資治通鑑唐紀五十五 憲宗 元和十一年 811年

春正月 対王承宗戦の拡大

  • 己巳、幽州節度使劉総は成徳軍を破って武強を奪い、千余級を斬った。
  • 庚辰、翰林学士中書舎人銭徽と駕部郎中知制誥蕭俛は、それぞれ職を解かれて本官に戻された。群臣の間に罷兵論が多かったため、憲宗はこれを憂え、二人を退けて他を戒めた。
  • 癸未、王承宗の官爵を削り、河東・幽州・義武・横海・魏博・昭義の六道に進討を命じた。
  • 韋貫之はたびたび、まず呉元済を平らげ、のちに王承宗を討つべきだと諫めた。建中年間、魏を討って斉に及ぼうとした結果、蔡・燕・趙まで呼応して朱泚の乱に至った先例を挙げ、徳宗が数年の怒りに耐えられず功を急いだのが失敗の原因だと説いたが、憲宗は聞かなかった。
  • 甲申、盗賊が建陵門の戟四十七枝を断ち取った。

二月 西南・西辺の動きと宰相任命

  • 西川から吐蕃贊普の死と新贊普可黎可足の即位が報じられた。
  • 乙巳、李逢吉を門下侍郎・同平章事に任じた。李逢吉は李玄道の曾孫である。
  • 乙卯、昭義節度使郗士美は成徳兵を破って千余を斬った。
  • 南詔では、暴虐な勧龍晟に対する怨みが高まり、弄棟節度王嵯巔がこれを弑して弟の勧利を立てた。勧利はその功により蒙氏の姓を賜り、「大容」と号した。「容」は蛮語で兄を意味する。
  • 己未、劉総もまた成徳兵を破って千余級を斬った。

袁滋の態度転換

  • 荊南節度使袁滋は、朗山にある父祖の墓を理由に入朝を願い、本心では兵をやめさせるつもりだった。
  • しかし鄧州に至って蕭俛・銭徽が左遷されたことを聞き、憲宗に拝謁すると、今度は必勝を説く側へ転じた。ようやく任地への帰還が許された。

魏博の戦果

  • 辛酉、魏博軍は成徳兵を破って固城を奪った。
  • 乙丑、さらに鵶城を奪った。

三月 太后崩御と各地の戦い

  • 庚午、太后王氏が崩じた。
  • 辛未、国喪中のため、諸司の公事は中書門下の裁決に委ねるとし、摂冢宰は置かなかった。
  • 寿州団練使李文通は固始で淮西兵を破り、𨫼山を奪った。
  • 己卯、唐鄧節度使高霞寓は朗山で淮西兵を破って千余を斬り、二つの柵を焼いた。
  • 幽州節度使劉総は楽寿を囲んだ。

四月 淮西・成徳両戦線の勝敗

  • 庚子、李光顔・烏重胤は陵雲柵で淮西兵を破り、三千級を斬った。
  • 辛亥、司農卿皇甫鎛が中承を兼ねて度支を判じた。皇甫鎛は財貨徴斂の才で憲宗に取り立てられた。
  • 乙卯、劉総は深州で成徳兵を破って二千五百級を斬った。
  • 乙丑、義武節度使渾鎬も九門で成徳兵を破って千余を殺した。渾鎬は渾瑊の子である。
  • 宥州では軍が乱を起こして刺史駱怡を逐い、夏州節度使田進がこれを討って平定した。

五月 淮西での継続勝利

  • 壬申、李光顔・烏重胤は再び陵雲柵で淮西兵を破り、二千余級を斬った。

六月 高霞寓の大敗

  • 甲辰、高霞寓は鉄城で大敗し、身ひとつで逃れた。
  • それまで諸将は勝てば戦果を誇張し、負ければ隠していたが、今回は隠しようのない敗北であったため、初めて朝廷は実情を知った。内外は驚き、宰相たちも罷兵を勧めようとした。
  • だが憲宗は、勝敗は兵家の常であり、今なすべきは用兵の方略を論じ、将帥の不適任者を替え、兵糧不足を補うことであって、一将の失利で大計をやめるべきではないと断言した。
  • 以後、裴度の主戦論がいよいよ重んじられ、罷兵論はやや沈静化した。

七月 高霞寓・李遜の更迭

  • 己酉、高霞寓は唐州へ退いて守勢に入った。
  • 憲宗がその敗戦を責めると、高霞寓は補給担当の李遜が応援しなかったせいだと弁解した。
  • 秋七月、高霞寓は帰州刺史に左遷され、李遜も恩王傅に落とされた。
  • かわって河南尹鄭権を山南東道節度使、袁滋を彰義節度使・申光蔡唐随鄧観察使として、治所を唐州に置かせた。
  • 壬午、宣武軍は郾城方面の二万の敵を破り、二千余を殺し千余を捕えた。
  • 田弘正も南宮で成徳兵を破り、二千余を殺した。

韋貫之失脚

  • 韋貫之は性質が高踏的で、人物を品流で選り分けるのを好み、またたびたび兵をやめるよう進言した。
  • 左補闕張宿がこれを「朋党」として憲宗に讒言し、八月壬寅、韋貫之は宰相を罷めて吏部侍郎にされた。

