正月 成德・横海方面の戦況
- 春正月、亓志紹が成德軍と連携して貝州を襲った。これに対し、義成行営の兵三千が斉州の禹城に先行配置されたが、途中で潰走・反乱したため、横海節度使の李祐が討って鎮圧した。
- 李聴・史唐らは亓志紹を攻めて破り、亓志紹は部衆五千を率いて鎮州へ逃れた。
- 李載義は滄州の長蘆を攻め落とした。
- 甲辰、昭義軍は亓志紹の残党一万五千が降伏したと奏上し、これを洺州に配置した。
二月 李同捷包囲戦の進展
- 横海節度使の李祐が諸道の行営軍を率いて李同捷を破り、さらに徳州を攻めた。
- 武寧軍では、捉生兵馬使の石雄が勇敢で兵に慕われていたため、主帥の王智興を追放して石雄を立てようとする動きが生じた。王智興はこれを察し、石雄の戦功を口実に彼を壁州刺史へ転出させた。
成德の動揺と武寧の粛清
- 史憲誠は滄州・景州がまもなく平定されると聞き、危機感を抱いた。子の史唐が入朝を勧め、丙寅、史憲誠は史唐に表を持たせて入朝の意思と、所管地の処分を朝命に委ねる旨を申し出た。
- 石雄が武寧から去ると、王智興は軍中で石雄と親しかった者百余人を皆殺しにした。
四月 滄州降服と柏耆の専断
- 戊午、王智興は石雄が軍心を動揺させたと訴えて誅殺を求めたが、文宗は無罪と判断して死一等を減じ、白州への長流に処した。
- 戊辰、李載義は滄州を攻めて外城を破った。
- 李祐は徳州を攻略し、城中の将兵三千余は鎮州へ逃れた。
- 李同捷は李祐に降伏を願う書を送った。李祐はその書を朝廷へ送ったが、慰問使の柏耆はこれを偽計と疑い、自ら数百騎を率いて滄州へ突入した。
- 柏耆は滄州守備の万洪を誅し、李同捷とその家族を捕えて京師へ送った。乙亥、将陵に到着したころ、王庭湊が奇兵で李同捷を奪い返そうとしているとの情報が入り、柏耆は李同捷を斬って首級を送った。これにより滄州・景州の乱は終息した。
五月 論功行賞と柏耆失脚
- 庚寅、李載義に同平章事が加えられた。
- 李同捷討伐は三年を要したが、柏耆が一気に城中へ入り、主犯を捕えたことで功を独占した形となり、諸将はこれを憎んで競って弾劾した。
- 辛卯、柏耆は循州司戸に左遷された。後世の記録では、彼の専断と誇示が問題視されたこと、また後には李同捷から得た奴婢や財物の件でも罪を問われたことが伝えられる。
- 李祐はまもなく死去した。
- 壬寅、魏博副使の史唐は、改名して史孝章としたと奏した。
六月 河北再編と魏博の緊張
- 丙辰、朝廷は鎮州を包囲していた四面の行営軍を各本道へ帰還させて休養させ、今後は境界警備に専念し、相互に干渉しないよう命じた。ただし王庭湊が帰順を示す上表だけは受理することにした。
- 辛酉、史憲誠を兼侍中・河中節度使に移し、李聴を兼魏博節度使とした。また相・衛・澶の三州を分け、史孝章に節度を任せた。
- 李祐は、柏耆が万洪を殺した報を聞いて大いに驚き、それが病を悪化させたという。文宗は「李祐が死ねば、それは柏耆が殺したも同然だ」と述べた。
- 癸酉、柏耆に自尽が命じられた。
- 河東節度使の李程は、王庭湊が景州返還を申し出た書と、亓志紹が自縊したことを奏上した。
- 朝廷は中使を派遣して史憲誠に旌節を授けた。癸酉に魏州へ着くと、李聴は貝州から戻って館陶に駐屯しながら進軍を引き延ばしており、史憲誠は府庫を尽くして旅立ちの準備をしていた。
- 甲戌、魏州で軍乱が起こって史憲誠が殺され、牙内都知兵馬使の何進滔が留後に推された。
- 李聴は魏州へ進んだが、何進滔に拒まれて入城できず、さらに秋七月、何進滔が出撃すると不意を突かれて大敗し、浅口へ逃れた。兵や輜重・兵器の多くを失い、昭義軍の援護で辛うじて滑台へ帰った。
八月 魏博の承認と横海再建
