資治通鑑唐紀五十五 憲宗 元和十年 810年

春正月 韓弘の加官

  • 乙酉、韓弘に司徒を加えた。
  • 韓弘は宣武に十数年あって入朝せず、兵力を背景に自負もあった。王鍔が平章事となると、自分がその下位に置かれるのを恥じ、武元衡への書でも不満をにおわせた。
  • 朝廷は、淮西討伐で韓弘の形勢を頼みにしていたため、官位を進めて王鍔の上に置き、これを慰撫した。

呉元済への討伐詔

  • 呉元済は兵を縦横に出して略奪し、東都近郊にまで及んだ。
  • 己亥、朝廷は呉元済の官爵を削り、宣武など十六道に進軍して討つよう命じた。

二月 唐州・寿州方面の不振

  • 厳綬は淮西軍に一勝したが、その後警戒を怠ったため、夜襲を受けて甲辰、慈丘で大敗した。五十余里退いて唐州へ駆け込み、防戦に徹した。
  • 寿州団練使令狐通も淮西軍に敗れ、州城へ逃げ込み、境上の柵はほとんど皆屠られた。
  • 癸丑、令狐通に代えて李文通を送り、令狐通は昭州司戸に左遷された。

柳公綽の安州出陣

  • 朝廷は鄂岳観察使柳公綽に兵五千を安州刺史李聴へ授けて討伐させようとした。
  • 柳公綽は、自分を文官だから兵を知らぬと見ているのかと憤り、自ら出征を願い出て許された。
  • 安州で李聴は弓矢を収めて出迎えたが、柳公綽はただちに都知兵馬使・先鋒行営兵馬都虞侯の牒を与え、精兵六千を李聴に属させた。そして部下に、行営のことはすべて都将の決定に従えと命じた。
  • 李聴は恩義と威令の双方に感じ入り、まるで柳公綽の麾下であるかのように働いた。
  • 柳公綽は軍紀を整え、兵卒の家族に病死・喪事があれば手厚く給付し、淫乱な妻は江に沈めるほど厳格にした。兵卒は、自分たちの家を中丞が守ってくれると思い、進んで命を惜しまなくなった。
  • 柳公綽の乗馬が厩番を蹴り殺した際には、良馬だとして惜しむ声を退け、性質の悪い馬は役に立たぬとして処分した。

河東の将の反乱と王叔文党の処分

  • 河東の将劉輔が豊州刺史燕重旰を殺し、王鍔はその一党を誅した。
  • 王叔文派として貶斥されていた者たちは十年を経ても量移されず、執政の中にはその才を惜しんで少しずつ進めようとする者もいた。
  • しかし諫官がこれに反対し、憲宗も武元衡も彼らを好まなかった。
  • 三月乙酉、関係者はみな遠州刺史に任じられた。官位は上がったが、赴任地はより遠くなった。
  • 柳宗元は柳州刺史、劉禹錫は播州刺史となった。柳宗元は、播州は人の住むような土地ではなく、劉禹錫の老母を同行させるのは忍びないとして、自分の柳州と交換してほしいと願った。
  • 裴度もまた劉禹錫のためにとりなし、憲宗は、子たる者は慎んで親に憂いを与えるべきでないとしつつも、最終的には母への情に配慮して翌日、劉禹錫を連州刺史へ改めた。

柳宗元の文章への評価

  • 柳宗元は文章に優れ、『梓人伝』では、実際に木を切る技術をもたぬ棟梁が、規矩準縄によって大工たちを統率し、大建築が成ればその功名を独り受けるさまを、宰相の道にたとえた。
  • また『種樹郭橐駝伝』では、木の性を生かすには余計な手出しをせず、その自生を助けるべきであるとして、煩苛な政令で民を苦しめる統治を戒めた。
  • 司馬光は、これらの文章は治道の助けとなる理があるため採ったのだと示している。

