春正月 田融の任用
- 癸亥、博州刺史の田融を相州刺史に移した。
- 田融は田興の兄で、幼くして孤児となった弟を養い教えた人物だった。田興が若いころ軍中の射芸競技で一軍に並ぶ者がなかったとき、田融はかえってこれを戒め、才能を露わにすれば禍を招くと諭した。そのため田興は田季安時代の猜疑深く荒々しい政権下でも身を全うできた。
渤海王の代替わり
- 渤海の定王元瑜が死去し、弟の言義が国務を仮に執った。
- 庚午、朝廷は言義を渤海王に冊立した。
宰相の異動
- 李吉甫と李絳はしばしば憲宗の前で論争したが、権徳輿は中間にいて賛否を明らかにしなかったため、憲宗はこれを軽んじた。
- 辛未、権徳輿は宰相を罷めて本官に戻された。
- 辛卯、魏博節度使田興に「弘正」の名を賜り、司空・同平章事を加えた。
于頔父子の失脚
- 于頔は長く長安に留め置かれ、不満を募らせていた。梁正言という者が、樞密使梁守謙と同族で、願い事の仲介ができると称したため、于頔は子の于敏に多額の賄賂を持たせて外鎮への再任を求めた。
- ところが梁正言の詐欺が露見し、賄賂の返還を求められると、于敏は彼の奴を誘い出して惨殺し、厠に捨てた。
- 事件が発覚すると、于頔は子らを率いて喪服姿で建福門へ出頭したが、門者は入れず、表も罪人ゆえに印や内引がなく受理されなかった。
- 丁酉、于頔は恩王傅へ左遷され、朝参も絶たれた。于敏は雷州へ流され、秦嶺に至る途中で死んだ。ほかの子らも貶官された。
鑒虚の処刑
- この事件は僧の鑒虚にも連座した。鑒虚は貞元以来、金銭で権幸と結び、方鎮から賄賂を受け取って豪奢に暮らしていたが、役人も手出しできなかった。
- このとき権幸たちは競って助命を願い、憲宗も釈放を考えたが、御史中丞薛存誠が強く反対した。
- 憲宗が中使を送って「面前で取り調べたいだけで、放免するつもりではない」と伝えたのに対し、薛存誠は、もしその僧を先に連れ出すならまず自分を殺せと応じた。
- 憲宗はその剛直さを嘉し、三月丙辰、鑒虚を杖殺し、財産を没収した。
武元衡の再入相
- 甲子、前西川節度使で同平章事だった武元衡を召し返し、再び政務に参与させた。
夏六月 洪水と後宮整理
- 夏六月、大水があり、憲宗は陰気が盛んな兆しと受け取った。
- 辛丑、宮人二百車分を宮外へ出した。
受降城の移転論争
- 秋七月、振武節度使李光進は、受降城を修理し、あわせて河防も整えたいと請うた。
- 当時、受降城は黄河の損壊を受けていたため、李吉甫はその住民と兵を天徳故城へ移すべきだと説いた。
- これに対し李絳と盧坦は、受降城は張仁愿が築いた辺防の要地で、優れた水草もあり、ただ河患を避けて少し退けば足りるのであって、永続的な国防の利益を捨てて一時の費用節減を取るべきではないと主張した。天徳故城は辺鄙で痩せ地であり、烽火の連絡にも不利だとした。
- 城使周懐義も李絳らと同意見を奏したが、憲宗は結局李吉甫の策を用い、受降城の騎士を天徳軍に属させた。
- 李絳は、辺軍は名目ばかりで実数も装備も乏しく、将帥は私役と蓄財に走って訓練を怠っていると述べ、平時にこそ厳しく査閲すべきだと勧めた。受降城では帳簿上四百人の兵が、引き渡し時には五十人しかおらず、器械も弓一張しかなかったという実情が明らかになった。
天威軍の廃止と辰溆の降伏
- 乙巳、天威軍を廃し、その兵を神策軍に編入した。
- 丁未、辰・溆の賊帥張伯靖が降伏を請い、辛亥、帰州司馬に任じて荊南軍前駆使に付属させた。
吐蕃の烏蘭橋
- 吐蕃は黄河上に烏蘭橋を架けようとし、まず橋材を河岸に貯えていた。朔方側は密かにそれを河へ投じて工事を妨げていた。
- しかし吐蕃は、朔方霊塩節度使王佖が貪欲であることを見抜き、まず厚く賄賂を贈ってから工事を進め、橋を完成させて月城まで築いた。
- これ以後、朔方は防戦に追われることになった。
冬十月 回鶻接近と振武軍の反乱
- 回鶻が兵を発して磧を越え、柳谷の西から吐蕃を攻めた。壬寅、振武・天徳軍は、回鶻の数千騎が鸊鵜泉に来たと奏し、辺軍は戒厳態勢に入った。
- 振武節度使李進賢は士卒を顧みず、判官厳澈も苛刻さで李進賢に取り入っていた。楊遵憲に五百騎を率いさせて東受降城へ向かわせたが、支給物資の多くは水増しされ、鳴沙では将は屋内に宿り兵は野宿させられた。
- 兵たちは怒り、夜に薪を積んで楊遵憲の宿所を焼き、武装したまま帰還した。庚寅夜には軍門を焼き、李進賢を襲撃し、その一家と厳澈を殺した。李進賢は城を越えて静辺軍へ逃れた。
- 朝廷では群臣が徳妃郭氏の立后をたびたび請うたが、憲宗は外戚の勢力が強くなることを恐れ、禁忌を口実に認めなかった。
- 丁酉、振武監軍駱朝寛は反乱鎮定を奏し、将士に衣服を賜るよう求めた。憲宗は怒り、夏綏節度使張煦を振武節度使とし、夏州兵二千を率いて赴任させ、河東節度使王鍔にも兵二千を付けてこれを護送させた。便宜に従って処置することも許した。
- 駱朝寛は罪を将の蘇若方に転嫁して殺した。
水害対策と朋党論
- 鄭滑・魏博の兵を動員し、黎陽の古河道十四里を掘り開いて滑州の水害を軽減した。
- 憲宗が、外では朋党が盛んだというがどういうことかと問うと、李絳は、古来、君主が最も嫌うのが朋党であるため、小人は善人を害する際に必ず朋党と決めつけると答えた。
- 東漢末に宦官が天下の賢人を「党人」と呼んで禁錮し、ついに国を亡ぼした例を挙げ、君子が君子と結ぶのは自然であり、それだけで朋党視してはならないと諫めた。