- 長年の河北用兵で輸送負担に朝廷は疲弊しており、壬子、何進滔を魏博節度使に任じ、相・衛・澶三州も魏博に戻した。
- 滄州一帯は戦乱の後で、屍骨が野に満ち、城は空き、戸口は三、四割しか残っていなかった。
- 癸丑、殷侑を斉徳滄景節度使に任じた。この年から斉州もこの節度に属した。
- 殷侑は着任後、兵と苦楽を共にし、百姓を慰撫し耕桑を勧め、流民を呼び戻した。もともと三万人の軍は度支の支給に全面依存していたが、一年で租税が半分を賄い、二年で国家支給の停止を願い出、三年後には人口も倉庫も回復した。
王庭湊赦免と宰相人事
- 王庭湊は近隣諸道の情勢が緩むのを見て服従の意思をほのめかしたため、壬申、朝廷は彼と将士を赦して官爵を復した。
- 浙西観察使の李徳裕が兵部侍郎として召還された。裴度は彼を宰相に推したが、会って吏部侍郎の李宗閔が宦官の後押しを受け、甲戌、李宗閔が同平章事となった。
九月 文宗の倹約と李徳裕外転
- 文宗は倹素を好み、中尉以下の宦官が紗・縠・綾・羅を着ることを禁じた。
- 文宗は読書を好み、音楽や遊猟にはほとんど関心を示さなかった。駙馬の韋処仁が華美な頭巾を着けていた際には、家柄の清素を慕って公主を嫁がせたのだから、他の貴戚の真似は不要だと諭した。
- 壬辰、李宗閔は自らに迫る存在とみた李徳裕を義成節度使として外へ出した。
冬十月〜十一月 財政と郊祀
- 丙辰、李聴は太子少師に転じた。
- 路隋は、宰相が財政実務を兼ねるのは不適切であり、楊国忠・元載・皇甫鎛のような奸臣のやり方に倣うべきではないと進言した。文宗はこれに同意し、裴度の度支兼領辞退を許した。
- 十一月甲午、文宗は円丘を祭り、大赦を行った。各地から珍奇巧緻な献上物を禁じ、華美な布帛も禁じて機織具を焼却させた。
西川・南詔の大乱
- 丙申、西川節度使の杜元穎が南詔来寇を奏した。杜元穎は旧宰相として文雅を誇ったが軍事に疎く、蓄財と軍士の衣糧削減に専念していたため、辺卒は食糧不足から南詔領内へ略奪に入り、かえって南詔から衣食の援助を受ける始末だった。このため蜀の虚実は南詔に筒抜けとなった。
- 南詔では嵯顚が実権を握り、大規模侵攻を企図していた。辺州からの急報を杜元穎は信じず、ついに嶲州・戎州が陥落した。
- 甲辰、邛州南で交戦した蜀軍は大敗し、南詔は邛州を奪った。
- 王智興が入朝していたため、朝廷は東川・興元・荊南、さらに十二月には鄂岳・襄鄧・陳許などの兵を発して西川救援に向かわせた。丁未、王智興は忠武節度使へ移された。己酉、郭釗を西川節度使に任じ、東川も兼ねさせた。
- 嵯顚は邛州から成都へ直進し、庚戌、外郭を陥れた。杜元穎は牙城に籠もって抗戦したが、たびたび逃亡を考えた。
- 己未、董重質が神策諸道西川行営節度使となり、太原・鳳翔の兵も追加派遣された。
- 南詔はさらに東川に侵入し梓州にも及んだが、郭釗は兵力が少なく交戦できず、書簡で嵯顚を責めた。嵯顚は、杜元穎の侵擾への報復だと答え、郭釗と和を結んで退いた。
- 南詔軍は成都西郭に十日ほど駐留し、当初は市場を安んじて住民を慰撫したが、退却時に女子・工匠数万人と財貨を大量に掠め取った。蜀人は恐慌のあまり江に飛び込み、遺体が流れを塞ぐほどだった。
- 大度水に至ると、嵯顚はここから南が自国領だとして、蜀人に故郷との別れを許した。多くが号泣し、水に身を投じて死んだ者は千を数えた。以後、南詔の工芸技術は蜀と肩を並べるほどになった。
- 嵯顚は使者を遣わして、従来は朝貢を欠かさなかったのに、杜元穎が軍士を虐げたため彼らが道案内となって出兵したのであり、杜元穎を処罰してほしいと上表した。
- 丁卯、杜元穎はさらに循州司馬へと降格された。
- 董重質ら諸道の兵は撤兵し、郭釗は成都に至って南詔と相互不侵の約を結んだ。朝廷は中使を派遣して国書を嵯顚へ与えた。