淮西戦線の進展と李師道の策動

  • 庚子、李光顔は臨潁で淮西兵を破った。田弘正も子の田布に兵三千を与えて厳綬を助けさせた。
  • 甲辰、李光顔はまた南頓でも勝利した。
  • 呉元済は成徳の王承宗や淄青の李師道に救援を求め、両者はたびたび赦免を請う上表を出したが、憲宗は応じなかった。
  • このとき淄青軍は討淮西の動員対象から外されていたため、李師道は大将に二千人を率いさせて寿春へ向かわせ、官軍を助けると称しつつ実際には呉元済を援けようとした。
  • 李師道はかねて刺客や奸人を養っており、その者たちは、河陰転運院の租賦を焼き、東都の悪少年を集めて宮闕を焼けば、朝廷はまず腹心の自救に追われて蔡州討伐どころではなくなると進言した。
  • 師道はこれに従い、辛亥暮れ、盗賊数十人が河陰転運院を襲って人を殺傷し、銭帛三十余万緡、穀二万余斛を焼いた。人心は大いに動揺し、群臣には罷兵を求める者も多かったが、憲宗は許さなかった。

五月 裴度・韓愈の建言

  • 諸軍が久しく功を立てないため、五月、憲宗は裴度を行営へ派遣して慰問し、戦況を視察させた。
  • 裴度は帰還後、淮西は必ず取れると述べ、なかでも李光顔は勇があり義を知る将で、立功できると推した。憲宗は喜んだ。
  • 韓愈も上言し、淮西三州はすでに疲弊し、天下の全力に対抗することはできないので、勝敗の鍵は陛下に断固たる意思があるかどうかにかかっているとした。
  • さらに、諸道の客兵は数が少なく土地不案内で士気も低いため、陳・許・安・唐・汝・寿など賊境に接した州の民兵を募集してこれに代えるべきだと主張した。蔡州の兵ももとは国家の百姓なのだから、追い詰められてやむなく悪に走った者を過度に殺すべきではないとも述べた。

時曲の激戦

  • 丙申、李光顔は時曲で淮西兵を大破した。
  • 淮西兵が朝早くから営前に布陣し、李光顔は出撃できなかったが、自ら柵の左右を壊して騎兵を突撃させ、自身も数騎で敵陣を出入りした。
  • 敵兵は彼の姿を認め、矢を集中させたが、その子が轡を取って止めようとしても、李光顔は刃を挙げて叱り退けた。将士はこれに奮い立ち、淮西兵を大敗させて数千人を斬った。
  • 憲宗は裴度の人を見る目を称えた。

武元衡暗殺事件

  • 李師道の養った客は、天子が淮西誅伐に固執するのは武元衡がこれを主導しているからだ、彼を暗殺すれば他の宰相は兵を主張できまいと説き、李師道は資金を与えて送り出した。
  • そのころ王承宗も牙将尹少卿を上京させて呉元済のために遊説させたが、尹少卿は中書省で不遜な態度をとり、武元衡に叱り出された。王承宗もまた武元衡を誹謗する上書を送っていた。
  • 六月癸卯未明、武元衡が朝参のため靖安坊の邸宅を出たところ、刺客が闇から飛び出して射かけ、従者を散らし、馬を取って十余歩引いたのち殺害し、その首を奪って去った。
  • 同じく通化坊では裴度も襲われ、頭部に傷を負って溝に落ちたが、厚い氈帽のおかげで命は助かった。従者の王義は後ろから賊に抱きつき大声で叫んだが、腕を断たれた。
  • 京城は震駭し、宰相の出入りには金吾の騎士が弓を張り刀を抜いて警衛するようになった。坊門ごとの捜索も厳しく、官人たちは夜明け前に家を出ることさえ恐れた。
  • 賊は金吾・府県に紙を投げ込み、急いで捕らえれば先にお前たちを殺すと脅したため、捜査側にもひるみが生じた。

