資治通鑑唐紀五十九 文宗元聖昭獻孝皇帝上之上 太和 元年 707年
改元と李同捷の表
- 春二月乙巳、大赦を行い、太和と改元した。
- 李同捷は滄・景を擅拠していたが、朝廷は一年近く本格的措置を取らずにいた。同捷は代替わりに乗じて恩赦を得ようと期待していた。
- 三月壬戌朔、掌書記崔従長を派遣し、弟の同志・同巽とともに入朝して朝命に従う意を表した。
韋処厚の強論
- 文宗は一見よく意見を聞くように見えたが、決断が固まってもすぐ翻すことがあった。
- 夏四月丙辰、韋処厚は延英で李同捷問題を強く論じ、これでは政令が立たぬとして辞位まで申し出た。皇帝は再三慰留した。
債帥是正
- 忠武節度使王沛が死ぬと、庚申、太僕卿高瑀を後任にした。
- 大暦以来、節度使は禁軍出身者が多く、禁軍大将たちは富室から莫大な利息付きの借金をして中尉に賄賂し、ようやく節度使の職を得るのが通例だった。そのため赴任後は返済のために苛斂が激しかった。
- 裴度と韋処厚が奏して高瑀を任じたことで、中外は「今後は借金して就く節帥が少なくなるだろう」と喜んだ。
横海処分と同捷討伐準備
- 五月丙子、天平節度使烏重胤を横海節度使に移し、李同捷には兗海節度使を与えた。
- だが朝廷は河南・河北の節度使が李同捷を扇動して抗命させるのを恐れ、魏博の史憲誠に同平章事を加え、盧龍の李載義・平盧の康志睦・成徳の王庭湊にも検校官を加えた。
- 王播は淮南から入朝し、銀器千計・綾絹十万計を献じて大用を図った。
- 六月癸巳、王播を左僕射・同平章事とした。
敬宗葬送
李同捷の叛命と諸軍出動
- 李同捷は軍士に引き留められていると偽って詔命を受けなかった。
- 乙酉、武寧節度使王智興は本軍三万人を率い、五か月分の粮食を自前で用意して討伐したいと願い出、許された。
- 八月庚子、李同捷の官爵を削り、烏重胤・王智興・康志睦・史憲誠・李載義、さらに義成の李聴・義武の張璠らに命じ、それぞれの軍を率いて討たせた。
- 同捷は子弟を通じて珍玩や女妓を河北諸鎮に贈り、支援を買おうとした。
- 戊午、李載義はその甥と賄賂の品を押収して朝廷へ献じた。
- 史憲誠は李全略と婚姻関係にあり、ひそかに糧食で同捷を助けていた。裴度は彼を疑わなかったが、韋処厚は使者に対し、「晋公はお前の主を一家百口で保証しているが、自分はそうではない。行いには自ずと朝典がある」と言って牽制した。憲誠は恐れて同捷支援を控えた。
- 王庭湊は李同捷の節鉞を求めたが許されず、そこで兵を境上に出して魏軍を攪乱し、さらに沙陀の朱邪執宜に厚賂して連兵しようとしたが、執宜は拒絶した。
烏重胤の戦果と死
- 冬十月、烏重胤は李同捷をたびたび破った。
- 十一月丙寅、烏重胤が死去した。
- 庚辰、保義節度使李寰を横海節度使とした。これは王智興の請いによるものであった。
- 十二月庚戌、王智興に同平章事を加えた。