辰、禁中の昭徳寺から火が出て、宮人の居所にも延焼し、数百人が焼死した。
李君謀の功
- 十二月丁巳、王智興は兵馬使李君謀に命じて黄河を渡らせ、無棣を破った。
韋処厚の死と亓志紹の乱
- 壬申、中書侍郎・同平章事韋処厚が死んだ。
- 李同捷の情勢が日に日に苦しくなると、王庭湊は救援できないと見て、魏博の大将亓志紹に使者を送り、史憲誠父子を殺して魏博を奪うよう説いた。
- 亓志紹はこれに応じ、所部二万を率いて引き返し、魏州へ迫った。
- 丁丑、諫議大夫柏耆を遣わして魏博を宣慰し、あわせて義成・河陽の兵を徴発して亓志紹を討たせた。
- 戊寅、翰林学士路隋を中書侍郎・同平章事とした。
- 辛巳、史憲誠は亓志紹が永済に駐屯していると奏し、救援を求めた。朝廷は義成節度使李聴に、滄州行営の諸軍を率いて志紹討伐に向かうよう命じた。