犯人捜索と裴度の登用

  • 兵部侍郎許孟容は、宰相が路上で殺されて盗賊を捕らえられぬのは朝廷の恥だと泣いて訴え、中書省では裴度を起用して大捜索すべきだと主張した。
  • 戊申、内外に厳命が出され、賊を捕えた者には大賞が約され、かくまった者は一族誅殺とされた。京城では公卿の家の夾壁や二重屋根まで捜索対象となった。
  • 成徳軍進奏院の恒州卒張晏ら数人の挙動が怪しまれ、庚戌、神策将軍王士則らが王承宗の差し金だと告発した。張晏ら八人が捕らえられ、裴武・陳中師が取り調べにあたった。
  • 癸亥、憲宗は王承宗のこれまでの上表三通を百官に示し、その罪を議させた。
  • 裴度は重傷で二十日寝込んだが、衛兵が邸宅を守り、中使の見舞いも絶えなかった。裴度を罷めて恒・鄆の心を安んじようとの声が出ると、憲宗は、もしそうすれば奸計の勝利であり朝廷の綱紀は失われる、裴度一人で二賊を破るに足ると怒って退けた。
  • 甲子、裴度を召し、乙丑には中書侍郎・同平章事とした。
  • 裴度は、淮西は腹心の病であって除かねばならず、すでに討っている以上、河朔の跋扈する諸鎮もその成否を見ているから中止はできないと述べ、憲宗も全面的に兵事を委ねた。
  • また裴度は、盗賊未平の時だからこそ宰相は私邸で四方の賢才と会って策を練るべきだと奏し、これが許された。徳宗以来、宰相が私邸で客と会うことを忌避していた風も改まった。
  • 陳中師の取り調べで張晏らは犯行を自白したが、張弘靖は供述の真偽に疑いを持ち、たびたび異論を述べた。それでも憲宗は退け、戊辰、張晏ら五人とその党十四人を斬った。ただし真の実行者は後に李師道側にあったことが明らかになる。

七月以後 李光進の死と王承宗への措置

  • 七月庚午朔、霊武節度使李光進が死去した。李光進と李光顔の兄弟は非常に仲がよく、家政の扱いでも互いに譲り合った。
  • 甲戌、王承宗の罪悪を列挙し、朝貢を断つ詔を下した。ただし、直ちに総攻撃するのではなく、悔い改めて自首する余地も示した。

八月 東都放火計画の発覚

  • 己亥朔、日食があった。
  • 李師道は東都に留後院を設け、本国の者を雑沓させていても役人が詮問できない状況を作っていた。淮西兵が東都近郊を犯し、防禦兵がみな伊闕に集まっていた隙に、留後院へ数十百人を潜ませ、翌日に宮闕放火と掠奪を決行する段取りを整えていた。
  • ところが下級兵の一人が呂元膺に密告し、呂元膺は急ぎ伊闕の兵を呼び戻して留後院を包囲した。賊は長夏門から山中へ逃れたが、東都は強い動揺に包まれた。
  • 呂元膺は皇城門に座して兵を指揮し、落ち着いた態度で都人を安堵させた。
  • 東都西南の山地には、農耕せず狩猟で生きる「山棚」と呼ばれる捷勇の民がいた。呂元膺は重賞をもって彼らを使い、山中の賊を追わせた。
  • 数日後、鹿を売る山棚が賊に出会って鹿を奪われ、その者が仲間と官軍を導いて谷中の賊を包囲し、ついに首魁らを捕らえた。
  • 取調べで、首謀者は中岳寺の僧円浄と判明した。彼は元史思明の将で、李師道のために伊闕・陸渾間に土地を買って山棚を養い、仏寺造営を装って資金を動かし、山中の火を合図に二県の山棚を都城へ突入させる計画だった。
  • 円浄は八十余歳の老僧だったが屈強で、脛を打っても折れず、自分でここを折れと教えたほどだった。刑に臨んで、洛城を血に染められなかったことを悔しがった。
  • この一味は数千人が死に、留守軍・防禦軍の将二人や驛卒八人も李師道から私的な職名を受けて耳目となっていたことが分かった。
  • 呂元膺は訾嘉珍・門察を取り調べ、武元衡暗殺の黒幕も実は李師道だったと知り、密かに奏聞して檻車で京師へ送った。だが朝廷は王承宗との戦いも抱えており、すぐには李師道追討へ踏み切れなかった。
  • 呂元膺は、藩鎮の不臣のうちでも、都城を焼き宮闕を屠ろうとした李師道の罪は格別で、誅さずにおけないと上奏した。憲宗も同意したが、時期を待つことになった。

