資治通鑑唐紀五十五 憲宗 元和九年 809年

春正月 振武反乱の処断

  • 甲戌、王鍔は兵五千を張煦と善陽柵で合流させた。
  • 乙亥、張煦は単于都護府に入り、反乱の首謀者蘇国珍ら二百五十三人を誅した。
  • 二月丁丑、李進賢を通州刺史に左遷し、甲午、駱朝寛も反乱を放任した罪で杖八十・品秩剥奪・定陵での使役を命じられた。

李絳の罷相と吐突承璀の復帰

  • 李絳は足の病を理由にたびたび辞職を願い、癸卯、礼部尚書として罷められた。
  • もとは李絳を宰相にする際、吐突承璀を淮南監軍へ出していたが、このとき承璀を召し返し、李絳罷相の翌日、弓箭庫使・左神策中尉として復帰させた。
  • これは朝議の反応を見るための人事でもあったが、李絳が去ったあと承璀を正面から論難できる者はいなかった。

宥州の復置

  • 李吉甫は、かつて霊塩方面に置かれた六胡州が開元年間に廃され、その後は宥州を置いて降戸を領したが、宝応以来形骸化しているとして、回鶻への備えと党項の懐柔のため宥州を復すべきだと奏した。
  • 憲宗はこれに従い、夏五月庚申、宥州を経略軍の地に復置し、鄜城の神策屯兵九千を移して実兵とした。

回鶻との和婚をめぐる議論

  • 回鶻は以前からしばしば婚姻を求めていたが、公主降嫁には費用がかさむため、朝廷は応じていなかった。
  • 李絳は、回鶻は強大で、無視してよい相手ではないと述べた。淮西討伐を進めるには北方を安んじる必要があり、大県一つの歳入で公主降嫁の費用は賄えるのだから、そこを惜しんで強敵をつなぎとめないのは得策でないと主張した。
  • 回鶻が婚姻を許されれば喜んで疑いを解き、その間に城塹・兵甲を整え、安心して淮西攻略に専念できると説いたが、憲宗は採用しなかった。

張弘靖の入相と公主降嫁

  • 乙丑、桂王綸が薨じた。
  • 六月壬寅、河中節度使張弘靖を刑部尚書・同平章事とした。張弘靖は張延賞の子である。
  • 憲宗は、これまでの尚主が貴戚・勲臣の家に偏っていたのを改め、宰相に命じて、公卿大夫の子弟のうち文雅で清貴な職にふさわしい者を選ばせた。
  • 多くの家が辞退したが、杜佑の孫で司議郎の杜悰だけは応じた。
  • 秋七月戊辰、杜悰を殿中少監・駙馬都尉とし、岐陽公主を降嫁させた。八月癸巳に婚礼が行われた。
  • 公主は賢明で、杜氏の一門の長老たちにも家人同様に謙虚に接し、二十年にわたり驕りを見せなかった。宮中から賜った奴婢が扱いにくいと見て、自ら市で従順な者を買い、家門を静粛に保った。

閏月 呉少陽の死と呉元済の継承

  • 閏月、彰義節度使呉少陽が死んだ。
  • 呉少陽は蔡州で密かに亡命者を集め、馬騾を養い、寿州の茶山を略奪して軍資を補っていた。
  • 子の呉元済は父の死を秘して病と称し、自ら軍務を掌握した。

淮西討伐構想の再燃

  • 憲宗は蜀平定後から淮西征討を考えていた。淮南節度使だった李吉甫は、呉少陽の軍内は上下離反しているので、治所を寿州へ移して経営すべきだと以前から述べていたが、その時は王承宗討伐で手が回らなかった。
  • 李吉甫が宰相となり、田弘正が魏博をもって帰順すると、河陽に重兵を置く必要は薄れたとして、辛酉、河陽節度使烏重胤を汝州刺史・河陽懐汝節度使とし、治所も汝州へ移した。
  • 己巳、田弘正には検校右僕射を加え、軍に銭二十万緡を賜った。田弘正は、河陽軍の移転こそ朝廷が自分を疑っていない証だと喜んだ。

淮西周辺の布陣

  • 九月庚辰、洺州刺史李光顔を陳州刺史・忠武都知兵馬使とした。
  • 泗州刺史令狐通を寿州防禦使に任じた。令狐通は令狐彰の子である。
  • 丙戌、山南東道節度使袁滋を荊南節度使、荊南節度使厳綬を山南東道節度使とし、淮西周辺の配置を改めた。

呉元済への諫言者たち

  • 呉少陽の判官蘇兆、楊元卿、大将侯惟清らは、少陽に入朝を勧めていたため、呉元済に憎まれた。
  • 呉元済は蘇兆を殺し、侯惟清を囚えた。楊元卿は先に長安へ来ており、淮西の実情と呉元済攻略策を李吉甫に詳しく伝えた。
  • 楊元卿は、蔡州からの使者が来たら各地で止めて情報を封じ、少陽の死後もしばらく朝廷は喪を公にせず、周辺諸鎮の将帥を入れ替えて備えるべきだと勧めた。
  • 呉元済は楊元卿の妻と四人の子を殺し、射場の土塁に塗り込めた。
  • 淮西の宿将董重質は、呉少誠の婿であり、呉元済の軍略面の中心となった。

呉元済討伐の決定

  • 戊戌、河東節度使王鍔に同平章事を加えた。
  • 李吉甫は、淮西は河北諸鎮と異なり援軍となる党援がなく、しかも国家はこの地に備えて常に莫大な兵を宿営させて費用を費やしているので、今取らねば後が難しいと憲宗に説いた。
  • 憲宗は討伐を考えたが、張弘靖はまず呉少陽のために朝廷として喪礼を行い、贈官し、使者を送って弔わせ、そのうえで不順の迹が現れたら兵を用いるべきだと主張した。
  • 憲宗はこれに従い、工部員外郎李君何を弔祭使として派遣した。
  • しかし呉元済は詔使を迎えず、兵を四方へ出して舞陽を屠り、葉を焼き、魯山・襄城を掠め、関東を震え上がらせた。李君何は入境できずに帰還した。

冬十月 李吉甫の死と対淮西戦の本格化

  • 丙午、中書侍郎・同平章事の李吉甫が薨じた。
  • 壬戌、李光顔を忠武節度使に進めた。
  • 甲子、厳綬を申光蔡招撫使として諸道兵を督し、呉元済討伐にあたらせた。
  • 乙丑、宦官の崔潭峻をその軍の監軍とした。
  • 戊辰、呂元膺を東都留守とした。
  • このころ党項が振武を侵した。
  • 十二月戊辰、韋貫之を同平章事に任じた。