郗士美の戦功

  • 王承宗討伐軍は互いに様子をうかがって進まなかったが、昭義節度使郗士美だけは精兵を率いて国境に圧力をかけた。
  • 己未、郗士美は柏郷で王承宗軍を大破し、千余を斬り、降者も同数ほど得た。さらに柏郷を囲むように三つの塁を築いた。

皇后の葬礼と進言者の処分

  • 庚申、荘憲皇后を豊陵に葬った。
  • 九月乙亥、右拾遺独孤朗は罷兵を請うた罪で興元府倉曹へ左遷された。独孤朗は独孤及の子である。
  • 饒州では大水が起こり、四千七百戸が流失した。
  • 丙子、韋貫之を湖南観察使としたが、これも罷兵論の責任を問う意味を含んでいた。
  • 辛巳、韋顗・韋処厚らも韋貫之の党とされたため遠州刺史にされた。韋顗は韋見素の孫、韋処厚は韋夐の九世の孫である。

淮西戦線の進展

  • 乙酉、李光顔・烏重胤は呉元済の陵雲柵を奪った。
  • 丁亥、李光顔はさらに石越の二柵を奪った。
  • 寿州方面でも殷城の軍を破り、六柵を奪った。

冬十一月 南方蛮と李師道の偽装降伏

  • 壬戌朔、容管から黄洞蛮の侵攻が報じられた。
  • 乙丑、邕管は黄洞蛮を撃退し、賓巒蛮などの州を回復した。
  • 丙寅、幽州節度使劉総に同平章事を加えた。
  • 李師道は、陵雲柵が陥落したと聞いて恐れ、降伏を装って帰順を請うた。憲宗はただちに討つ余力がないため、とりあえず李師道に検校司空を加えた。

王鍔家の家産没収未遂

  • 王鍔の家の奴二人が、王鍔の子稷が父の遺表を書き換え、献納すべき家財を隠したと訴えた。
  • 憲宗は内仗で取り調べ、中使を東都へ派遣して家財を検括させようとした。
  • 裴度は、王鍔はすでに死に、その献上だけでも十分多かったのに、さらに奴の告発によって家を捜索すれば、諸将帥は自分の死後を案じるようになると諫めた。
  • 憲宗はすぐに使者を止め、告発した奴二人を京兆府へ渡して杖殺させた。

柳公綽の京兆尹就任

  • 庚子、給事中柳公綽を京兆尹に任じた。
  • 柳公綽は着任早々、神策軍の小将が馬で道を横切って先払いをしたため、馬を止めてその場で杖殺した。
  • 翌日、延英殿で憲宗は顔色を変えて専断の理由を問いただしたが、柳公綽は、京兆は輦轂の模範となる地であり、着任初日に小将が詔命を軽んじて横暴に振る舞うのは、臣ではなく陛下を侮るものだ、自分は無礼な者を罰しただけで神策将軍を打ったつもりはないと答えた。
  • さらに、奏聞すべきなのは本軍・金吾・街使・巡使の職掌であって、自分の職責はその場で杖することにあると論じた。
  • 憲宗はこれに罪を加えられず、退いて左右に、そなたたちはこの人物に十分注意せよ、自分もまた彼を畏れると語った。

淮西督戦の強化

  • 討淮西諸軍は九万近くに及んだが、憲宗はなお諸将の無功に怒った。
  • 辛巳、樞密の梁守謙を宣慰使として派遣し、そのまま軍中に留まって監督させた。あわせて白地の告身五百通と金帛を授け、死力を尽くした者への恩賞にあてさせた。
  • 庚寅、先に李光顔らへ検校官を加えたうえで、別の詔で無功の将には必ず罰があると厳しく戒めた。
  • 辛卯、李文通は固始で淮西兵を破り、千余級を斬った。

十二月 成徳戦線の挫折と李愬の起用

  • 壬寅、程執恭は長河で成徳兵を破り、千余級を斬った。
  • 義武節度使渾鎬は王承宗との戦いにしばしば勝ち、全軍を率いてその境を圧し、恒州の三十里まで進んで陣した。
  • 王承宗は恐れて、ひそかに渾鎬の後方へ兵を入れ、城邑を焼き掠めたため、人心は動揺して内顧するようになった。そこへ中使が戦闘を督促したので、渾鎬は進んで恒州に迫ったが、大敗して定州へ逃げ帰った。
  • 丙午、朝廷は易州刺史陳楚を義武節度使に任じた。軍中では渾鎬とその家人の衣服まで剥ぎ取る騒ぎとなり、陳楚が急行して兵を鎮め、軍中から衣服を集めて渾鎬に返し、護衛を付けて帰朝させた。陳楚は定州の人で、張茂昭の甥だった。
  • 丁未、王涯を中書侍郎・同平章事に任じた。
  • 袁滋は唐州に着くと、斥候を撤去し、兵を止めて呉元済の境へ侵入させなかった。呉元済が新興柵を包囲しても、袁滋はへりくだった言葉で解囲を願うだけで、呉元済は以後、袁滋を脅威とみなさなくなった。
  • 朝廷もその実情を知り、甲寅、太子詹事李愬を唐随鄧節度使に任じた。李愬は李聴の兄で、李晟の子である。
  • このころ淮潁水運使を置き、揚子院の米を淮陰から淮・潁・溵をさかのぼって郾城へ送らせ、討淮西軍の補給にあてた。これにより汴運の費用を大きく節減した。
  • 己未、容管は黄洞蛮が巖州を屠ったと奏した。