李光顔の敗戦と厳綬更迭

  • 乙丑、李光顔は時曲で敗れた。
  • 厳綬は河東時代に部将が功を立てていたため起用されたが、自身には将略が乏しかった。着任後は府庫を開いて兵に恩賞をばらまき、長年の蓄えを一挙に使い果たしたうえ、宦官への賄賂で声援を求めるばかりで、八州の兵を率いながら境上に籠もって寸功もなかった。
  • 裴度はたびたび軍政の乱れを指摘し、九月癸酉、韓弘が淮西諸軍都統に任じられた。
  • 韓弘は権限を独占することを好み、淮西が早く平らぐことを望まなかったが、それでも名目上の統帥として起用された。

李光顔の廉潔

  • 韓弘は李光顔を懐柔しようとし、大梁で絶世の美女を探し出し、珠玉で飾って莫大な値をかけて送り届けた。
  • 李光顔は、将士数万が家を捨てて白刃を冒しているのに、自分だけが声色を楽しむわけにはいかないと涙ながらに断り、その場で使者と妓女に厚く贈り物をして返した。
  • 自分は身を国家に許しており、逆賊と同じ天を戴くことはないと誓った。座にいた者たちも皆感動した。

山南東道の分割

  • 冬十月庚子、山南東道を二節度に分けた。
  • 李遜を襄・復・郢・均・房節度使、高霞寓を唐・随・鄧節度使とし、唐州が蔡州に接するため、高霞寓には攻戦を専らとさせ、李遜は五州の財賦を調えてこれを支える役目とした。

法令整備

  • 辛丑、権徳輿が、開元二十五年に整備された格式律令事類の後、追加の長行敕が積み重なっていたので、これを三十巻に整理して施行したいと奏し、許された。

田弘正の請戦と東都の火災

  • 王承宗との朝貢関係は断たれたものの、討伐詔はまだ出ていなかった。田弘正は国境に兵を屯していたが、しばしば王承宗に破られ、憤って攻撃許可を何度も願い出た。
  • 十回に及ぶ上表の末、ようやく許可され、田弘正は貝州に進軍した。
  • そのころ東都では柏崖倉が盗賊に焼かれた。

十一月以降 対淮西・対成徳の戦況

  • 壽州刺史李文通は淮西兵に勝ち、韓弘は諸軍を合わせて淮西を総攻撃したいと願い、朝廷もこれを認めた。
  • 李光顔・烏重胤は小溵水で淮西兵を破り、その城を奪った。
  • 乙亥、厳綬は功なしとして太子少保に退けられた。
  • 盗賊は襄州の仏寺も焼き、軍糧の草は火災に備えて京城四郊に移された。
  • 丁丑、李文通は固始で淮西兵を破った。
  • 戊寅には盗賊が献陵の寝宮の永巷を焼いた。
  • 朝廷は振武兵二千を義武軍に合わせ、王承宗討伐に向かわせた。
  • 己丑、吐蕃が隴州塞に和を請い、互市を望んだので、これを許した。
  • 呉武陵は呉元済に書を送り、部下もまた主君に背くのが人情であり、天子に背く者は自分にも背くと諭した。
  • 丁酉、武寧節度使李愿は、たびたび徐州周辺を侵していた李師道軍を、都押牙王智興に撃たせて大破した。
  • 十二月甲辰、王智興は再び李師道軍を破って二千余を斬り、平陰まで追撃して帰還した。
  • 東都防禦使呂元膺は山棚を募って宮城守備に充てることを請い、許された。
  • 乙丑、河東節度使王鍔が死んだ。
  • 王承宗は兵を放って幽州・滄州・定州を掠めたため、三鎮はこぞって討伐を求めた。憲宗はこれを認めようとしたが、張弘靖は淮西と恒冀の二正面作戦は国力を疲弊させるとして、まず淮西平定に専念すべきだと主張した。
  • 憲宗はこれに従わず、張弘靖は辞職を願うようになった。